148 廃れ行く神の世
「なん、だって?」
その瞬間、頭の先からつま先まで、体を巡る血が、ずっしりと重くなったような、そんな感覚に春臣は支配されていた。そのせいで、肺に送られる血量が不足し、呼吸困難になったような息苦しさに瞬時に襲われる。
何だって?
神じゃない、だと?
どくどくと心臓が胸を叩き、指先にじんじんと痛みが走るような気がした。
「どういう、ことだよ」
と、訊いた。
もちろん、春臣は以前から、彼女が自分に対し、重大な隠し事をしていることを知っていた。そして、その重大さ故、彼女が自分に対してそれを切り出しにくいのではないか、ということも十分予想はしていた。
けれど、まさか。
まさか、こんなに、彼女という存在の根幹を揺るがす大きな秘密だということは、想像もしていなかった。
彼女は、しん、としていた。
こちらを見て、じっと、立っていた。
それはさながら、支えとなる部品を埋めこまれて、ただ、その場に立たされている人形のようにも、見えた。今更言うことでもないけれど、顔立ちの美しい彼女はまさに、そう見えてしまう。
感情など無い、体温もない、ただ、されるがままに立っている、美しき人形だ。
すると、彼女の口だけが動いた。
「どういうこともない。ただそれだけじゃ。わしは神ではない。そうではない、別の生き物じゃ。今まで、騙しておって、済まぬ」
それは酷く乾いた声だった。春臣の鼓膜に当たって、震え、脳内に反響した。
いつもは彼女の生き生きした笑い声や、だだをこねる子供のような声を聞いているので、それはまさに、違う生き物が発した言葉に思える。
春臣は、彼女にかけるべき、次なる言葉が思い浮かばなかった。首から下の感覚が欠落してしまったかのような脱力感に晒されていた。
何をどうすればいい。
何をどう判断すればいい。
春臣は理解が出来なかった。ここは怒ればいいのか、泣けばいいのか、それとも笑いとばせばいいのか……。
組み上げようとする言葉が次から次へと、赤茶けて錆びてしまって、端からどんどん崩れ去っていく。
重い、沈黙が流れる。
なんなのだ、これは。今すぐに、やめたい。取消したい。リセットして洗い流したい。
そう願うが、もはや、この場からは逃げられなかった。
すると、ふいに、春臣の目の前に旋風のようなものが現れた。くるくると木の葉が眼前で踊り、その中央辺りから、淡い光が生まれた。それはそのまま、縦に伸び、光の束となって一つの人の形になった。
唖然としていると、その人の形のようなものが言葉を発す。
「人の子よ」
と言う。
しかし、それはどうやら、言葉を発したというより、その人らしきものの言葉が春臣の脳内に直接響いてきているようだった。
これがテレパシーという奴だろうか。春臣はなんとなく思った。おそらくそうなのだろう。
これまで不思議な体験など山ほどしてきた春臣にとってはそれは、特に不思議なものではなく、すぐに許容出来た。
「わらわが分かるか?」
「あ、あなたは?」
春臣は思わず、その光に触れようと手を伸ばす。しかし、その手は何も触れずに宙を描いただけだった。
「触れることは出来ぬ。わらわは、お前の意識を借り、それを媒介にして、こちらの世界に姿を顕現させておるだけだからのう。一応、説明しておくが、そこの夜叉媛を覗いて、お前以外の人間には見ることは出来ぬ。少々面倒臭いが、さつきのように力のないお前に、わらわの声を届けるにはこちらの方が手っ取り早いと思ったのだ」
「は、はあ……」
何だかよく分からないが、どうやら、春臣は、その誰かを立体映像のような感覚で見ているらしい。
「まずは名乗っておこう。わらわは、この神社の主。櫛那美千両神だ」
「土地神様ってことですか? 瀬戸さんが仕えているっていう」
「そうだ。お前、榊と言ったか」
「はい」
「お前のことは、さつきよりよく聞いている。ここはわらわが事情を説明しよう」
そうして、すすす、と光が夜叉媛の傍まで歩み行く。その様子は、ロウソクの火が揺れるようだった。
「さっきもこやつ自身が言った通り、こやつは神ではない」
やはり、その事実は揺るがないのか。
その先を覚悟して、春臣は聞く。
「では、媛子は一体……?」
「ホカノ、だ」
聞き覚えのない三文字をその神は口にした。
「ほかの……?」
「そう、わらわたち、神の世の者はこやつらの事を神ではない存在、『ホカノ』と呼ぶ。人の世の文字で表すのであれば『外』と言う字をあてるのう」
「媛子が、そのホカノって言う存在だと?」
「左様。そう言っておる」
「本当なのか?」
これは千両神ではなく、媛子に直接問いかけた。すると、彼女は全ての行為を認めた罪人のような静かな面持ちで頷いた。
「そうじゃ、それが真実じゃ」
その光を失った瞳が悲しい。
「人の子よ」
再び千両神が呼びかけてきた。
「お前が神の世のことなど知るはずもないのであろうが、わらわたちの住まう神の世では、今、こやつのような、ホカノが大量に存在しておるのだ」
俄に情報が増え、考えの処理で重たくなった頭を動かしながら、
「お、俺には、どういうことだか。一体、な、何なんですか。そのホカノって」
すると、千両神は意外にも、一瞬、口ごもった。
「うむ……正直な話、わらわたち神でも、こやつらが真実に何者なのか、知らぬ」
「知らない、のですか?」
「ああ、残念なことにの……しかし、わらわたちが知っておることだけを、話そう。人の子よ。お前はそれを知る必要があるじゃろう……」
春臣はそこで、気持ちを落ち着けるため、息を吐き、ゆっくり頷いた。
きっとこれから、春臣を驚かせる様々な真実が明らかになるだろう。心をまっさらにして、それらの事実を受け止めていかなければならない。
それを見て、千両神はよし、と頷いた。
「して、話に入る前に、質問じゃが……」
「はい?」
「お前は、神を信じているか?」
春臣は思わず、口を閉じた。その質問の意図することが分からず、うろたえる。
「ど、どういうことでしょうか?」
「どういうこともなにも、答えは二択だ。肯定か否定。どうなのだ。正直に答えよ」
「それは……信じるも何も、目の前にこうして存在していますし、それに、俺は今まで不思議な力に関する様々な体験をしてきました。ですから、神が存在すること、そこに疑いの念はありません」
すると、その千両神である光の束は、顔の辺りがふっと微笑んだように見えた。
「そうか、そうか。それは嬉しいことだ」
心なしか、声の質も、柔らかくなったような気がする。
しかし、次に続く言葉は、それとは一変して、厳しい口調になった。
「だがのう、残念なことに、今神々の力は、急速に衰えつつある。これは偏に、人々が、もはや、神への信仰を忘れつつあるためじゃ」
「わす、れる……?」
「そうだ。人々はこの流れる時間の中で、次第に、我々神を忘れようとしておる。写真がだんだんと時間が経つにつれて、色あせていくように、な」
「……」
「例えばでよい、思い浮かべてみよ。お前の身近な者たちのことだ。友人たちでも家族でもよい。今までの人生の中で、果たして、毎日神を思い、敬い、祈りを捧げる人間がどれほどいた? おそらく、ほとんどいないのではないか? 極端なことを言うつもりはないが、多くの人間にとって、今の時代、神などという存在があろうとなかろうと普段は気にしないものだろう」
そうして、千両神は春臣の背後の境内を示した。
「見よ、この寂寞たる光景を。お前にも一目瞭然じゃろう。参る人の影の絶えた、この神社が。これが時代の移ろいというのを雄弁に語っておる。さつきは何とかこの神社に元のように人々が増えればよいと思っておるようじゃが、おそらく、それはないであろう。この国の多くの神たちは、今このような状態に晒されておるのだ」
重々しい神の言葉の一つ一つが、春臣の肌に喰い込み、すぶすぶと沈んでいくようだった。
そうか、と思う。
そうか、人は、神を忘れようとしているのか。
たかだか、十数年生きただけの春臣には、古より続く、人と神が共に歩んだ道のことなど、あまりにも途方も無いもので、歴史という巨大な影となって横たわるその膨大な時間を逐一理解することなど、ちっとも出来ないのだろうけれど、千両神の言うことはよく認識出来た。
革命が起き、産業が発達し、文明が栄え、今や、地球の外、宇宙にまでその手を伸ばそうとしている人類にとって、今、神がどれほど必要とされているのか……。
もちろん、昔から変わらずに、神を信じる者たちはいるが、しかし、この世の多くのことが人々の手によって、たかだかボタンの一つや二つで、コントロールできようという現代、かつてその役目を担っていた神の存在が、薄れていっていることは疑いようがないことだろう。
今や、神という存在や概念の中身がすっぽり空洞化し、形骸化し、神に対して、人々は、もはや昔のように、心から感謝をするでもなく、恐怖して日々を過ごすでもなくなったのだ。
それが、何とも言えない深い罪悪感となって、春臣の上にのしかかってきた。まるで、今自分がその人類の代表として、この場に立たされているような気がして、耐え切れない思いに駆られる。
と、そんな春臣の感情を読み取ったのか、千両神は優しくこう言った。
「人の子よ。何もお前がそれを気に病むことはないぞ。これは世の一つの摂理なのだ。大きな大きな流れの一部分なのだ」
だから、我々はその流れに身を任せるしかない、と千両神は言った。それは全てを悟りきったような、優しさに満ちた言葉だった。
そして、こうも言った。
「お前も知っているだろう。この日本という国の中で、古より数々の国が栄え、滅んでいったことを。この世の全ては移ろいゆくものよ。神も人も。花が咲き誇り、枯れ行く様にように、な。そして、そういうわけで、わらわたちの世界は『縮小』を始めたのだ」
「縮小、ですか?」
「うむ。わらわたちの世界は今、緩やかな衰退期に入っておる。知っておるであろう。わらわたちは、決して完璧な存在なのではない。人と共にある存在であり、人々がわらわたちを欲しなくなれば、後は廃れるだけじゃ。わらわたちは次第に、以前のような力を失い、その結果、世界は緩やかではあるものの、縮まり、崩壊を始めた。そして……」
神は一度言葉を止めて、
「その崩壊とともに現れたのが、このホカノじゃ」
と、そっと媛子の頭を撫でるように手を動かした。