139 哮る風
私が、行かなくては。
たった今走り抜けてきた道を戻りつつ、さつきはそう決意していた。
そう、今度は、
今度こそは、間違うわけにはいかないのだ。
耳元を掠めていく、風の音を聞いた。ヒュンヒュンと自分と戯れるように鳴る風は、さつきの心から、今にも暴走してしまいそうな興奮の熱を奪ってくれる。
『千両神社の巫女たる者、常に冷静に、感情を乱さぬよう、心がけなくてはならない』
昔、そう口酸っぱく繰り返していた千両神を思い出す。
人間が持っている感情というのは、常に脆く、何かの力がかかれば、右にも左にも簡単に傾いてしまうものだ。千両神はそれをよく知っていた。
その感情の柔軟性は、時に、状況に対してプラスに働くこともあるが、逆に、自らを逃げ場のない絶壁に追い込むこともある。故に、その扱いには慎重を期す必要があるのだ。
しかし、さつきは以前、その言葉を軽んじ、大きな過ちを犯してしまった。
そっと、さつきは胸元に手を伸ばした。そこに常に忍ばせてある、大切な、アレを掴む。
千両神から預っている、代々神社に伝わる、神の扇だった。
それは以前から何度も手に触れているものであり、すっかり、さつきの手に馴染んでいる。それはさつきにとって、心に安らぎを与えてくれるものだ。だが、それと同時に、苦い記憶を閉じ込めたものでもあった。
そう、その記憶こそが、自分の過ちの記憶だ。
ほんの、つい数カ月前のことである。
あの時は、浅はかな自分の感情の動揺と、焦りによって、関係のない者たちを傷つけようとしてしまったのだった。
もしも、
もしも、あの時。
さつきが榊少年に怪我を負わせていたら、どうなっていたのだろうと思うと、ゾッとする。
判断を誤った自分は、今でも千両神社にいるのかさえ分からない。それほどの過ちだった。自分は、その罪を償う必要がある。
榊さんたちは、とても寛容で、何事もなかったように接してくれているけれど……。
しかし、さつきの中でそれは、今でも決着のついていない問題なのだ。
あの時の自身を思い出す。さつきは、自分の中に敵を作っていたのだ、と思う。
自分勝手な思い込みで、誰もいるはずのない、暗闇を睨み、それを憎み、千両様の役に立ちたいという一心で、後さき考えずに行動してしまったのだ。
甘かった。本当に。
自分は、まだ他者を傷つけることの、その事実の重みを知らなかった。
もう、失敗は許されない。千両神からは厳重な注意で済まされたものの、これ以上のことは駄目だ。
だからこそ、私は。さつきは思う。
今、はっきりと意識する。
敵はどこにいるのか。
なにより、守るべき存在は誰なのか。
そして、そのために、自分は何が出来るのか。
家の玄関が近づいていた。ピリピリとした緊張が手のひらを伝わり、指先をしびれさせている。ここで、引き返すわけにはいかない。
さつきは一層、意識を集中させると、閉じられていた玄関の扉を開けた。
すると、いきなり乱闘騒ぎが目の前に飛び込んできた。
狭い廊下では男と木犀の取っ組み合いが行われていたのだ。手や足がぶつかりあう音がして、何が何だか分からない。
しかし、さつきには、自分に背を向けて戦っている木犀だけがはっきりと見えた。彼は殴られたのか、右頬を腫らしている。どう見ても一方的な防戦だ。敵うはずがない。
それを見た途端――。
暮野さん!
熱い何かが、さつきの喉元にせり上がってきた。彼が自身に見せてくれたあの笑顔を思い出した。
そう、この人は私に、何か大切な想いを抱かせてくれたのよ。
だから、だから、守らなくちゃ。
「暮野さん、伏せて!!」
その叫びに、背後で様子を見ていた老人と隆二がさっと顔色を変えた。
さつきの様子を見て、ただならぬ気配を感じたのだろう。物陰に隠れようと身構えたのが確認できた。
さつきは、勢いを止めない。一瞬で力を体中にみなぎらせて、集中力を最大限にまで高める。
トクントクン……。
心拍数が一気に跳ね上がったのが分かった。仕方ない。これほどまで急激に力を同調させるのは初めての経験なのだ。普段ならもっと段階を踏んで精神集中を行わなければならないが、今は四の五の言っている暇はない。一気に片を付ける。
ぐっと踏み出した右足に力を込めた。
大いに哮よ、神の風!
木犀が、さっと、腰を落とすのを見て、
後は一閃、扇子を振り抜いた。
轟音と共に、大地が震えた気がした。