125 天罰なんて怖くない
さすがにいつまでも媛子をここで寝かせるわけにはいかない。
すっかり自分の目の前で眠ってしまった彼女を見下ろして、春臣は思った。
時計の針は、もう椿たちが帰ってしまって、三十分も経ったことを示している。その間、春臣は媛子に言われるがまま、彼女の枕として、なるべく動かずにそっと壁に寄りかかっていたのだが、季節がいくら夏とはいえ、そろそろ動かなければ、二人揃って風邪を引いていまうだろう。
春臣はそう思い、
「とりあえず、媛子を二階に連れて行くか」
と独りごちた。
せっかく皆に祝ってもらったというのに、翌日二人して寝込んでしまったのでは、その喜びも台無しだ。
そして、一先ず彼女の体を起こそうと試みたのだが、そこで春臣はいきなり問題にぶち当たる。
なにしろ、彼女はぐでんぐでんに泥酔しているのだ。声をかけてもせいぜいいびきが返ってくるのみで、もはや、立ち上がらせるどころか、目を覚まさせることさえ困難な状況だった。
すると、先ほどの椿の言葉が春臣の脳裏を不吉によぎる。
一緒に仲良う寝たらええやん。
いやいや、その決断を下すにはまだ早すぎる。他にも方法はあるはずだ。
そうだ、何も彼女に動いてもらう必要はない。単純に自分が彼女を持ち上げればいいのだ。春臣はそう思った。
もちろん、春臣にしてみれば、彼女一人を持ち上げることは不可能ではない。年端もいかない子供や、腰の曲がった老人ならまだしも、自分は成人しようかという男子大学生だ。何も無茶なことはない。
しかし、
しかし、そこで春臣はためらう。
確かに一番手っ取り早い方法ではあるが、そこには少々問題があるのだ。
それはつまり、彼女は神とはいえ、普通の少女の姿をしているいうことである。
女性の体に触れる機会など、この世に生を受けて以来、皆無に等しかった春臣に、その行動を実行に移すことは困難を極めた。
まず、どう抱えればいいのだ。
肩を抱え、膝裏に手を通して、いわゆるお姫様だっこをすればいいのか?
それとも、子供のように背中におんぶ?
はたまた、両足を持ち上げて引き摺るか?
ううん、とりあえず、最後の選択肢だけは確実に怒鳴られそうだ。
却下だ、却下。
「……」
しばし困った春臣だが、しかし何もしなければただただ無為なる時間だけが過ぎていく。
よし、と覚悟を決め、深呼吸すると、ひとまず、媛子を背負ってみた。ずり落ちないよう、彼女の腕を自分の首に巻きつけると、次に両足を抱えて立ち上がる。
すると、案外安定した。どうやら上手くいったようだった。背中で媛子がのんきにズピーと寝息を立てる。
それを確認すると、細心の注意を払って一歩ずつ歩を進め、何とか二階まで運ぶことに成功した。畳の上に彼女を下ろし、ふう、と重いため息をつく。
しかし、作業はそれで終わりではない。
今度は布団を敷いて、枕を用意して、眠る準備をし、彼女をそこへ寝かせた。いやはや、たったそれだけとはいえ、人一人を動かすわけだから、ずいぶんな大仕事である。
そして、ようやく全てを終えて、疲労した体を春臣が布団の上に横たえると、ちょうど、壁の神棚に目がいった。
最近は特に意識することもなかったそれだが、今さらながら、その神棚こそが今目の前で眠っている媛子をこの世界に繋ぎとめている異空間の形成の要となっていることを思い出だし、途方もない気持ちが押し寄せてくる。
確か元々は、祖父が作ったはずだ。
神など信じないはずの祖父が、どうしてそんなことをしたのか、未だに春臣にはその真意よく分からなかったが……。
「……」
春臣は、何も言わずに、その神棚をじっと見つめていた。
そして、ふいに思う。
神の世界――。
それは、どんなものなのだろう。
神棚の、その向こう側にある世界。日常世界からは見えない、人間たちから、隔離された完璧なる世界。
いったいそれはいつから始まって、この先、どこまで続いていくのだろうか。
媛子たち神様は、そこで、どんな風に生まれ、どんな生活し、どんなことを思っていたのだろうか。
何より、別世界から、自分たち、人間のことをどう思っていたのだろう。自分たちの足元で蠢くちっぽけな人間たちを、どう捉えていたのだろう。
考えれば考えるほどに、春臣には分からなかった。すべてが自分の想像を超えている。真っ暗な宇宙の片隅を頼りなくただ浮遊しているような気持ちになる。
神様、か。
自分にとっての神様って……。
春臣は今度は幼い頃の自分を思い出していた。
あれは、確か、春臣が小学生の頃だった。放課後、友人たちとサッカーに夢中になるあまりに、自宅の窓ガラスを割ってしまった事があった。
あの時は相当に焦った挙句、母に怒られることが怖くて、つい自分がしたのではないと嘘をついてしまったものだった。しかし、大人相手にそんなものが通用するわけもなく、当然のように母にこっぴどく叱られてしまった記憶がある。
散らばった窓ガラスの破片を前に、
『嘘をついたら、天罰が当たるのよ』
と酷い剣幕で叱った母の顔が映像として蘇る。
『神様はね、こんな春臣の嘘なんて、全部お見通しなんだから。空の上から、いつだって皆を見張ってるのよ』
昔は、神様とはそういうものだと、母からよく言われてたのだ。
だからこそ、幼い春臣は神様なる存在をいつも恐れていた。自分が何もしていても、時折空の上から見下ろす、巨大なものの視線を感じ、びくびくと気持ちが萎んでしまうことが多々あった。
小さな自分の力では到底敵うことのない、その絶対的な存在は、今でも春臣の胸の奥に強烈な印象のまま、残っているのである。
しかし、
しかし、こちらはどうだろう。
春臣は首を横に向け、隣で眠る媛子を眺めた。自分から遠くかけ離れているはずの神様が、今では、隣で眠っている。それも、酒に酔って。ぐでんぐでんで。だらしなく、いびきをかいて。
全く、滑稽ったらねえな。
そう思うと、春臣は急に愉快な気持ちになった。数日前から心の奥を冷たく閉ざしていたはずの氷が一気に溶け出すのを感じる。
そうだ、自分は今、そんな神様と共に生活をしているのだ。
当たり前のことだが、春臣は結局そこを意識して考えることがあまりなかった。だからこそ、心の奥で、昔のままの視線で、彼女と自分との間に、無意識にどこまでも「人」と「神」という厳然たる線引きをしようとしていたのだ。媛子を、元の世界に戻すべきだと、それが真実の答えだと、考えていたのだ。
たとえ、彼女が自分のことを好いていてくれたとしても、この世界に居座りたいと願っていたとしても、彼女は「ここにいるべき存在ではない」と、そう思っていたのだ。
こんなことだから、自分は、彼女からの歩み寄りに対して、酷く混乱し、拒絶しようとした。
でも本当は、何もそんな余計なことを考える必要なんて、どこにもなかったのだ。
そうだ。
彼女がどんな存在であろうとも、歴然とした事実として、自分たちはこうして毎日を普通に過ごしているじゃないか。
事件に巻き込まれても、喧嘩をしても、ただただひたすら悩むにしても、いつだって解決してきたじゃないか。
自分たちは一人じゃない、頼れる仲間がいるじゃないか。
もしも、彼女がこちらの世界で生きていくことが困難なことがあるなら、また助け合えばいいのだ。何度つまずいたっていい。その度に起き上がればいい。皆で悩んで、笑って、楽しく暮らせるように、力を合わせればいい。
ただそれだけ。
簡単なことだ。簡単すぎて笑えてくる。
自分はなんと融通が利かない頭をしていたのだろう。
自らの、
彼女に対する、
素直で純粋な気持ちを押さえつけてまで。
そして、春臣はそこでもう一度、空の上にいる神様のことを考えた。
「悪いことをすれば、天罰が落ちる……」
天罰、ね。
でも、こんな神様に天罰を落とされるなら、それはそれでもいいかもしれない。
いまや、遠い世界ではなく、自分の傍にいるその存在。
こんなにきまぐれで、穏やかで、愛しくもある、神様。
そう思えば、
そうだ、そう思えば、
天罰なんて怖くない、のだ。