126 フタリノトキ 1
窓から外を見渡せば、眠りについた柊町の家並みがぼんやりと浮かんで見えた。世界の時間が止まってしまったかのように、何も動かず、誰もが息を潜めているようにも思える。
唯一、遥か遠くに見える、揺らめく青いきらめきがあるが、あれはきっと楡川に映る月の白光だろう。見ているだけで、しずしず、ころころと、心が清められていく気がした。
春臣は、窓枠に腰かけていた。
パーティーが終わって、もうどれくらいが経ったのだろうか。時計を見ていない春臣には、正確に今が何時なのか分からない。
しかし、日付が変わっていることは間違いなさそうだと春臣は思う。感覚から判断して、おおよそ、この部屋に来てから、二時間以上は経過しているはずだった。そして、そうなると、必然的に、あの仲間たちとの賑やかな宴は、もう昨日のことということになる。
この静けさを前にそれを思うと、春臣はまるでその全てが夢であったかのように遠く感じた。それほどに、世界は無音なのだ。
と、ふいに春臣は、背後に何者かが動く気配を感じて振り向いた。
そこにいたのは媛子だった。一眠りしたことで酔いが覚めたのか、冷静さを取り戻した表情で、こちらの様子を窺っているのが、薄明かりの中で分かる。
「媛子……」
声をかけると、彼女は微妙に首を傾げた。
「春臣。眠れぬのか?」
「え?」
「先ほどから、ぼうっとしておるぞ」
どうやら彼女はしばらく自分の様子を見ていたらしい。もうずいぶん遅い時間だというのに、布団にも入らない春臣を不審に思っていたのだろう。
「いや、別に」
春臣は否定の意味で手を振った。
「ただ少し考えごとしていたんだ……それよりも、媛子の方こそ大丈夫なのか?」
そう聞き返すと、彼女の眉が少々驚いたようにぴくりと反応した。
「うむ、何のことじゃ?」
「ほら、さっきあれだけ酒を飲んでたじゃないか。ぐでんぐでんになるまでさあ」
言いながら、春臣は居間に今も転がっている一升瓶のことを思った。彼女が一体どれほどの量を飲んだのか知らないが、あの様子では相当だったのだろう。それを思えば、朝まで酔いが残っても不思議ではない。
しかし、彼女はふふんと自信有りげな様子で鼻を鳴らした。
「それならば問題はない」
「問題ない?」
「うむ。わしはその気になれば酔いのコントロールなどいくらでも出来るのじゃ」
「へえ、なるほど……それじゃあさ」
「なんじゃ?」
「さっきはそのコントロールを怠けていた、ってわけなのか」
春臣は呆れたとため息をつく。そのせいで自分は三十分も身動きを取れなかったというのに。しかし、春臣が敵意のこもった目で睨むと、彼女はなぜか、そうじゃと堂々と胸を張った。
「じゃから、お主はわしに『感謝』せねばならんぞ」
「はあ?」
全く、この阿漕な神様ときたら、何を言い出すのだろう。
「どう考えたらそうなるんだよ」
呆れた春臣が抗議すると、彼女は口の端だけでニカッと笑い、人差し指をピンと立てた。
「春臣よ、よく考えてみよ」
「何をだ?」
「男の持つ力強さというものはここぞという時に発揮されて然るべきじゃろう? 酒に酔ってしまったか弱き乙女を助けることができる状況など、男として生まれてきて本望であるはずじゃ」
「あのなあ……」
それで俺が納得すると思ったのか。
そう春臣が文句を言おうとすると、そこへすかさず彼女が言葉を重ねてきた。
「何も言わずに……」
「へ?」
「何も言わずに、わしを背負ってくれたお主は、なかなかかっこよかったぞ」
そして、意味ありげにうっとりと目を細めた彼女。
「う……」
そうか、こいつ、狸寝入りしてやがったのか。
「ほれ、照れるな照れるな。ほんに初心じゃの、お主は」
そして、くふふと彼女が愉快気に笑い、むすりと春臣は口をつぐんだ。
微妙に気まずい沈黙が辺りを満たす。
しかしながら、春臣には、それが不思議にも心地よく感じられた。つい数時間前までは、彼女と話すのも億劫であったのに、いつの間にか、彼女とのやり取りが、いつも通りになっていることに気がついたのである。
それは、一体今まで彼女と自分の間にあった見えない壁は何だったのだろうと思うほどの自然なやり取りだった。
「春臣」
しばらくして、媛子の指が春臣の肩をつんと突いた。
「何だ?」
振り向くと、彼女は妙に真剣な顔して春臣を見ていた。その強い眼差しは、これから何か特別なことを話そうとしているような、そんな決意に満ちたものだった。
彼女の朱色の唇が動く。
「春臣。わしの名を、呼んでくれぬか」
どうもヒロユキです。
今週は投稿のペースが遅れてしまいましたね。すいません。いろいろ忙しかったので、執筆に集中することが出来ませんでした。次回からは元通りになれると思うので、よろしくお願いします。