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天罰なんて怖くない!  作者: ヒロユキ
第六部 黎明の炎編
127/172

127 フタリノトキ 2

 朱色の唇が動く。


「わしの名を、呼んでくれぬか」

「え?」


 突然の申し出に、春臣は訳が分からず面食らった。戸惑いつつ、


「名前を、か?」


 と確認する。すると、彼女は冷静な様子で頷いた。


「そうじゃ。わしは、誰なのじゃ?」

「決まってるだろ。媛子じゃないか」


 即座に春臣は答える。同時に、変なことを聞くものだと思い、眉をひそめた。よもや、実はまだ酒に酔っていて、自分の名を忘れたとでも言うつもりなのだろうか。

 しかし、彼女はいたって真面目な表情で春臣を見ている。その瞳の中央には揺るがぬ光が宿っており、発した言葉が何の冗談でもないことを示していた。


「ふむ、そうじゃ、わしは媛子じゃの。お主がそう名づけてくれた」

「あ、ああ……そうだったな」


 春臣は、記憶を掘り返した。確か、彼女が初めて来た晩につけたのだっけ。


「でも、名づけたってほど、おおげさなことじゃねえよ」


 そう言って苦笑いする。

 ただそれが呼びやすくて、ちょうどよかっただけだ。緋桐乃夜叉媛じゃ呼ぶのには長過ぎたし。今思えば、彼女がこの呼び名を妙に気に入らなければ、使っていなかっただろうと春臣は思う。

 しかし、彼女はいやいやと首を振った。


「ううん、おおげさなことなのじゃ。わしにはの」


 その表情はやはり重たく真剣だ。一体、何を話そうとしているのだろう。春臣は不思議に思う。


「それは、どういうことだ?」


 と問いかけると、


「お主には、まだ話しておらんかったの」


 彼女が少し声を低くして重々しく言った。


「実は、真実を言うと、わしには『名が無い』のじゃ」

「え!?」


 それはあまりに唐突で、思いがけない告白だった。


「ふふふ、おかしいじゃろう」

「お、おかしいっていうか……」


 春臣は思わず狼狽する。

 名前がないだって?

 本当なのか?


 しかし、そこで落ち着いて思い直した。

 いや、

 いやいや、違うぞ。

 そうだ。彼女には緋桐乃夜叉媛という列記とした名があるではないか。それはどうなるのか。


「で、でも――」


 が、春臣がそれを指摘しようと言いかけたところで、彼女が見透かしたように、薄っすら笑みを浮べたまま口を開けた。


「春臣」

「な、何だよ」

「確かに、わしには、緋桐乃夜叉媛という名がある。しかし、これは他でもない、わしがわしにつけた名前なのじゃ」

「自分、で……?」

「そうじゃ。わしが向こうに、神の世におった頃は、誰もわしのことを、名前で呼んだりはせんかったからな」


 そう、なのか?

 だから、あの時、彼女はあだ名をつけられて、あんな風に喜んで。

 春臣は、壁に飾られた媛子の書初めの文字を見た。「媛子」と頼りない線で書かれたそれは、今見れば、当時彼女の中でこみ上げている嬉しさが、文字の中から伝わってくるような気がした。


 しかし、そうなると、一体全体どうして彼女には名がないのだろう。春臣は当然疑問に思う。普通、神にだってきちんと名前はあるはずだ。

 問い詰めようと、春臣は再び口を開きかけた。


 が、発しようとしたその言葉が、喉の奥で立ち止まってしまう。他でもない、目の前の媛子に目を奪われてしまったせいだ。

 彼女は、いつの間にか、春臣のすぐ手の届く傍まで近寄っていた。そこに、窓から差込む月光が淡いベールのように彼女を包んでいる。

 春臣は思った。まるで、月光の下で、赤く鮮明な色をした花が咲き誇っているみたいだ。

 媛子の腰まで届く長い髪が、彼女を初めて見たあの日と同じように、星屑を閉じ込めたような輝きを放っている。長いまつげの下、儚げなその瞳が、何かを訴えかけるように小刻みに震えていた。その可憐さに春臣は我を忘れ、つばを飲み込んだ。

 彼女と、目が合った。


「春臣、聞いてくれ。じゃからこそわしは、お主が何の隔たりもなく、わしの名を自然に呼んでくれることが嬉しかった。たったそれだけのことじゃが、わしは心の底で、自分がここにいて大丈夫なのじゃと、感じることが出来た。安心することが、出来たのじゃ。今まで言ったことはなかったがのう」

「……媛子」

「春臣、わしが大げさと言ったのは、こういう理由じゃ。でも、いつの間にか、わしの中の気持ちは、それだけで納まらなくなっておった」


 すると、彼女の白い手が、迷いながらも、春臣の手首を掴んだ。それは、微かに汗ばんでいて、ひんやりとしていて、春臣の心がぎゅっと縮こまる。


「それがどういう意味か、分かるじゃろ、春臣。もうわしは、隠すつもりは無いぞ」

「……」

「わしは、もうずっと前から……そんなお主に惚れておったのじゃ」


 大きく見開かれた彼女の瞳が、すっと意思を持って強く春臣を見据える。


「わしにとっての、特別な存在。じゃから、もっと近くにいたい。これからも、ずっと、自分を見ていて欲しいと思うようになっておった。お主のことが愛おしいのじゃ。もう、我慢せぬ。わしは、春臣に本当の気持ちを知ってほしかったのじゃ」


 彼女の言葉が終わって、春臣はしばらく沈黙した。頭の中がまたしてもパニックになるのかと思ったが、今度は大丈夫だった。落ち着いている。

 すっと息を吸って、吐いた。

 そして、何も言わずに、媛子の手を上から包んだ。彼女が小さく悲鳴に似た声を出した。きっと彼女も驚いたのだろう。春臣の手の平の冷たさに。


「俺も、もう、隠さない」

「春臣?」

「俺も、媛子が好きだ」


 春臣がそう言うと、彼女は喜ぶのかと思いきや、驚いた子供のように目をパチパチと開閉した。


「不気味なほど、あっさりと言いおった」


 おそらく、今までの春臣の煮え切らない態度から、こんな風にすっぱり言い切るとは思っていなかったのだろう。

 しかし、春臣は、最初から決心していたのだ。彼女に、自分の本心を告げるのだと。


「もう馬鹿みたいに頭使ってあれこれ考えるのは止めたってことさ」

「考えるのを、止めたのか?」

「そうだよ。人間ってのは考えすぎると余計なことばかりに目がいってしまうらしい。だから、やめたのさ」


 そうして、春臣は自嘲気味に笑った。先ほど自分が考えていたことを彼女に話してもよかったが、それはそれで恥ずかしい。やはり、その考えの馬鹿馬鹿しさに自分が気がついたせいもあるのだろう。


「ほう、お主がいったい何を考えておったのか知らぬが、そうか、考えるのを止めたか……」


 すると、急に媛子が黙り込んだ。


「どうした?」

「いや、なに……」


 と、何かよからぬことを思いついたようで、ぺろりと舌を出す。


「それは好都合じゃの」

「何だ、どういうことだよ?」


 嫌な汗が滲んだ。


「もう、何も考えぬのであろう?」


 そう言うのと同時に、彼女の手がすっと春臣の頬に伸びる。それが、ぴとりと優しく触れた。その細く柔らかな感じがなんとも言えず愛おしい。頬の感覚を通して春臣の頭の奥をピリピリと心地よく麻痺させた。


「これからわしの言う通りにせよ」


 媛子が囁く。


「は、はあ? どうしてさ」

「むう、口ごたえは無しじゃ。今お主は何も考えることの出来ぬ人形なのじゃろう?」

「あのな、俺は何もそんなこと言ったつもりはないぞ」

「うるさいのう、余計なことを言うなと言っておるじゃろう。なんなら今すぐにこの生意気な口をつねってもよいのじゃぞ」


 媛子が春臣の頬をすっと抓む。彼女の爪が頬に少しずつ食い込んだ。もちろん、痛みが走る。


「お、おい止めろ。何のつもりだよ」

「何のつもりも何も……ぐう、少しはお主も察せ!」

「はあ?」


 すると、何かの前触れのように、媛子の指から力が抜けた。


「ようやく……ようやく、想いが通じ合ったのじゃ……してみたいことの一つや二つ、あるものじゃろう……」


 春臣から見て、彼女が、小さく息を吸うのが分かった。ああ、そういうことか。春臣は、それで彼女がやろうとしていることを理解する。ならば、抵抗は止めた方がよさそうだ。


「ほれ、目を閉じよ」


 彼女の言葉に応じ、素直に目を伏せる。その後はもう、何も考えずに、キスをした。余計なことを思うと、また面倒になる。今一番頼りにするものは、彼女を想う気持ちだけなのだ。

 彼女からは、ふわり、と花のような香りがした――。


 キスを終えて彼女を見ると、恥ずかしげに頬を染めていた。自分もそうなのだと思うと、なんだかいた堪れない。でも、その中にもとても心地よい、手離し難い温かな気持ちがあるのに、春臣は気がついていた。

 ようやく、気持ちが通い合ったのだ。何を彼女に対する気持ちを抑える必要があるだろう。


 俺は、彼女が好きなのだ。

 おそらく、この上なく。

 いますぐにでも、ぎゅっと強く抱きしめてやりたいくらいに。


 そう思って手を伸ばそうと思うと、彼女は自ら、背後の布団の上に体を仰向けに倒した。ぼふう、と空気が押さえられる音がする。

 おいおい、何を考えてるんだ。

 彼女に対して、そんなことを考えるが、頭に血が上り、もう、冷静な判断が出来るような状況ではなかった。ぶつりと脳内で回線が切れるような音。額に熱が集まり、春臣は眩暈がしそうになる。

 気がつけば、春臣は、彼女の上に覆いかぶさっていた。


 媛子、媛子、媛子、媛子、媛子、媛子、媛子……。


 叫びにも似た衝動が胸の奥から湧いてくる。


「今度は、俺からしても、いいか?」


 そう聞くと、彼女はしおらしく頷いた。


「構わぬ。わしは、もう――」


 もう、何なのか。聞くことはなかったが、聞く必要もないことだと思った。なぜなら、既にお互いの気持ちは伝え終わっているのだ。それ以上に、何を確認することがあるだろう。

 躊躇いなく彼女の唇に顔を寄せる。


「媛子、好きだよ」


 しかし、

 しかし、

 しかし、

 それは、崩壊の始まりでしかなった。


 次の瞬間、バチリっ、と春臣の中で何かが爆ぜたのが、分かった。

どうも、聖なる夜にこんばんわ。ヒロユキでございます。

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

もう今年も残すところあとわずかですね。一年と数ヶ月続いておりますこの作品もそろそろ終盤、最後の佳境を迎えようかとしているところであります。

夏辺りでは、年内には作品を完結できるかなあ、と薄っすら思っておりましたが、全然ダメですね。書いても書いても終わんないんです。

現在の見込みでは、来年の二月か三月ごろまではかかりそう。それまでまだまだではありますが、読者の方々にはどうかお付き合いいただければ、と願っております。それでは、また。

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