137 脱出 1
形勢は逆転した。
春臣は目の前の状況を見て、そう思った。
数秒前まで、場に圧迫するような空気を与えていた二人の大男が、今や畳の上に倒れ伏し、烈火の如く怒りを燃やした木犀が、その傍に立って老人たちを睥睨している。
この誰もが予想しなかった事態に、老人はただただ唖然とし、春臣の背後の若い男も、言葉を失っているようだった。
そこには、場を乱した木犀に対して、何らかの対抗手段に出る様子は感じられない。
当然だ。彼らは、この瞬間、春臣たちを抑えつける役割を担った、重要な武器を失っていたのである。
そして、それは同時に、この場における主導権も無くしてしまったことを意味する。春臣は、この状況を驚きつつも、即座にこう分析していた。
一度動きを止めたはずのサイコロは、突然の風によって再びその目を転じたのである。そして、それは、願ってもいない逆転の目。
あまり時間をかけてはならない!
次の瞬間、春臣が咄嗟に思ったのは、それだった。老人たちは、今、動揺している。この硬直の時間を利用して、今自分にできることは何だ。
答えは明白だった。春臣は体勢を僅かに落とすと、くるりと回転しながら、背後の男の腕から逃れた。
「あ、お前!」
男は春臣の動きに気が付き、すぐに手を伸ばそうとするが、しかし、時既に遅しだ。その時には、春臣は男の腕の届く範囲から、とうに脱出していた。
そして、棒立ちになっている椿とさつきを庇うように立つと、隣の木犀を見た。
彼は肩を上下させて荒い呼吸をしていた。一見、鮮やかで非の打ち所のない素早い動きをしていたように見えて、かなり体力を使ったようだった。考えてみれば、普段から彼がこんな大男を相手に戦っているはずもないわけで、それは当然の結果なのかもしれない。
「暮野、大丈夫か?」
春臣が気遣うと、彼は、苦しそうな呼吸を整えつつ、頷く。
「ああ、何とかな。だが、あんまり慣れないことはするもんじゃない。すっかり、心臓がびびっちまってるんだ」
春臣はちらりと木犀の足に目をやった。小刻みに震えているのが分かる。どうやら、精神的にも、かなり消耗しているらしい。
と、春臣の目が、すぐ傍で倒れている男を捉えた。先ほど、あんなに思い切り木犀に殴られたというのに、もう男は意識を取り戻したようで、目を開け、ゆっくりと起き上がろうとしていた。
その、体つきの良さから察するに、普段から体を鍛えているのだろう。木犀の力などでは完全に気を失わせることはできなかったのだ。
春臣は、逡巡する。
これから、どうすればいい。
このまま男達が、再び、戦意を復活させれば、もはや、春臣たちが立ち向かったところで、まともに敵う相手ではない。
そうなると、必然的に、選ぶべき選択肢は一つだ。
逃げろ、
この場から、
今すぐに。
「貴様ら!!」
怒りが頂点に達した、老人のドスの利いた声である。
「わしらから逃げられると思うか?」
しかし、そんなものを聞いている暇はない。
「今のうちだ。みんな走るぞ!」
そう叫びながら、立ち尽くしてた椿の背中を押した。ぼうっとしていたさつきも、春臣に従って、居間の入り口から廊下に出る。
しかし、
しかし、この期に及んで、木犀だけが動かない。
春臣の背後でまだ立ったままだ。
いったいどうしたのか。恐怖で身動きが取れないのかとも思うが、彼の横顔は闘志を失っていない。依然として、凛とした覇気と共に、周囲に睨みを効かせている。
では、これはどうしたことか。
「暮野!」
早く逃げるぞ。そう春臣は必死にそう伝えようとした。しかし、彼はその言葉を聞く前に、真剣な面持ちで首を振る。
「俺はここにいる!」
耳を疑った。
「な、何言ってるんだよ!」
一緒に逃げなければ、何をされるのか分かったものではない。
だが、
「お前たちはさっさと行け。俺はここで時間を稼ぐ」
「ふざけるな、正気か!? ヒーローみたいに格好つけてる場合じゃないんだよ!」
四対一だ。到底敵うわけがない。先ほどの玄関先の春臣と同じ状況である。
あの時、春臣はこの老人たちに対して、手も足も出なかったのだ。いくら、喧嘩に自信がある彼と言えども、勝利は絶望的である。
「いいから、行け。緋桐様を見つけるのが、最優先事項だろう。こいつらのことは後から何とでもなる。決着のつけようがある。だが、ここでまたこいつらに捕まってみろ。緋桐様を探すチャンスはなくなる。そうなれば、もう二度と緋桐様は戻ってこないかもしれないぞ。手遅れになる前に、見つけ出せ。そのために俺はここで囮になる」
「暮野さん!」
それは悲痛なさつきの叫びだった。廊下から聞こえた。
木犀はそれに気がつくが、振り向かずに答える。
「大丈夫だ、さつきちゃん」
その声は不思議な自信に満ち溢れていた。
「俺はこいつら全員を一発ぶん殴らなきゃ、腹の虫が収まらないんだよ。こいつらは、さつきちゃんを殴ろうとしたんだ。そのイカれた考え、間違ってるって思い知らせなくちゃな」
そう言い切った時、春臣は木犀の決意を読み取った。これは、何も言っても曲がらない、そんな強靭な決意だ。
「でも――」
食い下がろうとする、さつきの肩を無理やり、引っ張った。
「もう、行くぞ!」
迷っている、時間はないのだ!
背中で、あの男達がのっそりと立ち上がる気配を感じる。木犀は、いったい彼らに対して、今どんな表情で立ち向かっているのだろう。そんなこと、分かるはずもない。
春臣は息を止めて、走りだした。
「さ、榊くん!」
「青山、瀬戸さん、走れ、走るんだ!」
自分たちのやるべきことは、もう決まっているのだ。