141 外れ者
容赦なく降り注ぐ夏の日差しと、頭が音で飽和してしまいそうな騒がしい蝉の鳴き声に、夜叉媛は目を覚ました。
いったいどれくらい眠っていたのか、正確には知ることは出来ないが、いつもより、長い間眠っていたらしい。
見上げた空の太陽は既にかなり高い位置にあった。
無理もない。と夜叉媛は思う。
真夜中に、あんな、とんでもないことがあったのだから――。
背中を預けていた木の幹に寄りかかりつつ、立ち上がると、体の節々が痛んだ。どうやら、知らず知らずのうちに無理な体勢で眠っていたようだった。夜叉媛は軽く屈伸運動をして、固まっていた体をほぐす。
すると、今度は何かを催促するように、ぐう、とお腹がなった。
何か食べ物が欲しかったが、生憎ながら、何も持っていなかった。飲み物もなければ、何か食べ物を買うお金もなかった。服のポケットは空っぽである。
当然だ。夜叉媛は夜中、何も持たずに、あの家を飛び出してきたのだから。そうして、一心不乱に走り、行くべき場所が見当たらず、適当に走り抜けた結果、こうして、林の中に身を隠してようやく眠りについたのである。
「はあ……」
夜叉媛はため息をつく。
起きたばかりだと言うのに、体はなんとも形容しがたい不快な倦怠感に包まれていた。走った疲れがまだ取れていないという理由もあるのだろうが、それ以前に、夜叉媛には、春臣のことが目に浮かんだ。彼の顔が浮かぶと、喉の奥がきゅっと絞られるような切ない感じがした。
夜叉媛は、春臣に振り払われた手の甲を見る。そこがうっすら赤く腫れているのが分かった。未だ、じんじんと痛みが伝わってくる。
そして、それは紛れもなく、数時間前の出来事が単なる勘違いではないことを示していた。
春臣に、拒絶された。夜叉媛は思いだす。
あの時、春臣に何が起こったのかは正直、夜叉媛には分からなかった。
それまで、自分の気持ちを受け入れてくれていたはずの彼が、夜叉媛に口づけた途端、まるで、悪霊でも乗り移ったかのように、態度が豹変し、夜叉媛に対して敵意を向けたことである。そこには、何の脈絡もなく、何の理由もないはずだった。
しかし、
『お前なんか、大嫌いだ』
春臣に、そう言われた。それは夜叉媛の心を深く傷つけるものだった。
だが、夜叉媛は気がついていた。きっと、嫌いだなんて言ったのは、彼の本心ではないのだろう。あの時の彼の異常な反応をみていれば分かる。
あれは、本当の、春臣ではなかった。
そう、あれは、春臣ではない別の何かが喋っていたのだ。
でも、
分かっていたけれど、
分かっていたのだけれど、
それでも夜叉媛は、飛び出してきた。
それは、なぜか。実はあの瞬間、夜叉媛はこう直感していたのである。
これは、自分に対する、『天罰』なのかもしれない、と。自分は、最初から、彼と結ばれるべき運命にはないのかもしれない、と。
あの時、なぜ春臣が夜叉媛に敵意をむき出しにしたのか理由は定かではないが、夜叉媛と春臣の関係があんなにも不自然に、いきなり断絶されたことは、それ自体が、夜叉媛に向けられた世界の意思だったのではないだろうか、という気がしていたのである。
それは、あまりにも大げさな話に聞こえるかもしれないが、夜叉媛にとっては、それもありえると思っていた。
なにしろ、夜叉媛は、最初からそういう存在として生まれてきたのだ。生涯、幸せになることもなく、誰かから愛されることもなく、いてもいなくても同じ、夜叉媛はその程度の存在なのだ。
今までのこちらの世界での生活の楽しさですっかりその事実を忘れていたのだが、あの春臣の、何も映さない冷たい瞳を見た時、夜叉媛は全てを悟ったのだ。
自分は、初めからここにいるべきではなかった、と。
「結局、最後まで春臣には真実を言い出せないままじゃったの」
夜叉媛は、悲しげに目元を細めて、独りごちた。
すると、ざわりと、風が吹いた。夜叉媛の鮮やかな紅の髪が、静かになびいた。
まるで、さあ、歩けと背中を押されているような気がした。
そうだ。いつまでもここで立ち止まっているわけにはいかない。夜叉媛は溢れていた涙を手の甲で拭うと、顔をまっすぐ前に向けた。
自分は、これから成すべきことがあるのだ。
「全てを、元に戻すのじゃ。全て、何も起こらなかったことにする」
あらゆる原因は、あの日、夜叉媛自身が、この世界に迷いこんでしまったことにある。
あの日、春臣と出会わなければ、あの家で、暮らすことにならなければ、こんなことにはならなかっただろう。
夜叉媛は運命の線路と線路の僅かな隙間にたまたま転がり込んでしまったに過ぎないのだ。
ただそれだけなのに、夜叉媛は勝手に自分の目の前に輝かしい希望があると勘違いして、舞い上がっていた。その挙句、身の丈以上のものを望もうとして、調子にのっていた。
そして、その結果、今、その罰を受けている。そう、当然の結果だ。
それを認識した今。
全ての責任を取らなくてはならない、と夜叉媛は考えていた。
運命をあるべき方向に向けるのだ。
彼と、夜叉媛のために、今こそ、道を分かつのだ。
私は、どうあがこうとも、所詮、外れ者なのだから。
林を抜けると、誰もいない静かな石段が見えてきた。鳥居が見えることから考えるに、その先は神社らしかった。
「方向はこっちで間違っていなかったみたいじゃな」
夜叉媛はそう独り言で確認し、足を向けた。そして、石段の前で立ち止まり、その場に漂う、どこか厳かな凛と張り詰めた空気を吸う。
なんだか、懐かしい匂いがする気がした。最近はすっかり意識することもなかった、過去の記憶を思い出す。自分が神の世界にいたころの記憶である。
綺麗に清掃された、石段をこつこつと登っていった。そうするにつれ、夜叉媛は、肌にひしひしと強い力を感じた。
間違いない、この石段の先に、力の強い神がいる。とにかく、そこで話をつけなくては。
そうして、石段を登り切った時だった。
「ほう……」
頭に響くような何者かの声と共に、いきなり強い風が夜叉媛に吹きつけた。思わず、目をつぶる。
「これはこれは、思わぬ珍客が現れたな」
紛れもない、神の声が、脳内に反響していた。どうやら、声は神社の建物の方から聞こえてくるようだった。声だけだというのに、そのとてつもない存在の力に、夜叉媛は膝が震えたが、恐る恐る話しかける。
「土地神様、でございますか?」
それはいつもの口調とは違う、目上の存在への丁寧な口調だった。
「左様だな。わらわはこの神社の主なるものだ。緋桐乃夜叉媛よ」
「……ご存知でしたか」
「うむ、わらわはようく聞いておるぞ。お主のことをわらわの巫女からのう」
夜叉媛は思い出す。そうか、さつきの奴が、報告したと言っておったのう。
「それに、神の世でも、風の噂にお主のことは聞き及んだことがある」
「え?」
「世に珍しき、美しき緋の髪を持つ者と、な」
夜叉媛はそれには絶句した。まさか、自分の程度の者が、土地神にも知られている存在だったとは、思いもしなかったのだ。
「ふふふ、それで緋桐乃夜叉媛、か。なかなか自分でつけたにしては良い名ではないか」
姿は当然見えないものの、夜叉媛は神の視線を強く感じた。
「しかし、今この場では、その名ではないほうがよいか? せっかくこの場では神の世の者しかおらぬことであるし」
そして、急に土地神は薄く笑った後でこう夜叉媛を呼んだ。
「のう、『ホカノ』よ」