134 対峙 3
「君のような純朴な少年に、わしの裏の顔をいろいろ知られてしまうというのは、いささか心苦しいがな」
全く感情のこもらない声で、老人は言う。
「しかし、目的のためには心を鬼にせねばならんこともある。今回はその例というわけだ。分かるか? あまりうるさいと、わしは本気で手を上げねばならなくなるぞ。それが嫌ならば、大人しく、あの赤髪の少女をわしに差し出せ」
「どうして、どうして、あいつが必要なんですか?」
春臣はそう問いながら、奥歯をかみ締め、必死に混乱と怒りで乱れそうな呼吸を整えた。
「どうしてこんなむちゃくちゃなことまでして、彼女を……せめて、質問に答えてください」
「大したことではない、ただ、少し調べるだけだ」
調べる――。
それは一見、とても簡潔で明瞭なようで、同時に不透明で不穏な表現にも思えた。
春臣は身構える。まるで媛子をモノとして扱っているような、そんな嫌な予感もしたのだ。
「何を、ですか……」
一度、息を吸って、
「いったい、何を――」
「その少女が……神であるのかどうか」
じっくりと言葉を味わうように、老人は言った。
「何だって!」
「話によると、君の言うその少女は、なにやら人ならざる力を持っているらしいではないか」
絶句して、春臣は口を押さえた。
それを、知っているのか。
まるで、腹の底をひんやりとした手で撫でられたような感じがし、鳥肌が立った。想定はしていたが、やはりこうしてその事実を突きつけられると、春臣は狼狽した。
いったい、どうやって調べたのかは皆目知らなかったが、彼らは媛子が神であるという証拠を握っているらしい。
老人は先を続ける。
「それに、君もさきほど認めたではないか」
「え?」
「彼女は人ではないと」
「あ!」
先ほど、玄関で老人が見せた不気味な笑みが蘇る。春臣が質問に対し、つい言葉を無くしてしまったがために、その動揺を、老人は肯定として、彼女が人ならざる者であると、そう受け取ったのだった。
突然のことで、どうしようもないことであったが、もしもあそこで首尾よく白を切ることが出来ていれば、こんな状況に陥っていなかったかもしれないと思うと、悔やまれた。
今さらとは思いつつ、春臣は首を振った。
「そんなことを、認めたつもりはありません」
「む?」
「俺は……俺は、一言も何も言ってません」
しかし、老人は春臣のその否定に対して、ぞわりと顎髭を撫でただけで、つまらないことのように、口をすぼめるだけだった。
「ふむ、まあいい。それは些細な問題なのだよ、榊君。君が認めようと認めまいと、わしらは彼女を調べる。その方針に変わりは無い。そこに神である可能性があれば、な」
なぜ。
春臣はうつろな目で老人を見た。
なぜ、そんなにも彼女に、神にこだわるのだろうか。
「俺には、少しも分からない。どうしてそんなことをする必要があるのか。あなたの目的は、何なんですか?」
すると、老人は不思議なものを眺めるように春臣を見た。
「分からないか?」
と、大きく目を見開いた。
「神の力だよ、榊君」
それが答えだ、と頷く。
そして、何かを握り締めるように、老人は宙に手を伸ばした。
「神の力を手に入れた者は最強だ。君だってそう思うだろう。世界を創造できるほどの力。それを手にすれば、この世の頂点に立つことが出来るのだ」
「この世の、頂点に、立つ?」
「そうだとも。こんな小さな土地など簡単に握りつぶせるほどの力だ。わしはだね、未来を知る力が欲しい。この世のすべてを知る力が欲しい。そして、この世の全てを掌中に収めたい。このわしの欲望を満たせるものは、ただ一つ、神の力なのだよ」
全く、意味が分からない。
こんなご時勢に、世界を征服しようとでも言うのか。本気で、そんなことが出来ると、信じているのか。
思わず、春臣の肩からずるりと力が抜ける。
そんな、荒唐無稽で、下らないことのために、媛子を捕えようというのか……。
ふざけている。単純に、そう思った。怒りで、手のひらがわなわなと震えた。
すると、なぜか哀れむような目つきで老人が春臣を見た。その目は春臣の考えを見透かしているようだった。
「榊君、可能なのだよ。神の力を使えばね。この世の森羅万象を統べる力だぞ。長い歴史の中、幾度となく人類を絶望の淵に追いやった、大自然の力を手に入れるのだぞ。それさえあれば、他者など虫けら同然だ。この世の全てを手に出来る」
しかし、それでも春臣は、そんな馬鹿な、と思った。そんなことにはならない、と断言も出来る気がした。
瀬戸さつきのような特殊な場合を除き、生身の人間が神の力を思うが侭に操るなど、なんともちぐはぐな気がしたのである。
例えるならば、そう、蟻が別大陸を目指すのに、飛行機を手に入れるような話だ。飛行機は確かにこの広い世界を高速で旅するのに、とても便利な乗り物ではあるだろう。しかし、たとえそれがあるからといって、蟻では飛行機を操縦することは出来ない。操縦室のボタン1つ押すことさえ叶わないだろう。
春臣には、老人の話が、そんな強い違和感を伴って聞こえたのである。
単純にその力が存在することと、その力があるからといって、それを自在に使役できるかということは決してイコールで結ばれるべきものではない、と春臣は思ったのだ。それは、十分条件にはなりえない。別の話なのである。
それに――。
そもそも、老人が捕らえようとしている今の媛子に、そんな大それた力はないのだ。
せいぜい、木に花を咲かせるのが精一杯だというのに、この世のすべてを知り、森羅万象を統べることなど、到底不可能だろう。
それは、老人が望む完璧な力には遥かに及ばない、微弱な神の力だ。
不完全な部分だらけの、彼女の力だ。
だからこそ、彼女はこの世界でとてつもない苦労を強いられた。
神だって、完璧なわけではないのだ。
そうだ。
だから、
だからこそ、
彼女は、自分にとって、あんなにも愛おしいのだ。
そして、守らなければならないのだ。この、得体の知れない連中から。絶対に。
負けるものか。
そう思うと、春臣の体の震えが自然と止まった。決意を込めて、すっと息を吸う。
「杉下さん、あなたの――」
あなたの望むような完全は、ここには何一つないですよ。
そう春臣が言おうとしたときだった。
上階から何者かの動く音が聞こえてきた。老人の目の色が変わった。
「どうした?」
その場の全員の視線が上を向く。俄かに天井辺りが騒然とする。
「友達です」
春臣は答えた。おそらく、家の中を探っていた男達が、二階にいた椿たちと鉢合わせたのだろう。
「何?」
「二階には、僕の友人たちがいます」
「そ、そんなことを言ったか?」
目の前の老人は明らかにうろたえていた。突然の誤算に慌てているのだろう。おそらく老人の考えでは最初からこの家には春臣と媛子しかいないと思っていないに違いない。
その様子に、春臣は、これはもしや、またとない逆転のチャンスなのかもしれないと直感した。
計画は小さなミスからでも、その連鎖によって、全ての破綻を来たすことがある。上手く利用すれば、春臣たちがこの場の主導権を握ることも可能だ。
「訊かれてないので、答えてませんよ」
そう思った春臣は、先ほどまでと一転して、強気な姿勢で言い放つ。
「どうするんですか?」
「ぐう、これは面倒が増えたな」
しかし、老人もさる者、すぐに動揺を身の内に隠すと、涼しい顔に戻った。
「なるほど……」
と、思案顔で顎鬚を触る。
「何をするつもりですか?」
「何、暴れてもらわないように、静かにしてもらうだけだ。それから、赤髪の少女を匿っているのなら、君ではなく彼らに話を聞くというのもいい。人数が増えればそれだけ聞き方の『バリエーション』も増えそうだ」
そう楽しげに語る老人はいかにも余裕綽々だった。しかし、その勢いに春臣だって負けていない。
「そんなことまでして、ただ済むと思ってるんですか?」
「む?」
「もしも騒ぎになって、ここに警察が来れば!」
そうだ。
この状況に巻き込まれる人間が多ければ多いほど、彼らにとっての計算外な状況は生まれ易くなる。例えば、誰か一人でも上手く外に逃げ、周囲の人々に助けを呼ぶことが出来れば……。
しかし、
「ガハハッ、警察!」
呵呵大笑。
突然、老人が身を反らして大口を開け、笑い出した。その剛胆な態度に、慌てている様子は微塵もない。
春臣は驚愕した。なぜ、笑うことが出来るのだろうか。この状況はどう考えても、老人たちにとって、好ましくないものになっているはずだった。
「何が、おかしいんですか」
恐る恐る訊ねる。
「その心配いらんよ、榊君。警察などわしらの前では何の意味も持たぬ」
「え!?」
「残念だが、奴らは既に何十年も前からわしらの傘下だ。たとえ、少々騒ぎになったとしても、わしが裏から指示を出せば、揉め事や事件の一つや二つ、もみ消すことなど造作ないことだ。君らのような小僧どもがいくら騒ごうと何も変わらない。誰も君らの言うことなど信じない。諦めるのだな」
「そんな……」
「わしらを甘く見るなよ。そして、理解しろ。この地で、我々に楯突くことは自殺行為なのだと」
春臣は、いきなり自分の真下にぽっかり穴が空いたような気分だった。
そうか。
そうか、この人たちの背後には、杉下家という、古くからの圧倒的な権力があるのだ。その権力に物を言わせれば、この土地では、大抵のことが思うがままなのだ。
すっかり忘れていた。木犀が言っていた、ではないか。
そうなれば、この地の秩序を保とうとしているのは、もはや警察などではない。面向きには、きちんと警察も機能しているように見えるが、その裏でこの老人が全ての糸を手繰っているのだ。この老人こそが、秩序なのである。この老人が正しいと言えば、正しい。誤りと言えば、誤り。無実と言えば、無実。罪人だと断ずれば……その者は、罪人なのだ。
事実は簡単にくつがえり、真実は容易に闇の幕で閉ざされる。
もはやそれは、春臣のような人間がいくら歯向かったところで、どうにもなるものではない。
だから、こんなにも正々堂々と正面から家に上がりこんできたのか。
春臣は奥歯をかみ締めた。
そんなもの、卑怯だ。春臣は絶望すると共に、地団太を踏みたくなる。こんなことがまかり通っていいはずがない。絶対に、おかしい。
しかし、それでも、どうにもならない。それは分かっている。ここで咆えたところで、逆転の目は無い。こちらの、負けなのだ。
ならば、ならば、どうする?
春臣は、俯いた。この状況での、最善は何だ? なるべく、被害を最小限に抑えるには……。
「か、彼らは……」
俯いたまま、春臣は声を絞り出した。
「うん?」
「彼らは赤髪の少女とは、何の関係ありません。今すぐに開放してあげてください。俺がきちんと、ここで見たものは他言するなと説明しますから……ですから」
「ほう」
すると、感心したように老人がため息をついた。
「何ですか?」
もしかすると、その条件を呑んでくれるのだろうか。
「健気なものだな。そんなに友人が大切か?」
「え?」
「他人が、そんなに大事か?」
老人は身の毛もよだつような、ぞっとする、笑みを浮べている。
「何を、言うんですか」
「前に言おうとしていたのだがな。君は、どうにもわしに『似ている』ようだ」
「似ている?」
どこが?
「いったい、どこが?」
その刹那、春臣と老人の視線が交わった。電流が走るように、瞳の奥が振動し、そして春臣の意識が反応して、何かがかみ合ったような印象を受けた。それは、春臣という人間の芯ががしっと鷲掴みにされたような感覚だった。
ああ、これは。
「君は心の奥に私と似た物を隠し持っているようにわしには見えたのだ」
そうか。
この人は。
俺と、同じだ。
俺と、同じなんだ。
ただひたすらに、孤独を望む心を持ち、自ら穢れを引き寄せ、その身に纏っている人間。他人を寄せ付けず、孤独の城に籠もり、自身の周囲を埋め尽くす虚無を喰らい、その背中に闇を負っている者なのだ。
その闇は、重く、重く、どこまでも、重い。縋りつくものもないまま、孤独の底まで、ずんずんと、ただ一人、落ちていく――。
全て同じだ、この自分と。
「君とは、その内中々面白い関係を築けそうに思っていたのだがな。だが、残念だよ」
視線を落とし、どこか寂しげに老人は言った。そして、もう一度顔を上げ、春臣を真っ直ぐに指差すと、
「君のその憎たらしい頑固そうな目。どこまでも腹立たしく、真っ直ぐな瞳。今気づいたよ。その目は、あいつにいかにもそっくりだ」
と苦々しげに、謎めいたことを言った。
「あいつ?」
「ああ、わしに近づき、わしを謀ろうとした憎き男さ。楠哲夫。お前の祖父だよ」