132 対峙 1
春臣の家の前に物々しい高級車が止まったのは、全員でいなくなった媛子を捜索しようと家を出ようとしていた時だった。
まるで周囲を威嚇するような黒い光沢を放つその高級車は、静かで穏やかな周囲の景色の中で、明らかに目立っていて、どこか目にゴミが入ったような、不快な感覚を春臣に与えた。
二階の窓からその様子を確認していると、隣で見ていたさつきが何かを思い出したように、あっと声を上げた。
「どうした?」
春臣が訊くと、彼女はなぜか狼狽した様子で、ゆっくりと窓から後ずさった。
「いえ、ちょっと……」
と、恐れを隠して必死に取り繕っているような、中途半端な顔をする。
「さつきちゃん、あれが誰の車か知ってるのか?」
これは木犀が訊いた。彼女が心配なのか、傍によって話しかける。
「何か知ってるなら、話してくれ」
すると、彼女は言葉に迷い、しばらく目を忙しなく動かしていたが、やがて、
「多分、杉下さんが外出用に使用する車です」
とそう言った。
「杉下さん?」
春臣は、彼女の言葉を鸚鵡返しした。どこかで聞いたことがあるような気がする。すると、隣で椿も春臣と同じように、あれ、どこかで聞いたことあるなあ、と顎に指を当てている。
しかし、それとは違う過剰な反応を見せたのは、さつきの隣にいた木犀だった。彼はその名を聞くと、すぐに顔色を変えた。
「す、杉下? ど、どうしてそんなやばい奴らがここに?」
「やばい奴ら?」
「そうだよ。榊にも前に話したろう? この辺一帯を裏で牛耳ってる金持ち野郎だよ」
その言葉に春臣も合点がいった。そうだ、彼が以前ここに忍び込んできた晩にそう言っていたではないか。
そして、その杉下家は、自分がここへ越してきたときに、一番に挨拶に向かった家だった。確か、その家には祖父も世話になったと聞いている。
しかし、そこまで思い出して、春臣は疑問に思った。
その杉下家の人間がわざわざ春臣の家にまで出向いてくるとはどういうことだろう。あの杉下老人には連絡先は伝えてあるし、何かあったらまずはそこからこちらに連絡があるはずだった。
だが、それもなしに、いきなり家の前に現れるとは、何かよっぽどのことに違いない。
この木犀と話とさつきの反応といい、何かありそうだ。春臣にただならぬ緊張が走った。
すると、階下から玄関の扉が叩かれる音がした。少々乱暴に叩かれているようで、扉が軋んでいるようだ。
ベルを鳴らせばいいはずなのに……まるで、家の中の人間を威嚇するようだな。
その考えが、春臣の心をいやが上にも身構えさせた。
一先ず、他の三人に目で合図し、ここにいるよう指示すると、自身は階段を駆け下り、靴を履いて扉を開けた。
「はい、どちら様ですか?」
あくまで明るい声で顔を出す。
すると、そこには数ヶ月前に会った、あの白髪の老人が立っていた。杉下老人である。一度しか見たことが無いはずだが、春臣の記憶にはなぜかくっきりとその老人のシルエットが焼きついていて、一目で、その人と分かった。
そして、その杉下老人の背後には、なぜかどこか見覚えのある気のする痩せた一人の若い男と、さらに、まるでボディーガードのような屈強な肉体をした二人の男たちが立っていた。
その、なんとも異質な組み合わせに、春臣はぎょっとする。
一体何事なのだろう。少なくとも、穏やかな空気ではない。
「おお、ごきげんよう、榊君」
この場に不釣合いな、のんきな調子で杉下老人が手を差し出してきた。春臣はおずおずとその手を握る。
「杉下さん、どうも、お久しぶりです」
春臣はそう挨拶をし、すぐさま、
「あの、今日はどんなご用件で?」
と訊いた。
「うむ。突然訪ねてきて申し訳ないが、折り入って、君に聞きたいことがあってね」
「聞きたいこと?」
何だろう、と春臣は思案するが、そのこととは別に、ここでいつまでも老人を立たせてこんな場所で話をするというのは礼儀に反すると思い、中に招こうとした。
「お茶でも出しますので、とりあえず、中へどうぞ」
と、一歩退いて、玄関に人が入れるスペースを空ける。
しかし、老人は静かにそれを手で制した。
「いや、君にそんな面倒なことをさせるつもりはない。用事が済めばさっさと帰ろうと思うからね」
「はあ……」
肩透かしを食らい、なんだかぼんやりとしてしまった後で、春臣は改めて訊く。
「では、その用事と言うのは?」
「うむ、単刀直入に申そう」
すると、老人は深くしわがれていながら、よく通る声で言った。
「君の家に、紅い髪をした少女が住んでいるだろう?」
「え?」
その途端、春臣は、いきなり体の肩から下の部分がすとんと全て落ちてしまったかのような感覚に襲われた。
な、何だって?
この老人は、今、何と言った?
紅い髪の少女?
それは、紛れもなく、明らかに、媛子のことだろう。
つまり、杉下老人は、その媛子がここにいるか、と訊いているのだ。
いったい、いつの間に?
いつの間に、この杉下老人は、そんな情報を知っていたのだろうか。
「住んで、いるのだろう?」
まるで言葉をよく知らない子供に言い聞かせるように、そして同時に答えを催促するように、老人は訊ねてくる。
春臣は、どうすべきか逡巡した。脳内はすでに混乱の大波で洪水が引き起こされている。
考えろ、考えろ。すぐに、考えろ。
どう答えれば最善だ?
全く知らないと、しらを切るか?
いや。そこで脳内の冷静な声が言った。
ここで下手に否定すると、危険な気がする。素直に肯定すべきだ。咄嗟にそう思って、春臣は頷いた。
「え、ええ。ご存知だったんですか?」
すると、隣に立っていた若い男がまるで春臣を見下したようにへらへらと笑った。
「そりゃそうさ。僕たちがこの町で知らないことなんてないよ、君。僕たちは何でも知ってるのさ」
まるでそれは、自宅の庭に植えてある木のことを語っているような、ずいぶん簡単な言い方だった。いつもなら、その態度はなんとも春臣の癪に障るものだったが、今はそれどころではない。春臣はすぐに老人に視線を戻す。
「そうか、やはりそうなのか」
するとそこで、老人は満足そうに一度深々と頷き、そして、両目を大きく開いて春臣を見た。
「それで、その少女は今、どこにいる?」
「え?」
それは続けざまの衝撃だった。
なぜ、
なぜ、この老人がそんなことを聞くのだろう。
どうして、そんなことを知る必要があるのだろう。
ただならぬ気配に、春臣は、すぐに答えることはためらった。もちろん、現在彼女は行方不明であって、そもそも居場所など答えようがないのだが。
「どうして、そんなことを?」
恐ろしい核心をついてしまいそうで、僅かに震える声で訊く。
「おお、すまない。いきなりそう聞く前に君に言うことがあったな。何事にも順序がある」
すると、ごほんと老人はわざとらしく咳払いをした。春臣はそこでてっきり、きちんと質問した事情を説明してくれるのかと思ったが、老人の口からでたのはまたしても質問だった。
「あの少女は、人間ではないな?」
これには、ついにとどめを刺された気分がした。春臣は体の先から先までが真っ白になってしまう心地がして、口の奥でじわりと嫌な味が広がる。
彼女の話出た時点で、嫌な予感はしていたが、まさか、そこまで知っているのか!?
彼女が、普通ではないということを?
彼女が、神様だということを?
すると、畳み掛けるように刃物を突きつけるかのような鋭い目つきで老人が睨みを利かせてきた。これには必死で内に覆い隠そうとした動揺が、抑えきれずに湧き出てくる。
「あ、あ……」
つい、声にならない息が漏れてしまった。全くもって、不覚だった。これでは誰がどう見ても、挙動不審である。
すると、それを見た老人は春臣の答えもないままに、突然、口の端が耳まで届くような恐ろしい笑いをみせた。
「そうか。その女はやはり、人間ではないのだな!」