143 蒼の帰還
いったいどこから溢れ出してくるのか、肌を伝う汗は途切れることなく落ちてくる。春臣はそれを、乱暴にシャツで拭った。強く引っ張ったせいで、シャツの端が少し破れてしまったようだが、そんなことは気にしない。
無言で、前だけを見つめていく。
森の中に入ってからというもの、もう、それなりの距離を走ってきたはずだった。この先にあるという、千両神社の姿はまだ見えないものの、椿の話では、神社までは一本道なので、見つかるのはもはや、時間の問題だろう。
それを信じ、春臣は走っていく。ずんずん、ずんずん、と森の奥まで突き抜けていく。
景色が、引っ張られるように、後ろに吹き飛んでいった。
ふいに、春臣は呼吸をしながら、なんとなく、空を見上げた。すると、錯覚のような、妙な感覚がしてぎょっとする。木々の梢から覗く空が、異様に高い気がしたのである。
太陽が、不思議なほど小さく、遠い。
さらに、春臣の周囲も、蝉やら虫の大合唱で、耳が痛いはずなのに、なぜか、先ほどから空気がそれらを遮断しているように、雑音が気にならない。遠のいている。
まるで、これは……。
そう、異世界に迷い込んでしまったようだ。春臣はそう思う。
漫画や小説の主人公が、ある時偶然に、異次元の狭間に入り込んでしまったような、あの、目に映るもの、聞こえてくる音、漂う匂いなどの、全ての感覚が狂って伝わってくるような心地である。
どうして、そんなことを感じるのだろうかと、一瞬考えるが、事実、そうだからかもしれないと、春臣は直感した。何しろ、この先にある神社は、古来から神が御座す特別な場所なのだ。
昔、春臣は、聞いたことがある。神社の鳥居の話だ。
あれは、ただ単に、神社へと繋がる門の役目を果たしているだけではない。この世とは違う、別世界との境界線をも意味するものなのだ。
そう、鳥居の向こうにあるのは、この世における一切の穢れが取り除かれた、清浄で、厳格な侵されざる、神の領域。
春臣たちにとっての、異世界だ。
自分は、今、そこに向かっている。
春臣は走りながら、そう頭の中で念じるように繰り返す。
しかし、その意識の隙間から、止めようのない不安が、一気に春臣の脳内に押し寄せてくる。
媛子は無事だろうか。
果たして、そこにいてくれるのだろうか。
もしかして、もう向こうの世界に戻ってしまって、手遅れなのではないだろうか。
くそっ。
握りしめた拳が、汗で滑った。
媛子……。
勝手に、勝手に、向こうに帰ったりするんじゃないぞ。
俺は、このまま、お前に悲しい思いをさせたまま、向こうの世界に返すわけには、いかないんだ。
と、その時だった。
「さ、榊くん!」
背後から椿が呼ぶか細い声がした。
「どうした?」
慌てて勢いを止め、振り返ると、彼女はずいぶん離れた場所に立っていた。膝をついて、肩で大きく息をしている。
「う、うち、もう走れへんよ」
遠目にも、彼女がすでに体力の限界であるのが分かった。ふらふらと足がぐらつき、立っているのも難しそうである。
「あ、青山、ちょっと待ってろ。今、そっちに……」
春臣は思わずそう言って、道を引き返そうとした。
しかし、
「あ、あかんわ」
彼女が首を振って、それを拒否する。
「うちのことはええから、先に神社に行って」
「青山……」
「榊くん、ここはさつきちゃんが言ってたことを思い出すんや」
「え?」
「手分け……手分けするんや。うちは、この辺を、森の中を、重点的に媛子ちゃんを探す。この森の中なら、どこかに媛子ちゃんがおるかもしれんし。あんまり動けんうちでも、それくらいは大丈夫や」
なるほど、それも一理ある。どのみち、こんな状態の彼女をこれ以上、無理に動かすわけにもいかないだろう。
そう思った春臣は彼女の提案を呑むことにした。
「そうだな、それが一番いいかもしれない。俺は先に神社に向かってみる。青山は探しても見つからなければ、後を追ってきてくれ」
春臣はそう言って、
「休んでいいから、無理はするなよ」
と、一言彼女を気遣った。
「うん、うち、頑張る」
「じゃあ、頼んだぞ」
そう後ろ向きに手を振って、椿を背にして走りだした。
「じゃあ、頼んだぞ」
その声を聞きながら、――は、繁みの中から、そっと周囲の様子を窺った。
道の向こうに見える少年が、背後の少女に対して、手を振りつつ、離れていく。
やがて、その姿が見えなくなると、――は物音を立てないよう慎重に動いた。地面に腰をつけて、ゆっくりと呼吸を整えている少女の背後に回りこむ。
無防備に背中を向けている少女は、こちらに気がついている様子はない。
どうやら、これは大きなチャンスのようだ。
そう思った――は、タイミングを見計らって、繁みから飛び出した。
その物音に対し、少女が弾かれたように、振り向く。表情が、一気に凍りついたのが分かった。
彼女は咄嗟に立ち上がり、その場から逃げ出そうとした。
しかし、それは手遅れだった。
なぜならば、繁みから飛び出してきた人物、杉下隆二によって、すでにその右手首を掴まれていたのである。
「きゃあっ!!」
「ほうら、捕まえたぞ」
隆二は手を引っ張り、少女をその場で無理やり立たせる。
彼女はパニックに陥っているようで、呆然と固まった表情でこちらを見て、口を半開きにしている。この場に隆二がいるのが、信じられないようだった。
「いいか、静かにしろよ!!」
隆二は脅すように、怒声を浴びせた。
「そ、そんな、なんでこんな場所に!? さつきちゃんや暮野君は?」
「さつき? 暮野?」
合点がいかず、逡巡して、
「ああ、あいつらか」
と、隆二は先程の家の中での出来事を思い出す。それと同時に、その怒りで、眉間に深い皺が寄った。
「くそ忌々しい奴らだ、全く。あのガキのしたことも我慢ならんが、あの巫女の女、瀬戸さつき、妙なことをしやがって、全く訳が分からん!」
「どういう、ことなん?」
「ったく、俺は何とかこうして逃げてきたからよかったもの。あの男どもはやられたようだったな」
「ふ、二人は無事なん?」
隆二は、そこで掴んでいる少女の手を乱暴に引き寄せると、その顔を覗き込んで吐き捨てるように言った。
「ああ、残念なことにな」
すると、それを聞いた少女はほっとした表情を見せる。隆二はそれが気に食わず、乱暴に言葉を続けた。
「おい、お前!」
「な、何や?」
「あの、赤い髪をした女のことを知ってるんだろう? どこにいるのか、俺に教えろ」
「いや、いやや。離して!」
少女はじたばたと暴れだした。
「そうはいくかよ。ようやく捕まえたんだ。今度はもう逃がさないぞ」
「う、うちは何も知らん。絶対、何も言わへんで」
「そうかそうか、全く強情な奴だな。対して抵抗も出来ないくせして」
もっと問い詰めてみるつもりだったが、隆二は詰まらなくなって、ふっとため息を吐いた。
「まあ、いい。俺の本来の目的はそいつじゃないしな」
「へ? それは、どういうこと?」
少女が不思議そうな顔を見せる。
「じいさんは、あの赤髪の女を自分の利益のために使うつもりのようだがな、俺は、そっちよりも、あの榊とかいうガキの方に興味があるんだよ。あのガキ、どうせ何かよからぬことを企んでるだろう。なんとも動きが怪しい。どうにかして、俺たちを落とし入れようとしているんだ」
「そんな、榊くんは何もしてへん!」
「さて、それはどうかな」
薄ら笑みを浮かべて、隆二は言う。
「え?」
「あいつのじいさんはうちの一派に楯突いてきた野郎なんだぜ。同じ血が流れてるあの男が、同じような馬鹿げたことを考えていないとも分からない。大体、そんな奴がこの町に引っ越して来ただけでも怪しいってもんだ」
「そ、そんなん、言いがかりや!」
隆二はそんな彼女の言葉を軽く払うように手をひらひらさせた。
「はいはい。俺は君の意見なんて聞いちゃいないって。ともかくね、君は俺に噛み付くよりも、まず自分のことを考えた方がいい。君はあの男への人質にはちょうどよさそうだしな」
「ひ、人質?」
その言葉に、少女の顔が青ざめる。ドラマやニュースでしか聞かないような、現実味のない単語に、恐怖したのだろう。
それが嗜虐心を刺激し、隆二は彼女を一層怖がらせてやろうと、ニタニタと気味悪く笑ってみせた。
「そうだよ、君を引っ張って行って、あの榊とかいうガキに見せれば、きっとなんでも言う事を聞いてくれるさ。さっき見てて分かったが、あの男は友人たちには殊更弱いようだしな。君さえ手中に収めれば、彼は実に扱い易い、従順なただの木偶の坊になる。そうなれば、あとは煮るなり焼くなり、だ。企んでること全て吐き出させてやる」
「いやや、そんなことはさせへん!」
すると、どうしてもそれだけは防がなければならないと感じたのか、必死の形相になったその少女は、わめきながら、再び手足を振り回してきた。それが彼女の精一杯の抵抗のつもりなのだろう。しかし、それは隆二の体に何度も当たったものの、そもそも力が弱いせいか、彼女が疲労しているせいか、痛みは微々たるものだった。
隆二はそんな少女をあざ笑う。
「ハハハッ、馬鹿だな。そんなの攻撃の内に入ってないよ」
全く、弱者は弱者らしく、大人しく頭を垂れていればいいものを。
そう思って、彼女の手を掴んでいるのと逆の手を振りあげて、
「あのね、もっと思い切りやってくれないと痛くも痒くもないんだよ」
少女の頬を目がけて、手を振り下ろそうとした時だった。
「思い切りというのは、これくらいか?」
姿の見えない何者かの声と共に、肌にぶつかってくるような猛烈な殺気を感じ、隆二は咄嗟に、少女の手を離してその場から飛び退いた。
すると、そこに寸毫の差で何者かの大きな影が上空から落ちてくる。
ズズン――。
と重量感のある着地をしたその影は、少女を庇うように立ち、隆二と向かい合った。
「ちょっと、外しちゃったみたいだね」
しゃりん――綺麗な鈴の音が鳴った。
「失敗、失敗」
そして、そこで隆二の目に入ったのは、着地の衝撃で舞い上がるその人物の、長髪の色。
それは、爽快な夏の空を思わす、鮮やかな、蒼だった。
蒼、色、だと?
その刹那、隆二の脳内を、様々な情報が駆け巡る。
まさか、まさか、まさか……。
「そ、そんな……」
少女の、気の抜けたような声が聞こえる。
そして、隆二は、その人物の全体の容姿をじっくり確認し、驚きで、奥歯をぎりりと噛み締めた。
「ああ、やはりお前なのか? 蒼髪の――」
すると、その女は、じりじりとした真夏の昼だというのに、これ以上ないほど涼やかな笑みを湛えながら、隆二の言葉を受けて、こう言った。
「うん、そうだよ、お待ちかねの皆さん。私がスカっと爽やか、キリリと光る蒼き閃光でおなじみ、お守り商人時雨川ゆずりでござい。乙女のピンチに、ただ今、参上!!」
どうも、ヒロユキです。
最近、物語がいつになったら終わるのか、書いている自分にさえ本気で分からなくなってきたことに恐怖しています。
着実にゴールに近付いているはずなんですが、どこまでも終わりが見えない。書けば書くほど、書くべき事柄が増えていく、謎の現象なのです。人呼んで、伸びるラーメン現象、とか言ってみる……( ゜ Д ゜)ハッ!そんなこと言ったら、なんだかその現象に陥った自分の小説がまずいみたいじゃないか。何言ってるんだよ、俺。
下らないこと言ってないで、続き、書きますね。