151 罰する者
「それで、次は別の問題だ。この夜叉媛についての、のう」
そう言って、千両神は再び、口調を厳しくした。
「媛子、ですか?」
そう聞き返した途端、急に首筋に静電気が走ったような、感覚がした。見れば、目の前にいたはずの千両神がいない。
「え?」
驚くことに、神は春臣のすぐ背後に立っていたのだ。瞬間移動をしたのか、とも思うが、先程の話では神の姿は、春臣が見ている立体映像のようなものであることが分かっているので、どこからどこへ現れようが、自由自在なのだろう。
しかし、こうして実際に近くに来られると、やはり、自然と体が熱くなるような、不思議な力を春臣は感じた。まるで海の中に立っているように、ざぶんざぶんと、間近から見えない力の波が体に打ち寄せてくる。
「ふふ、驚かしてすまない。わらわはのう、お前に近づいて、お前の考えをもっとよく知りたいと思ったのだ。お前が見ているものを、お前が感じていることを」
「……え、と」
「ふふん。わらわは、お前に興味がある。とてもとても、な」
「興味、が?」
「大丈夫だ、安心しろ。近づいただけで取って食ったりはせん」
神が優しくそう言うと、春臣の両肩に何かが触れたような感触があった。じんわりと目に見えないぬくもりが伝わってくる。
「あ、あの、千両神様?」
しかし、振り向こうとすると、春臣の頭が途中で止まった。神の見えない力によって、押さえられたのである。そして、視線が無理やり、媛子の方へ戻される。
「人の子よ。今はわらわよりもそやつをよく見よ。その者のことを考えよ」
「媛子、を?」
「そうだ。よく聞くのだぞ。そいつがお前に犯した罪のことを。お前はそれを聞いて判斷をしなくてはならない。だから、よく考えるのだ。他のことは考えるな」
いやが上にも、媛子と目が合う。
彼女の、魂の抜けたような、壊れかけた顔を真正面から捉えた。
「さあ、問題の時間だ、人の子よ」
途端、ざわわ、と冷たい空気が春臣の中に渦巻いた。
「別世界からやってきたホカノであるこやつは、自らを『神』と名乗り、お前を騙した」
騙した、騙した、騙した、だました、だました、ダマシタ……。
神の声が撃ち放たれた銃声のように、脳内に反響する。
「お前が様々な危険に苦難に晒されつつも、必死に守ろうとしていたそやつは、お前を今までずっと、裏切っていたのだ。分かるな? そやつはお前のその守りたい、相手のために強くありたいという、純粋無垢な気持ちを踏みにじるような行為をしたのだ。どうだ、それは卑しい行為であろう?」
千両神の言葉が今度は媛子に向けられる。
「夜叉媛よ、今、わらわが話したことは事実だな?」
「はい、間違いありません。私は、彼を騙しました」
春臣の視界がぶれる。紫色の霞がかかる。
彼女は自分を騙した。
それは、それは、確かに……そうだ。
そうだ、けれど……。
「どうだ、人の子よ」
それはまるで、わが子の肌を愛撫するような柔らかな声だった。
「わらわはな、ここでお前に一つの裁きを下して欲しいのだ」
「さ、裁き?」
「そうだ。よく聞け。わらわは神だ。上に立つものだ。この者たちを管理する立場におる。ならば、この者が粗相をしでかせば、それを罰するのが道理だ。悪いことをすれば、罰せられる。それは誰でも同じことだろう。分かりやすく言えば、天罰を下す。わらわはな、その『権利』をお前にやろうと思うのだ」
「天罰を下す、権利を、ですか……?」
「うむ。お前はこいつに騙された張本人だ。だから、お前の判斷でこやつの罪を裁き、それ相応の報いを受けさせてやろうと言うのだ。どんなことでもいい。こやつをわらわの力で、罰してやれるのだぞ。お前は、どうしたい? 答えを聞きたい」
「こた、え……?」
春臣は慄然とした。その決断の重大さに、思わず、足が震えた。神が何を言おうとしているのか、分からない。
こんな自分が、彼女を裁く? 天罰を下す?
この神は、自分に何をしようとしているんだ?
矢継ぎ早に疑問が頭を駆け巡る。
「さあ、迷うな。お前の結論は何だ? この娘はお前の答えを受け入れる決意がある。お前がだした答えなら、何でも甘んじるだろう。何も遠慮する必要はない」
「お、俺には、無理ですよ」
「何をためらうか、お前はこやつが今まで秘密にしてきたことで、傷ついたであろう? 驚いたであろう? 怒っているだろう? 我慢せずともよいのだ。どうしたいのか、言え」
「無理です、出来ません! 俺は、俺は……神様じゃない!」
ただの、人間だ。だから――。
こんなの、無理だ。
すると、その春臣の悲痛な声を聞いて、考え直したのか、
「そうか、そうだな、お前はただの人間だ。確かに、神ではない」
と、千両神は納得したように、頷く。
「では、天罰うんぬん、という話は抜きにしよう。しかし、それでは、特別な力などない、神の力など持たぬ、いつも通りのお前ならば、この者をどうする?」
「人間の俺なら……?」
「そうだ」
神はその先を促した。
春臣は思わず、沈黙する。てっきり、決断を拒否して、それで終わりだと思っていたのだ。
「駄目だ。問題にきちんと向きあえ、けじめをつけるのことが肝心なのだ。答えを出すことから逃げるな」
けれど、だとすれば、彼女に自分は何をするべきなのだろうか。春臣は困惑する。
確かに、千両神にも言われた通り、春臣は彼女が嘘をついていたことについては、驚いた。目の前が真っ暗になりそうだった。
しかし、
しかし、きっと、彼女の事だ。
春臣のことを騙し、裏で嘲笑っていたわけがない。きっと、そうだ。
なら、
「や、やむを得ない事情があったんだよな、媛子」
春臣は訊ねる。
「春臣……」
「俺を騙していたのは、仕方がないことだったんだろう? お前は、お前は、全然、悪いヤツなんかじゃないよな?」
春臣は彼女への期待を込めて、問いかける。彼女に一度でいい、頷いて欲しかったのだ。
だが、
「いや、違う」
彼女のその一言で、その希望はあっけなく打ち砕かれた。
「わしは悪い奴なのだ。わしはお前を騙した、どのような理由があったにせよ、その事実は変わらぬ。だから、春臣、わしを罰せ」
罰せ、わしを。罰すのじゃ。
彼女は何度も、繰り返す。
罰せ、わしは、悪い奴なのだ。
お前を、お前を、わしは、
「裏切ったのだ!!」
すると、その言葉が春臣の心を揺さぶった。
急に、既視感を感じたように、記憶が巻き戻される。数週間前のことだ。
『もし、自分の身近な人物が、君を裏切ったらどうする?』
急に、そんな問いが蘇った。
これは、いつだったか、あの奇妙なお守り商人、時雨川ゆずりに聞かれた質問だった。狭い自室の中で、彼女と二人きりになったとき、問いかけられたのだ。
『誰かから裏切られた時、君ならどうする?』
たったそれだけで、とても難解な問い。
あの時は、それが何を意味するのか、春臣には全く分からなかったのだが、今思えば、全て合点がいった。
そうだ。彼女は、あの時すでに、媛子の秘密を知っていたのだ。そして、その上で、春臣がどういう答えを出すのか、試したのだ。
もしも、いつか、媛子が秘密を打ち明けたとき、春臣たちの関係が壊れてしまわないかどうか、不安だったから、もしものことを考えると、怖かったから。
だから、確かめた。彼女は好奇心だとかごまかしていたが、絶対にそうに違いない。
それで、肝心なことは、
『あの時、俺は、何と答えた?』
ゆずりが嬉しそうな顔をしていたのを思い出す。
『君は本当に優しいなあ』
そう言っていたのを覚えている。ぐしゃぐしゃと頭を撫で回されたのを覚えている。
そうだ、『答え』を思い出した。迷う必要なんてない。春臣は確信する。
初めから、自分の気持ちは決まっていたじゃないか。
そう思うと、すっと肩から余計な力が抜けた。気持ちが透き通っていくのが分かる。
「どうやら、心は決まったようだな」
千両神が静かに言った。そこにはどこか冷静な春臣に戻り、安心したようなニュアンスがあったように感じた。
「はい」
「では、どうする?」
そこで春臣はすっと息を吸う。
「媛子」
彼女を、まっすぐに見据える。
何度間違っても、一緒に、共に、歩くのだ。だから、こちらから一歩、そっちに踏み出す。
「はる、おみ……」
「俺は、お前を、許す」