128 崩壊
次の瞬間、バチリっ、と春臣の中で何かが爆ぜたのが、分かった。
「――!」
声にならない悲鳴を上げて、春臣はその場でのた打ち回る。
一体なんだ。何なんだ。
訳の分からない何かが、どっと春臣の腹の中から噴出し、喉が詰まり、呼吸が出来なくなる。
「春臣!」
媛子の悲鳴だ。
しかし、苦しくて、視界が滲み出した涙で霞み、彼女の姿を確認することが出来ない。のたうつ内に周囲が、次第に、暗黒へと変わっていく。ずんずん、ずんずん、沈んでいく。
何だ。これは一体、何だ?
その半濁した意識の中で、春臣は見覚えのある場所に自分がいるのが分かった。
厚いカーテンに囲まれた暗く長い廊下である。そこはいつか見た、夢の中の光景と同じ。目には見えない、巨大な怪物の気配を感じた、あの黒い夢と同じ場所だった。
これは、夢なのか、現実なのか。
しかし、春臣は、それを認識するや、今度は問答無用で、その暗い廊下の向こうに引き込まれた。声を出す間もなく、ぐわんぐわんと意識が攪拌され、闇の向こうに落ちていく。
そして急に、唐突に、意識がはっきりとした。
そこで感じたものは、気づいたものは――本当の自分の気持ちだった。
そうか、そうだったのか。春臣は確信した。
自分は、初めから、最初から、
それを望んでいたんだ。
俺は、俺は、ずっと――――――かったんだ。
だから、
だから、だから、
だから、だから、だから全部。
ブチコワセヨ。
次の瞬間、目を開いた春臣は、近づいてくる媛子の手を乱暴に払い飛ばしていた。
パシン、と乾いた音が部屋中に響く。
時間が、止まった。
「な――」
春臣は、その刹那、媛子の表情を見た。突然のことに、彼女の顔は、複雑に歪んでいた。どうやら、目の前の状況が理解できていないようだ。当然だろう。
しかし、春臣は説明しない。
代わりに、ぎりりと歯を食いしばる。
そして、叫んだ。
「触れるな!」
それは、いつも自分の声とは思えないほどに、どす黒く、野獣のように獰猛で低い声だった。
「俺に……俺に、触れるな!」
威嚇するように、続けざまに、叫ぶ。心臓が痛いほどに拍動し、春臣の頭の中で、何かが騒ぎまわっている。
どうにも、止められない。
「春臣……」
そこで、動揺に震えた媛子が口を開いた。いきなり払われた自分の手のひらと、春臣の顔を信じられないもののように、交互に見ている。
「春臣、お主……」
これはどういうことなのか。そう問いかけようとしたのだろう。だが、春臣はそれを弾き返すようにして叫んだ。
「お前なんか、嫌いだ!」
「え?」
「嫌いだ嫌いだ、大嫌いだ!」
真っ黒い何かが、春臣の腹の中で暴れまわり、ぬめぬめとした毒を撒き散らしている。それが、春臣の精神をどんどん腐らせていく。
「な、なんじゃ、と。春臣、落ち着くんじゃ」
あまりの展開に、呆気に取られている媛子の声が頭に響く。しかし、それで春臣が冷静さを取り戻すことはなく、むしろ、内なる怒りを増幅させた。そして、春臣の口はその捌け口となり、容赦なく乱暴な言葉を媛子に叩きつける。
「お前に……お前なんかに、俺の気持ちが分かるのか。お前に、この俺のどうしようもない気持ちを消せるのか?」
「春臣、わ、わしは意味が分からぬ。いったい、どうしたのじゃ。わしは……怖い」
怯えた媛子の言葉。
しかし、春臣は、意識が、かき回されていて……。
「うるさい……うるさい、黙れ。お前には、結局何も出来ない!」
「は、はる、おみ。止めてくれ」
媛子は、今にも、泣き出しそうで……。
でも、春臣の言葉は止まらない。
「そう、お前は、いつだって何も出来ないんだ。神様のくせに、役立たずで、肝心なときにはいつも他人任せな奴なんだ!」
「は、はる……」
「そんな目で、そんな目で俺を見るな! お前なんか、最初から厄介者だったんだ」
「そんな……嘘じゃ……」
「勝手に、ずかずかと俺の生活に入ってきやがってよお。迷惑なんだよ。目障りなんだよ。俺はお前が、いっそのこと早くいなくなってしまえばいいと、ずっと思ってた。消えちまえばいいと思ってたんだ。分かるか? 俺は、お前が大っ嫌いなんだ!」
「うそ、じゃ……」
「うるさい、喋るんじゃない! いいか、よく聞け。ここは、俺の家だ! 俺の居場所だ! 他の誰も、ここにいなくていい。俺一人でいいんだ。だから、今すぐに出て行け、ここから。そして、二度と、もう二度と帰ってくるな、分かったな!!」
ビィン――。
最後に放った言葉の切れ端が、部屋中に跳ね返って、空しく残響音を立てる。春臣の頬から、汗が垂れた。それは音もなく、ぴとりと畳に落ちて、吸い込まれていった。
息が、熱い。とにかく熱い。
肺が、溶けてしまいそうだ。
春臣は自身の体が震えているのが分かる。体中の細胞が興奮しているのだ。無理もない、あんなに叫んだのだから。
乱れた呼吸を整える。
そして、おもむろに顔をあげた時――。
春臣は、そこに捉えた。
絶望の色に染まった、媛子の顔だ。
つい先ほどまで瑞々しく柔らかそうだった彼女の肌はいまや強張り、凍りついたように動かないその瞳から、一筋の涙が零れた。それは悲しげな紫の光を帯びて、喉を伝い、彼女の手の甲に落ちた。ぱっと砕けるように、弾ける。
それを見て、氷の剣で貫かれたような衝撃と共に、春臣ははっと我に返った。
いったい、いったい、俺は。
俺は、何を、した?
混乱が血液をめぐり、怖気が背中から這い上がってくる。
とにかく、今の言葉を否定しなくては。
しかし、必死に春臣は弁解をしようと口を動かそうとするが、それが出来ない。腕にも、足にも、顔にも、どこにも、力が入らなかった。頭の中が急速に熱を失っていき、エネルギーが空っぽになってしまったように、疲労感が怒涛のごとく押し寄せて体を支配し、立っているだけで、やっとな気がする。
そうこうするうちに、先に媛子が動いた。彼女は音もなく、静かに首を落とすと、立ち上がった。その影が部屋の奥まで、異様に長く、色濃く伸びる。
「そうか、やはり、相容れぬか。わしとお主は」
その沈みきった絶望の声を前に、春臣は何も言えなかった。何かを弁明しようとするが、頼りなく擦れた吐息が漏れるのみである。
「すべてが、最初から、わしの勘違いじゃった。お主と、人間と共に暮らすなど、砂糖にまみれた、甘い幻想じゃったのじゃな。それが、お主の嘘偽りのない本心の言葉なのじゃろう?」
彼女の問いかけ。それに対し、春臣はやはり動けない。肯定も、否定も出来ない。
しかし、彼女はそれで全てを納得したように頷いた。
「済まぬな。今まで、わしは気がつかんかった。ほんに、愚鈍じゃの。滑稽じゃの。確かに、どこからともなくひょいと現れたわしなど、お主にとって、邪魔者以外の何者でもない。そのくせ、お主にはいつも無理をさせて、わしは、大きな顔してあぐらをかいておった。厚顔無恥にも程があろうにの。全く、何様のつもりじゃ。ほんに、申し訳ない」
「いや、今のは……」
「じゃが、安心せよ、春臣。これからわしは、お主の望むとおり、もう二度と、おぬしの前には姿を現さん。金輪際、絶対にじゃ」
「ち、違う、媛子」
「約束しよう、春臣。わしはここから出て行く」
そう言って、彼女は振り払うように春臣に背を向けた。紅の髪がそれに従い、じっとりと闇を吸って、重たそうに彼女の背中で揺れる。その様子が、なんとも痛々しい。
そして、彼女は一歩部屋の外に踏み出して、
「春臣よ」
と呼んだ。
「何もないわしには、大した礼も出来ぬが、これだけは言っておく」
天井を仰ぎ、すうと息を吸うと、とびきり明るくこう言った。
「今まで、お主とおって、とても楽しかったぞ!」
「あ、あ……」
「それでは、さらばじゃ」
そしてそのまま、春臣が何も言えないまま、彼女は、部屋から出て行った。
バタン、と扉が閉められる。
それは、これまでの春臣と媛子の関係を断ち切る、決別の音だった。
その音を聞いて、しばらく、春臣は動かないままでいた。いや、まだ動けなかった。この状況にまるで実感がない。力も出ない。
そして、その空虚な気持ちを晴らすために、
「何だよ、これは」
と、静かに自身に問いかけた。
俺は、いったい、何をしたんだ、と。どんな罪を犯したのだ、と。
すると、すぐに答えが返ってくる。
ブチコワシタンダヨ。スベテヲ。
どうして、こんなことを。
アレデヨカッタンダ。
もう、全部、手遅れなのかよ。
テオクレ? ソウダナ、オマエハテオクレダ。
モウ、リカイシテイルノダロウ?
オマエハ、カノジョト、クラセナイ。
春臣は拳を振り上げ……。
オマエハ――俺は、彼女とは、暮らせないんだ。
「暮らせないんだよ!!」
その言葉と同時に、拳を畳に叩きつける。ミシリ、と部屋全体が軋んだ。
そうだ、暮らせないんだよ。
そう言い切ってしまうと、春臣の中で、不思議な安心感が生まれた。春臣の心の奥にあった枷が外れ、自然と笑みがこぼれる。もう、彼女は戻ってこないのだろう。そして、自分は一人だ。これでいいんだ。これで、何も心配しなくていいのだ。
「ハハハハハ……」
しかし、それは一瞬のことだった。
すぐに、悲しみの奔流が大波となって押し寄せ、春臣の心を取り囲み、飲み込み、感情を溢れさせた。抵抗もなく、春臣は失望の海に投げ出される。
あっけないものだったな。
こんなこと、ちっとも望んでないのに。ちっとも、ちっとも。
嗚咽が喉の底からこみ上げてくる。
そして、
「――」
声もないままに、
「――」
春臣は両目から、涙を零し始めた。