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天罰なんて怖くない!  作者: ヒロユキ
第六部 黎明の炎編
145/172

145 弱者の勇気

「ふう」


 ゆずりは手についた土を払って、地面から起き上がった。たった今自身が蹴り飛ばした男は、後方数メートル先の繁みに体を突っ込んでいる。小さな呻きが聞こえるが、あれではまともに意識を保てているとは思えない。


「時雨川さん」


 背後で椿が呼んでいる。ゆずりは振り返ると、笑顔で答えた。


「ハハッ、こんなもんだよ、少女」


 大したことはない、とぺろりと舌を出してみる。


「時雨川にかかれば、こんな敵なんて――」


 そう言いかけて、目の前にいるはずの椿がいないことに気がつく。

 すぐに、体に衝撃が走る。ゆずりは事態を理解した。自分は、椿に抱きつかれたのだ。


「少女」

「うちは、もう……」

「うん?」

「もう、会えへんのかと思いました」


 まるで、搾り出すような声だ。ゆずりは思う。椿は顔をゆずりの胸にうずめているので、表情までは分からないが、十中八九泣いているのだろう。

 泣いている、のか。

 その事実を飲み込むのに、一瞬躊躇した。ゆずりにとって、他者がそんな風に感情をあらわにしてくれることが、稀有な事だったために、そこに戸惑いが生じたのである。

 この少女は、こんな自分に対して、涙を流してくれているのか。

 もう、すっかり、他人とのまともな付き合い方など、忘れた自分に。

 しかし、その動揺とは裏腹に、なぜか、安心出来るような不思議な気持ちに満たされていくのが分かった。


「ごめんよ、折角仲良くなったのに、挨拶もなしに出ていってさ」


 抱きしめ返して、椿の返事を待つ。

 すると、


「あかん。許しません」


 という、ピシャリとはね付けるような声が帰ってきた。


「許してくれないのかい?」

「うちかて、怒るときは、怒りますから」


 そう言って、椿は回した腕にさらに力を込める。そこにはやっと見つけた宝物をそっと腕の中に抱き寄せるような、強い意思があるように感じた。

 そっと、彼女の柔らかなぬくもりが伝わってくる。


 次第に、ゆずりは、何だか懐かしい匂いを嗅いでいるような心地になった。

 思い出せないほど遠い過去、かつて、自分もそうして抱きしめてもらった記憶がある。その時感じた、毛布のような安心感はゆずりのとっくの昔に凍りついていた心を、溶かすようだった。

 これは、なんなのだろう。

 よく、思い出せない。

 けれど、けれど……。ゆずりは確信する。

 自分は心のどこかで『これ』を求めて、こんなにも早く、この地に舞い戻ったのだ。長い間、忘れていたはずの、『この思い』にもう一度触れたくて。


「これは、参ったな」


 そうゆずりはつぶやく。しかし、それは言葉とは裏腹に、安堵に満ちたものだった。

 椿の背中に腕を回し、ゆずりも抱きしめ返した。すんすんと、彼女がしゃくりあげているのが、分かった。くしゃくしゃと頭を撫でてやる。何だか、妹みたいで、無性に可愛い。

 どうしたら、彼女に許してもらえるのかを考えながら、目を閉じかけた。

 しかし、そこで、安息を引き裂く、少女の悲鳴が上がった。





 どろどろとした沼の底から引っ張り出されるような感覚がした。混濁した意識が、次第に鮮明になってくる。

 隆二はゆっくりと目を開けた。鉛色をした視界が、急速に、色を取り戻し始める。


 誰かが、立っている?

 ここは何だ?

 自分はどうなったのだ?


 何度か、ぐるぐると自問した後で、記憶が蘇ってきた。

 そうだ、自分は、あの女を刺そうとしたはずだ。そして、それで、ふいをつかれて自分は顔面を蹴り飛ばされて……。

 自分の周囲を見回す。どうやら、繁みの中に上半身をうずめた形で、倒れているようだ。じんじんと顔の痛みが戻ってくる。片手で触れると、血がついた。鼻血だ。鉄の味がする。口の中も切れているのかもしれない。


 ああ、なんだ、この様は。

 俺は、負けたのか?

 あの、女に。


 傍らに、落ちていた、ナイフに目が止まる。隆二のナイフだった。今や、ただのモノになった、それ。

 おかしいじゃないか。あれさえあれば、自分は強いはずじゃなかったのか?

 しかし、隆二は蹴り飛ばされた。あんなどこの馬の骨とも分からない女に。それも、まるで、赤子の手をひねるように、いとも簡単に、負けてしまった。

 隆二は、その事実を認識し、愕然とする。

 この俺が、弱かったということか。それは何とも、ふざけた話に聞こえる。

 自分が、これまでの人生で、そんなことがあっただろうか。そう、自問する。いつだって、他人を踏みつけて押しのけて、生きてきたというのに。踏みつけて、踏みつけて、これでもかと踏みつけて、生きてきたというのに。

 そうだ。だから、自分は、あんな女にむざむざやられて、いいわけがない。隆二は、そう確信する。何より、自分が納得しない。


 自分は、断じて弱者ではない。負け犬では、ない。

 強者だ。誰かの上に立つべき者のはずだ。


「これで、終わらせるかよ」


 隆二は、再びみなぎった意思によって、落ちていたナイフを握って立ち上がった。

 目の前に立っていたゆずりたちは、無言のまま抱き合っていた。自分を難なく倒せたことを喜び合ってでもいるのだろうか。

 よく分からないし、知りたくもない。ほんと、どうでもいい。

 しかし、一つ確かなことは、それを見た途端、隆二は殺気立ったのだ。

 奴らは、なんという無防備な状態か。これは、またとないチャンスだ。このまま、二人とも倒せばいい。本来ならば、言う事を聞かせて二人とも引っ張っていくつもりだったが、もはや、隆二にはどうでもいいことだった。


 足音を消して、水面を渡るように駆け寄る。今なら、こいつらを倒せる。

 と、そこで、不覚にも、椿が隆二の存在に気がついた。


「あっ!?」


 口に手を当て、悲鳴を上げる。

 しかし、隆二は確信していた。

 もう、遅いのだ。

 隆二のナイフは、既に時雨川ゆずりの脇腹を目指して一直線に、宙を鋭利に裂いていた。気持ちが一気に高揚する。嘲笑がこみ上げる。

 もう少しだ。あの女が苦痛に顔を歪める姿が拝めるぞ。

 飛んだ、跳ねた。砂利が舞い、風が鳴った。勝利は目の前だ。俺はやはり強者なのだ。誇り高き勝者だ。耳鳴りがキーンと聞こえる。意識が研ぎ澄まされ、刃先にそれが集中する。


 しかし、

 しかし、隆二の刃がゆずりに届くことは、なかった。


 ほんの少し、掠めることもなかったのだ。

 突如、隆二とゆずりの間隙に炸裂音が響く。

 その瞬間、隆二は再び、視界を奪われた。理解不能な、色とりどりの闇が目の前に現れた。

 何だ、これは。


「くそっ!」


 手で払う。それと同時に、鼻を突く火薬の匂い。隆二は気がついた。

 これは……クラッカーか!

 わずかに透かし見える、向こうの景色の中、震える椿の手に、それが握られていた。

 この女、舐めたマネを……。


「うちは、うちは、弱くなんか……ない!」


 彼女が力強くそう叫んだのが、聞こえた。

 その瞬間、隆二と椿の視線が刹那、交わった。その途端、まるで激流に飲み込まれていくような、身の毛もよだつ無力感に、隆二は晒された。

 一体何だ? 分からない。

 しかし、その眼差しは隆二の中の凝り固まった何かを打ち砕いたのが分かる。全身から力が抜ける。

 もう、何も、分からない。

 くそっ、何で、こんな……こんなことが。


「俺が、負けるのかよ」


 こんなクラッカーごときに。


「くそっ!!」


 なめやがって……なめやがってなめやがって! 弱いくせに弱いくせによお!!

 ナイフで、飛び散った紙のカラーテープを必死に引き裂く。しかし、それが間に合わない。

 既に、時雨川ゆずりの攻撃が飛んできていた。今度は、回し蹴りだ。隆二には、それがスローモーションのように、はっきりと認識出来る。

 もう、激突までは、一時の猶予もない。


「そんな――」


 おいおいおいおい、ちょっとまてちょっとまてちょっとまてちょっとまて――俺が、おれが、こんな奴に、こんなやつ――。


「静かに寝てろよ、ごぼう野郎」


 その言葉を最後に、再び、意識が飛んだ。

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