14 雑食性です
「ようやく戻ったか! おい、春臣! いったいどこにいっておったのじゃ!」
コンビニで簡単に朝食分の食料を買い、青山と別れて部屋に戻ってきた春臣に、媛子の怒声が飛んできた。ドアを開けるやいなやビンタを食らわされたような衝撃に驚いたのは、言うまでもない。
眠気の成分が未だに残っていた頭が一気に覚醒する。
何だ? どうして自分が怒られている?
しばし訳がわからず、呆然と立ち尽くした後で、春臣はすぐに媛子の姿を目で探した。
そして、すぐに肝心の声の主である彼女の姿が部屋に見当たらないことに気がついた。
と、いうことはそこから導き出される答えがある。
おそらくまだクッキーの小箱の中にいるのだろう。
「媛子?」
様子を見ようと無防備に覗きこむと、彼女は持っていた簪を春臣めがけて投げつけてくるところだった。
「う、わっ」
その簪の鋭い切っ先がきらりと光った。
ひゅん、と頬を掠めて飛んでいく。
「あ、危ねえ! 目に刺さったらどうしてくれんだ!」
間一髪のところで避け、尻餅をついた春臣は強く拍動する胸を押さえてそう抗議した。
「そんなことは知らん。とにかく、わしをここに一人置いてどこかに行ったことを謝罪するのじゃ。今すぐ! 直ちに!」
姿は見えないが、箱の中から未だに怒りに満ちた声が聞こえてくる。
春臣は身を起こしてまた何かされないか、用心しながら覗き込んだ。さすがに相手は神様であるだけに、どんなものを凶器として使ってくるか分からない。
しかし、もう投げるものがないのか、箱の中の彼女は特に攻撃態勢はとっておらず、むすっと腕を組んでいるだけだった。
「な、なんでそんなに怒ってるんだよ。ちょっと散歩に行ってただけだ。たかだか数十分のことだろ?」
春臣にはそれほど激怒する理由が分からない。
「何を言っておる! 数十分と言えど、わしをこの未知なる空間に置いてけぼりにしたんじゃぞ。おぬしにはその意味が分かっておるか? これは罪に等しい!」
「え?」
「おぬしがわしの立場じゃったら、どう思う? 突然勝手の分からぬ別世界に放り出され、体も縮小し、自分の本来の力を使うことも出来ぬ状態なのだぞ!」
「……」
想像以上に真剣な憤怒の言葉に春臣は言葉を失う。
未知なる空間に置いてけぼり。
そのことを指摘されて、春臣は確かに彼女の言うことも最もだと思い直した。
なにしろ、彼女はつい昨晩にこの場所に来たばかりなのだ。
何も分からないまま、どうすることも出来ないまま、小さな体になった挙句元の世界に戻ることすら出来なくなった。
きっとそれはとても恐ろしいことだし、とてつもない焦燥感にも駆られるに違いない。
人であれ、神であれ、狼狽してしまうのは当たり前だろう。
ましてや、媛子としては、春臣が帰ってこなければ、クッキーの小箱から出ることすらむずかしいのだ。
自分が居ないと知り、とても不安だったことは間違いない。
「そ、それは申し訳なかったな」
自分が悪かったことを認め、素直に謝った。
すると、媛子の顔が少し明るくなる。
「お、罪を認める気になったか?」
「……ああ、ごめん。この世界に来たばかりの媛子のことを考えてみたら、俺のしたことは確かに媛子の言うとおり、罪だな。すまなかった」
「そうか、そうか。よし、ではこのことは水に流してやろう。二度とするでないぞ」
「ははあ、有難き幸せでございます」
わざとおおげさにそう言ってやる。神である媛子ならこうして尊敬の念を表せば、機嫌が良くなるに違いないと思ったのだ。
「フフフ、そう言われるとなかなかにいい気分じゃの。こう世の支配者としての優越感に浸れるというか。なあ、春臣よ」
媛子は腰に手を当てて、ふんぞり返って悪役のような台詞を言う。
意外と簡単に調子に乗ったので、少々かちんときたが、春臣は持ち前の器の大きさから言い返すことはしなかった。
箱から出してくれという彼女の要望にもすぐに答え、ちゃぶ台の上に乗せてやる。
すると、媛子は春臣が置いたコンビニのレジ袋に興味を示したようで、近寄っていく。
「春臣、この包みの中身はなんじゃ?」
小さな指先で、くしゃくしゃと鳴るビニール袋をいじっている。
「俺の朝飯だよ。とりあえずの腹ごなしだ」
「おい、わしも朝餉がまだじゃぞ」
忘れておるわけじゃあるまいな、と媛子は腰に手を当てる。
「ああ、そうだったな。昨日の残りがあるからそれでいいか?」
「残り?」
「羊かんだ。あれ、好きなんだろ?」
「む……確かに、あれは旨いことは旨いが……」
途端、媛子が言いよどむ。
どうやらレジ袋の中身が気になっているようだ。しきりに横目で見ている。
あれだけ羊かんを絶賛していた媛子だ。きっとその味を知ったことで、人間の食べ物に興味が湧いたのだろう。
しかし、春臣にはその前にどうにも気になることがあったのを思い出す。
「なあ、そう言えば、そもそも神様って飯を食べないといけないものなのか?」
「なんじゃ、藪から棒に」
媛子が口先を突き出して訝る。
「藪から棒って、別に話に脈略がないわけじゃないだろ。ただ、神様でも腹が減るものなのかなぁって、単純に思ってさ」
「……答えてもよいが、どうしてそんなことを聞くのじゃ?」
彼女がそう訊いたのは、おそらく春臣がただ単に素朴な疑問を彼女にぶつけただけでなく、その背後に何か隠された意図があることを看破したからだろう。
媛子の目が怪しく光っている。
「おぬし、なぜ気になるのじゃ?」
不敵な笑みを浮かべて言われたので、春臣は隠しても無駄だと思い、正直に答えた。
「神である媛子も食事しなくちゃいけないとなると、俺だけじゃなく、その分の食料も用意しないといけない。俺と比べるとかなり少ないとはいえ、あんたは意外とよく食べるしな。そうなると当然、そこには金がかかる。俺の仕送りから差し引かれることになるんだ」
「ほほう、つまり、わしの答えによっては生活がその分困窮すると。じゃから訊きたかったのかえ?」
「分かってくれたようだな」
「仕方ない、では答えよう。まあ、結論から言うと、人間ほど頻繁に食料を摂る必要は無い」
これは朗報である。まったく摂取量がゼロではないものの、人間と同じ食生活をする必要がないことは有難い。
「へえ、そうなんだ」
とりあえず、朝昼晩という三食を用意しなければならないという最悪の状況は免れた。
「まあ、神と人とでは体が違うからの。そもそも我々にとって、食べ物は消化するものではなく、吸収するといったほうがよい」
「吸収?」
「体内でこう、消えてしまうわけじゃ。きれいさっぱりな。全て、同化してしまうようなものじゃ」
彼女は身振り手振りでなんとなく説明する。
「はあ、便利な体だな」
「そうじゃろう。どうじゃ羨ましいか?」
そう言って誇らしげに高笑いしてみせる媛子。
「ああ、そうだな……じゃあ、今日の朝飯はいらんだろ」
しかし、きっぱりとした春臣の言動に驚愕の表情で、凍りついた。
「え、え、なんでじゃあ」
「なんでって……そんなに食べなくても死なないんだろ? あんな高級な羊かん、媛子に全部食べさせるなんてもったいないし。その方が経済的だ」
「経済的じゃと! そんなに金が大事か!?」
「そりゃあ、大事に決まってるだろ」
すると、彼女は不貞腐れたのか、ふくれっ面になって座り込んだ。春臣が神を敬う態度を見せないことに怒っているのだろう。
春臣は溜息を吐きながら屈みこむと、まるで子供を諭すように言い聞かせた。
「あのな、媛子。人間の世の中ってのは、金がないと生きていけない厳しい世界なんだ。神の世界じゃどうだったか知らないけど、そこのところ了承してくれ」
媛子はそんなことを教えられたくもないのか、無言でじりじりと体の方向を春臣から逸らす。
完全に機嫌を損ねたようだ。
まずい、と思った春臣は語気を和らげ、お願いする形をとってみた。
「媛子は少しくらい食べなくても大丈夫な神様なんだろう、少し協力してくれ、な? あ、いや、協力してくれませんか。緋桐乃夜叉媛様」
こう言われると彼女も無視は出来ないのか、ぽつりと言う。
「じゃ、じゃが、このままではわ、わしの心が……」
「心がなんだ?」
「干からびてしまうんじゃ。からっからのぱさっぱさに。そうじゃ、いつだって食べ物はわしの心を豊かに潤すからの。おぬしでもそう思うじゃろう?」
何を言い出すかと思えば、と春臣は呆れる。どう考えても短絡的で思いつきの反論であることは明白だった。
「心が干からびたわしは悲惨じゃぞ。何をしでかすか分からん。もしかすると、春臣にとんでもない不幸が訪れるやもしれんぞ。最悪、死ぬの。ああ、絶対死ぬ。気の毒じゃあ」
彼女は必死にそう訴えてきたが、そんな脅し文句、力を失っている彼女からされても毛ほども利かない。
「おお、そうか、それは怖いな。後からコップに水を汲んでくるから、それで潤してくれ」
と軽くあしらう。
「それじゃあ、何の足しにもならんぞ!」
彼女はその態度についに腹を立てたようで、いやいやをしながら地団太を踏んだ。
さすがにこのままでは怒りが収まりそうにもなかったので、分かったよ、と不承不承頷く。
食べ物の恨みは怖いというし、神に祟られでもしたら、たまったものではない。その上考えてみれば、今朝は春臣は、不慣れな場所に彼女を一人にしてしまったという失態をやらかしている。
そこに負い目を感じていないわけではない。
「食べさせてやるから待っててくれ」
しかし、立ち上がり部屋から出ようとすると、媛子が呼び止めた。
「羊かんなのかや?」
視線を向けると、やはり気になるのか、コンビニの袋を掴んでいる。
「その中身の方がいいのか?」
訊くと、彼女は満面の笑みでこくりと頷く。
「どんなものか見てみたいしの」
「大したものじゃないぞ。中身はコンビニのパンだ」
「パン、とな。さては洋食というやつじゃな。あの、粉を練りまわして焼いた食べ物じゃろ」
「へえ、意外とこっちの世界の知識もあるんだな」
「まあの。多少伝え聞いた程度じゃが。こっちのことも全く無知というわけではない。それよりもそのパンとやらを見せてくれ。食べてみたいぞ」
高鳴る鼓動を抑えきれないといった様子の彼女に、春臣は大人しく袋の中身を見せてやった。
「ほら、これはサンドイッチ。それとこれは、ホットドッグだな。それとサラダ……」
「春臣、春臣、これはなんじゃ?」
しかし突然の声に顔を向けると、彼女は見せていたパンをそっちのけで、買ってきたばかりの缶コーヒーを見ていた。
「触れると熱いんじゃ」
そう言って、何度か少し触れては指を引っ込める。
面倒くさい神様だ。
じゃあ、触るなよ。
「まあそりゃあ、ホットコーヒーだからな」
「ほっとこーひー、ほっとこーひー?」
彼女は新しく習った言葉を拙くも繰り返す。
「ホットコーヒーだよ」
「して、それはいかなる物じゃ?」
「飲み物だよ、外国の。日本で言うとお茶みたいなもんかな」
「ふうむ、それは飲んでみたいの」
そこで、春臣はある疑問が思い浮かぶ。
「……それはいいが、パンはいいのか?」
「ええと……」
すると、彼女は少し困った顔になってから、春臣の手元においてあるものに視線を走らせる。
「それはコーヒーを飲んでからでもよいかの? 二つあるのなら、両方食してみたいぞ」
さらに、彼女の視線は抜かりなくサラダを捉えていた。
「おっと、そっちにあるのは野菜か? 見たことの無いものもある。それも食べさせるのじゃ」
「つまり、全部か?」
春臣は不服そうに結論を口にすると、
「ああ、そうじゃ。全部食べてみたい」
清清しいほど明白にそう言って、彼女は頷く。
「はあ……」
どうやら、自分の家に来てしまった神様は不運なことに食欲旺盛な神だったらしい。
これには春臣は肩を落として、財布の残りの金額を考えた。