15 微糖、ビター
コーヒーを飲んでみたいと所望してきた媛子のため、春臣は台所の食器棚を探っていた。
木製の取っ手を開くと、丁寧に大きさの揃えられた皿やコップが誰かに並べと言われたかのように、綺麗に隊列を組むように整列している。
その食器棚は古いもので、春臣が引越しの際に持ってきたものではなく、祖父が以前から、要するに夫婦で暮らしているときから使っているものだった。
中に入っている食器も全て祖父たちが使用していたものである。
それらは、骨董品店にでも売れば高値がつきそうな深い味わいを感じさせる独特な光を放っていた。
春臣はその食器をどけながら奥へと手を伸ばす。
誰も手入れをしていないせいで少々埃をかぶっていたが、目当てのものは意外にもすぐに見つかった。
「お、これだな」
手にとったのは酒を注ぐためのちょこである。
どうしてそんなものを探していたかというと、媛子のサイズにあった飲み物の器が他に見当たらなかったためだ。はっきり言うと、それでもまだ大きいほどなのだが、それよりも小さなもので適当なものも見当たらなかった。
ストローで飲ませるという手も考えたものの、やはり大きすぎる。彼女は顔を真っ赤にして吸い込もうとした挙句、軽く呼吸困難に陥ることになってしまったのである。
「これでなんとか飲ませるか」
これなら安全だろうと春臣は頷き、媛子の元に戻る。
部屋に戻ると、媛子は春臣が食べやすいように千切ってやったコンビニのパンにおいしそうにかぶりついていた。
「おう、そのちょことやらは見つかったのか?」
口の周りにパンの粉をつけながら、そう聞く彼女に神様らしい威厳は微塵もない。むしろあどけないと言っていい。
「ああ、見つかった。これなら流し込むだけだから、飲みやすいだろう」
「そうか、さっそく注いでくれ」
嬉しそうに返事をして、食べかけたパンを傍らに置くと、春臣が立っている机の端まで駆けてくる。
「おい、走ると転ぶぞ」
春臣が注意したのも無理は無い。
彼女が来ている服はただでさえ裾が長く、見るからに危なっかしい。
あれでは転ばずに歩く方が難しいだろう。
そして、
「あ、あわ!」
案の定、彼女は裾を踏んづけてつまずいてしまった。
しかも運悪く机の端であったため、彼女はバランスを崩したまま、そこから転げ落ち……。
「っと。危ないな」
しかし、寸でのところで春臣の手が伸び、彼女が机から落ちたところでキャッチすることに成功した。
「た、助かったぞ。春臣」
仰向けに倒れた彼女は目を回したように首をふらふらさせながら起き上がる。
「だから転ぶって言っただろ」
「少々油断しておっただけじゃ、なに、大したことではない」
しかし、注意したにも関わらず、事の重大性に気がついていないのか、再び机の上に降り立った媛子は何事もなかったように泰然とした素振りで、視線はすでにコーヒーに向かっているようだった。
その態度は春臣の眉をぴくりと動かす。
仮にも彼女をこの部屋で保護している者の立場から、黙っておけるわけはない。
「おい、ちゃんと聞いてるのか。これは大したことなんだよ!」
今度は自分の怒りが伝わるようにきっぱりとした口調で言う。
「……ん、そうか?」
「媛子の体は今小さいんだからよ。ちょっとしたことで大事故になりかねないぞ。ちゃんと自覚してるんだろうな?」
春臣は缶コーヒーを開け、ほんの少しちょこの中に注いでやりながら、彼女のことを押さえつける様に睨んだ。
「そ、それはまあ。以前通りの自分ではないことくらいわかっとるが」
「今は俺がいたからよかったものの、もし俺がいないと、どうなってたことか分かってるのかよ!」
「ううむ……返す言葉がないの」
すると、予想以上に怒られたことにショックを受けたのか、彼女はしゅんとしょげてしまった。
もしかすると、以前の力を持っていた自分と比べて無力となってしまったことを再び痛切に実感し、衝撃を受けているのかもしれない。
少々言い過ぎたか、と春臣は反省する。
「まあ、もういいさ。ほら、これがコーヒーだよ」
優しく言って、コーヒーを飲むように促す。
「あ、ありがとう」
彼女は両手で抱えるようにしてちょこを持ち、ほんの少し、傾けようとする。春臣は彼女が飲みやすいようにちょこを指で支えてやった。
今度は上手く飲めたようだ。
「どうだ?」
さっそく感想を聞いてみる。
「うむ、なんと言うか……」
「あん?」
「ごほっ、ごほっ。に、にがい」
途端に渋い顔をして、媛子は咳き込む。眩しがるように目をつむり、首を振った。
春臣は缶を持ち上げて表示を見てみた。
微糖、とある。
きっとコーヒーを初めて飲んだ人間にしてみれば、拒絶するには充分事足りる苦味があるはずだ。
「と、とてもではないが、こんなには飲めぬの」
あっさりと残りのコーヒーを断念し、彼女はその場に座り込む。
すると、気が抜けたのか、同時にごとりとちょこの中のコーヒーが揺れ、こぼれそうになった。
これまたその一瞬手前で春臣が抑えたが、あぶないところだった。そのままであれば、媛子は頭からコーヒーを被っていただろう。
「ふう……」
「す、すまぬ」
これでは一瞬の気も抜けない。
ある意味普通の子供の子守をするより大変かもしれないと、春臣は溜息をつく。
「媛子が小さい《・・・》ってことがこんなにもいろんな障害を生むとは考えてもいなかった」
それは口から出た春臣の正直な感想だった。
「ああ、わしもそう思うぞ」
これには彼女も同意する。
「昨日は踏み潰すだなんだの言ってたが、こう小さい《・・・》と、それ以上に厄介なことは山のようにあるな」
飲み物を飲むのでさえこんなに苦労をするのであれば、この先、どんなことで苦労するかも分からない。
そう考えるだけでうんざりしそうだったのだ。
「……春臣」
すると突然、彼女が尖った声で名前を呼んだ。
「なんだよ」
訝って聞き返すと、
「先ほどからどうにも気に食わないのじゃが、小さい小さいとうるさすぎるぞ」
どうやら春臣の言動が彼女の癪に障ったようだった。
「でも、事実だろ。背が小さい神様なんだし」
そう言って春臣は彼女の頭を人差し指でぐりぐりと撫でてやる。これはまるで小動物のようで意外と可愛い。何時間でも遊べそうだ。
「や、止めい! これは本来のわしの大きさではないと以前説明したはずじゃぞ!」
「あれ、そうでしたか?」
「神に対して無礼が過ぎるぞ。やはり死にたいか?」
「滅相もございません、神様」
ふざけていつもより一オクターブ高い声で謝ってやった。力などないくせに、そんな脅しなど痛くもかゆくもない。
すると、彼女はもうどうでもよくなったのか、溜息をつく。
そして、目を細めると意味ありげにこう訊いた。
「もしかすると、お主は気づいておらんのか?」
「……何のことだ?」
「わ、わしの身長じゃ。昨日よりも高くなっておろう?」
「え、身長が伸びるのか?」
神も成長するのか、と聞いて驚いた。
「よいから、よーく見てみよ」
「う、うーん?」
そう言われて、彼女の顔を近づけてみるが、特に昨日と変わった様子はない。
相変わらず、手のひらサイズの人形である。
第一、春臣と媛子ではスケールが違い過ぎるので、違いが分からないのだ。
仮に道端の蟻の全長が一ミリ伸びたところで、注意深く見ていないと、その違いに容易に気づける人間などそういないだろう。それと同じことである。
春臣はあることを思い出す。
「って、そういえば、媛子は昨日、むしろ身長が縮んだんじゃなかったか?」
神力を見せると意気込み、神楽鈴を力強く振った媛子は、見掛け倒しのその動きで自身の体にその反動を受けていたようだった。
彼女は頷いて、そのことを説明した。
「そうじゃ、どうやらそれはこの異空間で力を使おうとしたかららしい。まあ、自らの存在の力を消耗してしまったわけじゃな。その分、身長が小さくなった」
「へえ……」
「じゃが、今朝起きてみると、わしはあることに気がついた。どうやら昨日すり減らした分のわしの身長が元通りになっておるのじゃ」
背が伸びたことを強調するためか、彼女はその姿で精一杯背伸びしてみせる。きっと大きくなったと言ってもらいたいのだろう。
「なるほど、それはどうしてだ?」
しかし、春臣はそれを軽く無視して話の先を促す。
「う、うむ。つまり、神の世からの存在の力がわしの体内に再び蓄積したというわけじゃな」
「蓄積?」
「そうじゃ。つまりは昨日、ここに初めて来たときのわしの力まで回復したわけじゃ」
「ふうん」
媛子はそのことでさらに何か言いたげだったのだが、春臣には何のことか検討がつかず、適当な相槌を打つ。
すると、媛子は起死回生の逆転満塁ホームランを打った野球選手のような、不可解な勝ち誇った笑みを浮かべた。嫌味なほどの笑みだ。
「分からぬか?」
「何が?」
「そこに、わしが元の世界に戻れる可能性が秘められていることに、じゃ」