147 夜叉媛の真実
「待て、お願いだから行くな!!」
ここまでの距離を走りきり、すっかり疲労した体のままで、春臣はあらん限りの力を込め、そう叫んだ。
先ほどから、頭はもうガンガンと容赦なく痛み、心臓の鼓動は止められないほどに早く脈打っている。下手をすれば倒れてしまいそうなほどの、限界に満ちた倦怠感に、春臣は包まれていた。
しかし、それでも春臣は目の前の媛子に向かって、一歩ずつ近づいた。
足元はふらついても、彼女からは視線を決して逸らさない。
もしも、一瞬でも目を離せば、彼女がこつ然とその場からいなくなってしまうような、漠然とした恐怖が春臣の内には巣食っていたのである。
やっと、会えたのだ。
ここまできて、彼女をみすみす失うつもりは毛頭ない。
今はその緊張感が、春臣の精神力を刺激し、かろうじて、意識を正常につないでいた。
一方で、媛子はというと、何も無い空間にぽっかりあいた謎の穴を前に、こちらを振り返って見ていた。その瞳には今にもこぼれ落ちそうな感情の滾った雫が溜まり、光を放っていた。そして、まるで瞬きの仕方を忘れてしまったかのように微動だにせず、石像のごとく春臣を凝視している。
彼女からは、ほんの少し葉が揺れるほどの、微かな吐息の音が分かる程度で、それ以外の情報がなければ、きちんと生きているのかどうかさえ分からなかっただろう。
それくらいに、媛子は動揺し、体の動きを止めていた。
まさか、自分を嫌っていたはずの春臣が、ここまで追いかけてくるとは思わなかったに違いない。
しかし、
しかし、春臣は来たのだ。
何よりも、彼女をここから連れ帰るという使命を帯びて。
「……どうして、来たのじゃ?」
微かな声で、媛子が言った。いや、それは言ったというよりも、茫然自失したまま、無意識に考えていることが漏れてきたという感じに、春臣には聞こえた。
「わしのことが、大嫌いなはずじゃろう?」
なんとも悲しげな表情を、彼女はする。
それを見た春臣の心が痛んだ。胸元に刃が食い込むような罪悪感が心を占拠する。自分の弱さに負けそうな自分が顔を出す。
しかし、今の春臣は先ほどまでとは違う。瞬時に仲間たちのことが頭に浮かんだ。
「あれは、違う!」
今は強く、言い返すことが出来た。
「違う?」
「ああ、あれは、俺の本音なんかじゃない!!」
自信を持って、一歩、前に踏み出す。
「ただの、俺の、偽物の言葉なんだ。俺の中の力が、一時的に暴走してしまったに過ぎない」
「春、臣」
「意味が分からないと思う。正直、無茶苦茶だってことも分かる。けれど、それについては、今はきちんと説明する時間がないんだ。だから、信用して欲しい。俺は媛子を嫌ったりなんてしてない。一緒にいてほしいと思ってる。だから、だから、そっちの世界に、戻るな!!」
「……」
「お願いだ、媛子」
それは短いなりに、春臣の渾身の力を込めた言葉だった。言葉で伝える時間がないのならば、気持ちで伝えるしかない。もしも、これで彼女が首を縦に振らなければ、全て終わりである。
祈りを込めるような気持ちで春臣は彼女の次の言葉を待った。
媛子はしばらく、黙っていた。ひどく混乱しているように、反応に困っているようにも思えた。
戻るべきか、そのまま行くべきか、選択肢の間で迷っているのだろう。
「媛子、返事をしてくれ」
答えを促そうと、春臣は彼女を見つめる。すると、俯いていた彼女はようやく、顔を上げた。
「うむ。そうか……やはり、そうであったか」
噛み締めるように、彼女は言う。その表情には、温かな喜びの萌芽を感じ取ることが出来た。
「わしは……わしは、最初から、お主のことの本当の気持ちを知っておったとも」
震えながらも、そう言ってくれたことが嬉しく、春臣は安堵する。目と目が合って、心が通じ合うのが分かった気がした。
その瞬間、互い違いになっていたパズルのピースがあるべき場所へ収まったような、心地良さが胸に舞い込んでくる。
そうだ。ただ自分たちは、お互いに勘違いをしていただけなのだ。考えすぎて、本当の気持を信じることが出来ていなかっただけなのである。それは単なる自己欺瞞であり、危うく春臣はそれに全てを飲み込まれてしまうところだった。
ともかく、危機は去った。
「なら……」
春臣は、彼女に手を差し伸べた。
「一緒に、戻ろう」
その誤解が解けたならば、もう何の問題もないはずだった。当然、彼女はその手を握り返してくれると思っていた。
しかし、
しかし、彼女は、手をぶら下げたままで、
「ならぬ」
そう言った。
「ならぬ、わしは、戻るわけにはいかぬ」
厳しい表情で、そう言った。
春臣は耳を疑った。
今、彼女は何と言った?
戻るわけには、いかない、だと。
「そんな、どうしてだよ!」
理解出来ない感情が春臣の胸に去来する。
「どうしても、わしは戻るわけにはいかぬのじゃ」
だが、彼女は悲しいまでの決意を込めて、そう言い放った。ぐっと引き結んだ唇が震えており、そこに隠れた強い決意と同時に、必死に悲しみを堪えているのが分かる。
春臣にはそれが分からない。
「何でだよ。もう誤解は解けたはずだろう?」
「違う、そこが問題ではない」
「じゃあ……じゃあ、どこに問題があるんだよ!」
春臣の声は苛立った。
「春臣」
きっとこちらを見据えた媛子と視線が交わる。彼女は、とん、と自らの胸に指をおいた。
「問題は、わしにある」
「どういう、ことだ」
「春臣、これは運命なのじゃ。受け入れなければならない、な。わしはお主とはこれ以上、一緒におれぬ」
運命、だと?
この場に来て……。
「……下らねえよ」
「え?」
「下らねえこと、言ってるんじゃねえよ!」
春臣は首を振りながら叫んだ。
「お前は神様だろ。本来なら、運命なんて、いくらでも変えれるくらいの力を持ってるんだろう? なら、そんな意味のない言葉なんて使うなよ!」
「神様、か」
「何だ?」
見れば、彼女が微笑んでいるのが分かった。
「媛子?」
しかし、それは、ぞっと背筋が凍るほどに、悲しい笑みだった。絶望の歪みが引き起こす、壊れた笑みだった。
「済まぬ、春臣。今まで、偽ってきてしまったな」
「どう、した?」
「本当に済まぬのう……」
まさか、そんな……。
「嘘、だろ?」
「わしはな、春臣……」
永遠にも思える一瞬の後、
「神、ではないのだ」
彼女は一言、そう告げた。