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天罰なんて怖くない!  作者: ヒロユキ
第六部 黎明の炎編
153/172

153 繋ぐモノ

 足元から崩れ落ちるとは、まさにこのことだろう。

 春臣は媛子の姿が暗い木々の向こうに消えていくのを見つめていた間に、いつのまにか、両膝をついて蹲っていた。支えを無くした棒切れのように頼りなく、床と衝突する既のところで、かろうじて、両手で自分を受け止めている。

 神社の古めかしい板張りの床から伝わる冷たさがささくれだった心を逆撫でするように、妙にひりひりと感じた。

 悪寒が背筋をひたひたと這い回り、吐き気すらしそうである。喉元に酸っぱい何かがせり上がっていた。嗚呼、いっそ、吐いてしまえばいいだろうか。


「どうした? 追わぬのか?」


 聞こえたその声も誰のものか分からず、春臣はすぐに返事が出来なかった。

 振り向こうとして、そこにいる『存在かみ』を思い出し、


「千両様、ですか」


 と、訊ねる。


「まさか追うって『あの』媛子を、ですか……?」

「そうだ。他に誰がいる。早くせぬと、見失ってしまうぞ」


 春臣の視界が灰色に煙る。

 この神は、この神は、本気でそんなことを言っているのだろうか。

 たった今の春臣と媛子とのやり取りを聞いて、いったいどこにそんな行動を実行に移す意味があるだろうか。一体どこに、その行動によって見出される希望があるだろうか。

 春臣は胃袋をぎりぎりと絞るようにして声を出す。


「今の俺が、俺なんかが、彼女を追ったところで、何が出来ますか?」

「さあのう……」


 まるで、他人事のように、神は言う。


「また、あの夜叉媛に拒否されるのが関の山、というところか」


 何だって?

 春臣は耳を疑った。

 これが、これが、神の言葉なのか。

 それは、あまりにも、無責任に突き放した言い方だった。

 ついさっきまでは、まるで傍で見守ってくれている母親のような優しさがあったのに、この態度の変化は何なのだろう。

 そう思った瞬間、春臣の中で怒りの火種が燻りかける。何か、苛立ちに身を任せて、ぶちまけてしまおうかと思ったのかもしれない。

 しかし、すぐに、それも、春臣の中に訪れた、無気力の風に吹かれて消え去ってしまう。喉がガラガラになって、乾いた咳が出た。


「ゴホ、ゴホ……」


 嗚呼――。

 全てが、溢れすぎて、無感情。

 それが、今の春臣の中身だった。

 すると、


「悲しみ、悲しみ、戸惑い、苛立ち、怒り、無気力、空虚、空虚、焦り、焦り、悲しみ、絶望、戸惑い、絶望、後悔、後悔、沈黙、沈黙、空虚、空虚、焦り、悲しみ、絶望、戸惑い、絶望、後悔、沈黙、後悔、後悔、沈黙……」


 何かを、神が呪文を唱えるように、呟く。


「怒り、怒り、後悔、悲しみ……お前の中には、様々な感情がひしめいている」


 どうやら、春臣の内を覗いているらしい。


「それが、何ですか?」


 別に、特に、聞きたくもなかったが、一応、聞いてみた。


「うむ。お前がいよいよ、行き止まりのどん詰まりの袋小路に来てしまったということだな」


 春臣は、


「そうですね」


 と、感情のこもらないトーンで、肯定をした。

 そして、それにつられて、言葉が口から漏れ出る。


「俺には、もう分からなくなってしまったんですよ……良かれと思って選んだ言葉が、結局、彼女を逃げられない場所まで、最後の崖っぷちまで追い込んでしまったなんて……信じたくない。でも、それは逃れようのない現実で、もう、何もかも八方塞がりなんです。ここに来て、起死回生だの、一発逆転だの、そんな方法は存在しない。あの深い闇の底に沈んだ彼女の心を引っ張り上げるなんて、とても、俺には出来やしない」


 そこにあるのは、ただの、絶望、なんです。

 春臣は呟く。

 もう、全然ダメなんですよ……かみさま。


「そうか」


 それに応じる神の言葉は、やはり、あっけらかんとしていた。


「それなら、仕方がないかもしれぬな」


 春臣はそのまま魂が抜かれてしまうような心地になる。

 仕方がないって……。

 それが、今の自分にかける言葉なのか。

 いや、そもそも、神だからといって、期待する自分がいけないのか。このなんともならない、雁字搦がんじがらめの状況を解きほぐしてくれることを、願うなんて。自分は甘えているだけなのだろうか。

 神は言う。


「心に決めた固い意思というものは簡単に覆らん。あの娘の中の揺るぎない道理によってあの答えが導きだされているのならば、その考えを断ち切ることは容易ではないだろう」

「……」


 そう、だよな。

 無言で、眼を閉じる。

 春臣は、震える体を入ったり抜け出たりする、空気を感じた。そして、そんな空気さえ、今や疎ましく思っている自分に気がついた。

 もう、そんなものなんていらないから……。

 いっそのこと、この体から、空気という空気を搾り出して、自分をすっからかんに出来ないだろうか。そして、何も出来ずに消えていくことは出来ないだろうか。

 きっと、それこそが、今の自分に対する、唯一の救いになるのかもしれない。


 だが、そこで、


「しかし……」


 暗雲から、一筋の光が差し込んだような、神の声が聞こえた。


「榊春臣、お前の気持ちはどうなのだ?」

「え?」


 思わず、顔を上げる。


「確かに先ほど、あの娘は全ての事に目を伏せ、背を向け、自ら、罪の闇の中に身を投じる決意をお前に告げた。それはおそらく、死ぬつもりであるということだろう。そして、それによって、お前があの娘に対して行えることは、もはや、何もないという結論に至った。説得は無理だという結論に至った。だが、それで、お前の気持ちまで納得出来るかと言えば、そうではないだろう? もし、それできっぱりとあの娘のことを諦めることが出来るのならば、お前は悲しみに暮れる必要も、後悔の念に苛まれる必要もないわけだ。よいか、心とは、世界が導きだす答え、道理、運命などで、簡単に割り切れぬものだ。それらとは違う次元に位置するものだ。殺しても殺しても、死なず、拭っても拭っても滲み出してくるのが、感情だ、気持ちだ。違うか、人の子よ。お前の本心は、今にでもかけ出して、あの娘をもう一度、穏やかな暮らしを取り戻したいと願っているのだろう。どうだ?」

「そりゃ……」


 言いかけて、こらえていた嗚咽が春臣の喉に、こみ上げる。ドクンドクン、と目尻に湿っぽい熱が溜まる。


 当たり、前だろ。

 つうか、当たり前だ。

 自分が、そう思うのは、めちゃくちゃ、当たり前なんだ。

 頭の先の髪の毛の一本から、足の小指の爪の先っぽまで、徹頭徹尾、当たり前なんだよ!!


 だって、媛子を、俺は、俺は……。


「そうですよ。俺は……媛子を諦めたくない」

「そうだな。お前の気持ちはいつだって、そこにある。ちゃんとある。大事な内なる箱に入っている。そして、お前のその想いを紡ぎ出しておる『大切なもの』は、まだあの娘と繋がっておる」

「媛子と繋がってる、大切な、もの?」


 春臣がそれを疑問に思うと、神は微笑んだようだった。


「ふふふ、それはわらわが言うまでもない。なぜなら、お前はそれにすでに気づきかけているのだからな」


 気付き始めている……。

 春臣には、その神が一体何を言おうとしているのか、まだ、分からなかった。

 しかし、媛子を思えば、自然と沸き上がってくる気持ちの根っこにあるもの、その輪郭を春臣は知っている気もした。

 そう、それは、これまで春臣が出会い、関係を築いてきた人々全てに、『つながっている』モノ。

 手繰り寄せれば、どこまでもどこまでも、際限なく広がる何か、だった。


 そして、それは、他者を拒絶し、孤独になろうとしていた自分とは、全く対極に位置するモノであることも、何だか分かる気がする。


 すると、神は高らかに歌うように、言った。


「さあ、いざ訊ねよう、人の子よ。あの娘の気持ちは今は関係ない。お前の言葉で、お前の声で、お前の答えを、わらわと一つ一つ確認していこうではないか」

「かく、にん?」

「うむ。まずは、お前にはあのホカノと共に生きておく覚悟あるのか?」

「……はい、もちろん」


 自分自身に問いかけつつ、春臣は頷く。


「それが、困難な道のりと知っていて尚、進みたいと思っているのか?」

「はい」

「お前は、あの者を愛しているのか?」

「はい」

「その気持ちは、誰にも、根絶やしに出来るものではないな?」

「はい」

「当然、それはあの娘自身にも、だな?」

「……はい!」


 そう言い切った途端、体中に新鮮な血液が巡るのを感じた。冷たい川の流れの中で目覚めるような、透明な清々しさと瑞々しさを春臣の意識が取り戻す。

 まだ、頑張れるような気がした。

 膝を起こして立ち上がる。


「よし、ならばお前は、大丈夫だ。お前にはまだ繋がりを保とうとする気持ちがある。輝きに満ちた自信がある。ならば、遠慮はいらぬぞ。自分に納得ができるまで、最後まで、戦ってくるといい。背後のことは心配するな。わらわたちがきちんと始末をしておこう」

「始末、ですか」

「そうだ、後のことは一切合切、わらわたちに任せるのだ。だから、安心せよ。何も考えず行ってくればよい」


 神のその言葉はこれまで以上に頼りになるものだった。

 そして、ふっ、と姿が風にかき消えてしまう。

 もう、行け、という意味に違いない。


 春臣は背後を振り向く。 


 と、その刹那――。

 ふいに、春臣の中で湧き出るように、これまでの道のりで離れ離れになってしまった友人たちの顔が思い浮かんだ。


 皆、無事だろうか。そんなことを思う。

 願いがかなうなら、どうか、無事でいてくれ。

 続いて、罪悪感が胸を刺す。

 嗚呼、彼らをこんなことに巻き込んで、本当に、申し訳ない。

 とても面目ないし、全ての借りを返せないかもしれない。

 でも、俺は弱いから、きっとこれからも頼りにしてしまうだろう。

 手を引いて欲しいと、幼い子どものようなことも頼むかもしれない。

 春臣は切実にそう思う。


 でも、それでも、一緒にいてほしい。


「必ず、あいつを連れ戻してくるからよ!!」


 そう、全てをあるべき場所へ。


 春臣は目の前にぽっかりと暗闇の穴を開けた木々の向こうを見つめながら、おもむろに膝の砂を払った。心の中でカウントする。


 さあ、走れ!

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