156 終わった時代、終わらない渇き 1
空の頂上にあった太陽は、次第に西に傾きつつあった。正午を過ぎた神社の森は、そこに住まう生物たちが引き起こす騒がしさと、何か、見えないものを守ろうと枝を伸ばす木々の静寂がひしめきあい、ぎしぎしと異様なほどに密度が高まっているようだった。
ふいに、風が止んでしまうと、それまで揺れていた木々たちの影は動かなくなった。野放図に広がった枝から、そこから生えている小さな葉まで、ピタリ、と残らず動きが止まる。
それはまるで、彼らが急に目を光らせ、神経を尖らせて、周囲に警戒しているようだった。
ザリッザリッ――。
と、見れば、そんな木々の中を、細く伸びる小道を、一つの小柄な影が少しずつ前進している。のろのろ、のろのろ、と動いている。
疲れて早く進むことが出来ないのか、その影は持っている杖に縋りつくようにしているのが分かった。次第に、その影の輪郭が明らかになる。
杉下老人である。
彼は、つい数時間前まで、榊晴臣の宅におり、さつきの神の風によって倒されてしまったかに見えたのだが、その後、こっそり家を抜け出し、先に進んでいった隆二の後を追って、この森にやってきたのだった。
遅れること、数時間でようやくここまでたどり着いたのである。
しかし、追ってきたまではよかったもの、その行動には、ある問題が生じていた。
それは――。
「ふう、ふう……」
老人は、荒く呼吸をしながら、立ち止まると、持っている杖に縋りつき、呼吸を整えた。先程から少し進むたびに、ずっとこの調子で、少し進んで立ち止まり、また進んで立ち止まり、を繰り返しているのである。
「くそう、ふう、ふう……老いた体というものはいつでも不便なものだな」
吐き出す息と共に、そう悔しそうに言葉を滲ませながら、また、歩み出す。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、老人には、体の中で小さな悲鳴が上がるのが分かった。さながら、部品が錆びついて思うように動かなくなった機械のようだ。
嗚呼、若い頃は、あんなにも体はしなやかに躍動していたというのに……。
嘆息する老人の心の水面に、静かな絶望が打ち寄せる。
こうして、必死にあの榊春臣の後を追ってきたというのに、その後姿を見つけられないうちから、このザマとは。ふがいない話だ。
しかし、それにしても。
老人は周囲に視線を向けるため、首を上げる。
あの、隆二の奴はどこへ行ったのか。先に行ったというのに、姿が見えないところを見ると、あのガキの仲間にやられてしまったのかもしれんな。
だとすれば、厄介なことだ。
「おちらの手下の者どもも二人ともやられてしまったようだったしのう」
老人は言いながら、今なお、榊少年宅に気絶して寝転がっているであろう、屈強な男達を思い出す。
「全く……」
他に連れてきた者はいないし、だからといって、今更他の誰かを呼び寄せるのも、時間がかかる上、面倒だ。
何ということだろうか。
「全く、誤算ばかりだ!」
そう撒き散らすように叫んで、老人は杖で地面を強く叩いた。
「全く、全く、全く役立たずどもめが!!」
何度も、何度も、地面に杖が突き刺さり、土がえぐれ、その飛礫がぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに、周囲に飛び散った。
くそ、くそ、ちっとも、わしの思い通りに動かん。
「結局、最後に信じることの出来るのは、わし自身ということか……」
そう、老人は吐き捨てる。
ならば、ならば、
「もはや、他の、誰の、助けもいらん」
わしだけ、わしだけの力でいい。
「わしだけが、わしのこの手で、神の力を掴みとるのだ」
おのれ、今に見ておれ、榊春臣。
お前を出しぬいて、あの赤髪の女を手に入れてやる。
そして、そして、念願の神の力を、我が手に――。
そう思うと、笑いが自然とこみ上げ、体が揺れる。
「ハハハハハ……」
ガハハハハハ。
しかし、その老人の笑い声は、すぐに呼吸が詰まって、ヒューヒューという喉の奥から出る苦しそうな音に変わった。大きく咳き込み、老人は持っていた杖に寄りかかって、肩を上下して呼吸をする。
「はあ、はあ、くそっ……これが老いというものか……全く、くだらん」
しかし、この時間の残酷な流れからは誰も逃れられない。
それは老人でも、昔から経験上、痛いほどに知っていた。
そう、生きとし生けるものは皆、最後には命果て、死に絶えるのだ。今まで、そうやって消えていった者たちを多く知っている。
あの、楠哲夫もそうだった。
老人は思い出した。
わしのプライドをズタズタにしたあの、憎き男でさえも、だ。
体を病に侵され、みるみるうちにやせ細り、ついには、自分で起き上がることもできなくなり、永き眠りについた。そう、さっぱりと、呆気無く、息を引きとって、死んだのだ。
わしが手を下す暇もなく、だ。
人の命は、斯様にも、儚いのだ。
哲夫の死を聞いた時の心境を、老人は今でも鮮明に覚えている。
そして、そのことを思うと、老人は自分の体にまさにその死がひたひたと手を当て、刃を突き立てる場所をどこにするかと品定めされているような気分になった。
鼓動が早まり、胸が窒息しそうな圧迫感を感じる。
「ば、馬鹿な……」
強く首を振る。
「わしはそんな苦しみからは近いうちに開放されるはずなのだ。神の力を手にすることができれば……」
そう、もうすぐに。
わしは、無敵になるのだ。
わしが、わしこそが最強なのだ。
きっと、死をも克服出来る。
そうだ、そのはずなのに――。
それと同時に、どうしようもなく、老人の胸の奥がざわついた。自分が存在の消滅から逃れようとするたびに、どこまでも振り払っても、『それ』はついてくる。
ああ、これはきっと、あの少年の中にあるものと、同じものだろう。老人は思う。
眼を閉じて『それ』に触ると、それは、どこまでもざらりざらりと指に引っかかり、加えて、うっとおしいほどの、重みもあった。
全く、一体なんなのだ、これは。
長い間、胸の奥で凝り固まったしこりのような……。
すると、
そこで再び、
あの、楠哲夫のことが思い出された。
フラッシュバックのように、映像が次々と目の前に映し出される。急に眩しい光に照らされたように、老人は思わず目を伏せた。
どうして、あいつのことを今日は何度も思い出すのだろうか。思い出したくもないのに。
『杉下さん、あなたは時々、とても悲しい目をしていることがある』
あいつは、いつだったかこう言ったことがあった。
『あなたは、自分の人生が寂しいと思ったことはありませんか?』
あの時、自分は、どう答えたのだったか。確か、そんな馬鹿なはずはないと笑って返したような気がする。自分の人生はとても満足のいくものだと。少しも、後悔などはない、と。
しかし、哲夫の表情は変わらず、いまだ静かに老人のことを憂いているように見えた。
『私はね、前にも一度、そういう目を見たことがあるんですよ。孫のこと、なんですがね』
と、自分の話を始めた。
『あれは、私の妻が死んじまったあの日のことです』
哲夫は遠い目をしながら、淡々と話した。
『私はね、あの時、自分から魂が抜けちまったと思った。とても大切なものを失った悲しみで、他のことが全て頭から消えちまって、このままどこか、誰にもいないところに行ってしまいたいと思ったのですよ。全く、それまで何十年も生きてきたっていうのに、情けない話ですがねえ』
そう言って自嘲気味に、茶化すように、哲夫は笑った。しかし、その裏には、深い後悔の念が横たわっているのを老人は感じとる。
『しかしねえ、あの時の自分の姿を孫に見られたのが一番の失敗だった』
そう語る姿は心底悔しそうだ。
『あの時の、私を見た孫の顔と言ったら、全ての悲しみを通り越した、失望だったんですよ。あいつはあの時、とても大事なものを同時に失ったんです。一つは、よく面倒を見ていた妻だったが、もう一つは、密かに将来の目標にしていた私という存在だった。あいつはねえ、なぜかは知らないが、私に憧れてた』
それは、後になって知ったんですがねえ。
『あいつは、きっとあんな私の姿を見て、がっかりしたんでしょう。いや、がっかりなんて生やさしいもんじゃねえ。幼いあいつには、それだけのことでも、ぎりぎりの崖っぷちに追い詰められるような、深い絶望を知ってしまう原因になったんです。あいつはあの時、信じていたものを全てを断ち切られた気持ちになったんだ。触れただけで凍りつきそうな、冷たい孤独に触れてしまったんだ』
そんな、悲しい目付きをね、私に向かってしてたんですよ。あの冷たい視線、ぞっとしました。
きっと、今ではすっかり忘れちまってるでしょうがね……。
そうして、それ以来、哲夫は、プツンと糸が途切れたように、急に黙りこくってしまったのだった。
そこで、映像は途切れる。
ふん、なぜこんなことを思い出すのだろうな。
老人は、鼻息を飛ばした。
単なる老いぼれの戯言ではないか。一文の値打ちもあるわけがない。聞く価値などない。覚えている必要すらない。
そんなどうでもよい過去の些事にばかり囚われているから、あいつはわしに負けたのだ。
もっと未来に目を向け、完璧な独占と、十分な満足を感じることこそが、人間には必要だと言うのに。
深い溜息を吐きながら、老人は額の汗を拭う。
そして、その汗が妙にひんやりしていたことに一瞬ぎょっとするが、すぐに、そんなことはどうでもよくなった。
「――」
そこで老人は、急に接近してくる大きな羽音を聞いたのである。
何だ?
ふいに、見上げると、巨大な鳥の影が自らの頭上に降り立ってくるところだった。