124 遊宴の夜 3
その異変が起こったのは、パーティーが始まって二時間が経ったときだった。
あれから春臣は、椿と共に切り分けたケーキをつつきながら、とりとめのない四方山話にひたすら花を咲かせていたのだが、ふと、媛子たちの方をずっと気にかけていないことを思い出した。
思いのほか、椿との話が楽しいので、すっかり媛子たちのことは春臣の意識の外だったのだが、今日はその媛子の復活を祝うパーティーなのである。
やはり、ずっと放っておくわけにもいかないだろう。
そう思った春臣はフォークでケーキの頭に乗ったイチゴを突き刺し、口に入れると、他の三人が話している方へ視線を向けた。
と、そこでいきなり、春臣の目の前に誰かが倒れこんできた。
「うわっ!!」
春臣は思わず悲鳴を上げて仰け反った。バランスを崩し、そのまま仰向けに倒れる。
その拍子に、春臣の右手がテーブルの上に置いていた皿に当たり、乗っていたケーキが派手に宙を飛んだ。
事態を理解できないまま、それが、春臣の顔面に不時着する。
ぺちゃり。
「うがっ!」
どこかひんやりとした感触と、柔らかくべとべととした物体に視界を奪われ、春臣はそれが何であるかも確認できず、じたばたともがいた。
冷たい、甘い、何だこれは。
しかし、
「榊君!」
そこで椿の声が飛んできて、春臣ははっと我に帰って起き上がった。手で顔に付着したクリームを乱暴に拭うと、ようやく、目の前に倒れてきた人物が誰であったのかが分かった。
瀬戸さつきである。
彼女は、いつものきりりと引き締まった態度はどこへやら、体をだらしなく畳みの上に投げ出し、仰向けになってとろんとした目で春臣を見上げている。
「せ、瀬戸さん?」
春臣は椿が気を利かせて渡してくれたタオルで顔を拭きつつ、目の前に倒れている少女をゆっくり起こした。
「大丈夫?」
「ふああ、榊さん?」
すると、彼女はまるで半分眠っているように中途半端に目を開け、力なく首をだらりとぶら下げたままで、たった今目覚めたかのような顔でそう言った。
明らかに様子がおかしい。まるで風邪でも引いているようだ。
「どうした? 疲れてるのか?」
「さつきちゃん、どないしたん?」
椿と春臣が同時に質問する。しかし、さつきは目も虚ろなまま、まともに答える気配がない。
「ふにゃあ?」
と気の抜けた言葉を発するのみだ。
一体何事なのか。
だがその時、彼女の方から漂ってくた特徴的な匂いで、春臣は彼女がこの症状に陥った原因に気がついた。
「まさか、酒を飲んでるのか?」
「え、ほんまに? さつきちゃん!」
春臣は彼女を揺さぶった。
「お、おい、どこから酒を?」
「ふぁい? お酒って、ショーチューってジュースのことですかあ?」
相変わらずぐにゃりと首を傾げたまま、さつきが夢を見ているようなふわふわとした口調で言った。
「焼酎?」
「ええ、暮野さんが、おいしいからって飲ませてくれて。ところで、何で榊さん顔にケーキつけて――」
彼女がそこまで言いかけたときには、すでに拳を握り締めて春臣は立ち上がっていた。
「暮野!」
そう荒々しく怒鳴り、背後に座っていた少年を睨む。
そして、次の瞬間には、春臣の視線は彼が手に持っている物体に注がれていた。それは紛れもなくオレンジジュースが入っているペットボトルではない、酒の入った一升瓶だった。
「お前、酒なんて持ってきてたのか!」
「おう、とっておきの酒さ。父ちゃんの部屋からくすねてきたんだよ」
彼は酒を飲んですっかり上機嫌なのか、意味もなく大きな声で、妙なイントネーションで飄々と言った。
「誰がそんなものもってこいなんて言ったんだよ!」
「馬鹿言え、これは持って来いって言われて持って来るものじゃねえよ。こういう祝い事には常備しておくもんだ。宴会と飲酒は同義語みたいなものだろう?」
「あのな、俺たちはまだ未成年だ!」
春臣はずんずん足を踏み鳴らして彼に近づくと、問答無用でむんずと瓶を奪った。
「ああ、俺の酒ぇ!」
そう叫んで木犀は春臣に飛びつこうとしたが、春臣は彼をもう片方の手で押しのける。これ以上木犀に飲ませるわけにはいかない。
すると、木犀は相当酔っていたようで、その勢いだけで、ころんとひっくり返ってしまった。そのまま部屋の隅のツリーに当たり、それが、音を立ててひっくり返る。
「ぎゃふん!」
犬のように彼が鳴いた。
何かのギャグのつもりなのだろうか。一人で壊れたようにけらけらと笑い出す。
この様ではしばらく放っておくしかないだろう。
春臣はそう思って、木犀を無視すると、一升瓶を揺すってみた。ちゃぽちゃぽと瓶の側面を酒が打つ音がする。どうやらすでにかなりの量を飲んだようで、中身はほとんど残っていない。さらに、他にも周囲に何本か空っぽの瓶が転がっているのを見て、春臣は恐ろしくなる。
「こんなに、飲んだのか……」
「まだ缶ビールもあるぜ」
半分寝転びながら木犀がまだそんなことを言い出すので、さすがの春臣も頭にきた。
「うるさい! 酒を飲めない子を酔わせてどうするんだよ! いくら羽目を外すにしても限度ってものがだなあ――」
「はる、おみ」
と、その時、誰かが蚊の鳴くような声で、春臣の足元に縋りついてきた。
「そ、それを……」
その声の主は紛れもなく媛子である。
「媛子?」
はっとして、春臣は慌てて彼女の方を振り向こうとする。しかし、そこでなぜか持っていた瓶がぐいっと何者かに引っ張られた。
見れば、そうしているのは媛子である。
「それを寄越せ、春臣。それはわしがまら飲むのじゃ」
と声を荒げる。彼女は頬を紅潮させ、夢を見ているような目で、瓶に抱きつくようにして、それを引っ張っているのだ。
「媛子、お前も酔ってるのか!」
春臣はぎょっと飛びのいた。
「っく、何を言う、わしはまだ酔っておらん。そこいらの下戸とは違うのじゃ、ひっく。まだまだ頭脳明晰じゃよ」
「俺には酔っ払いが泥酔して管巻いてるようにしか見えないがな」
これはまずいと彼女から酒瓶を引き離すと、春臣はとりあえず唯一無事な椿に瓶を持たせた。
「青山、飲むんじゃないぞ」
「了解や、榊君」
「ようし!」
そして、春臣はしゃがんで腰を落とすと、よつんばいのまま左右にふらつく媛子の肩をしゃんと押さえた。
「おい、媛子」
しかし、彼女の視線はあらぬ方向をゆらゆらと漂っていて、一点に定まっていない。こちらの話を聞いているのかさえ、定かではなかった。
「うがー……」
と不機嫌な犬のような声を出している。
「あのな、よく聞け。こっちの世界では二十歳以下は飲酒禁止なんだ」
「な、何を馬鹿なことを。わしは生まれてとっくに二十年は過ぎておるぞぉ」
ああ、それもそうか。神様だもんな。
しかし、そこで春臣は首を振る。
「そ、そうだとしてもだ。お前、酒なんて飲んだことないんだろう。無茶はするもんじゃない」
「ひっく、うるさいぞ、春臣。堅いことを言うな。わしは今気分がすこぶる良いのじゃ。文句を言わずもっと酒を寄越せ」
「……態度がすっかり昔に戻ってんのな」
春臣は嘆息した。
「ダメだ。酒はやらない」
「なんじゃと、お主……ふざけるな!」
すると、彼女は聞き分けのない子供のように、しばらくじたばたともがいたが、急に何かを思いついたのか、はたと動きを止めた。
突然、ずりずりと体を動かし、春臣に寄り添ってくる。
「じゃあ、代わりにお主、わしの枕になれ」
そう言った。
「はあ? 何言ってるんだ、枕だって?」
「ほれ、この前わしが、っく、お主に寄りかかったことがあるじゃろう」
「ああ、そういえば」
確か、青山がパーティーの話をしに来たときだったか。
「あの時は、じっくり眠ることが出来んかった。じゃから、今でよい。わしの枕になるのじゃ」
彼女はそう言うだけ言って、有無を言わせず、全体重を春臣に預けてくる。鎖骨の辺りに頭を寄せ、ずり落ちないようにか、Tシャツの裾をぐっと掴んだ。
「ば、馬鹿言うな。寝言は寝て言えってんだ」
これには春臣も慌てた。
単に彼女にこんな場所で眠られても困るという理由もあるが、それより何より、タイミングが悪い。
なにしろ、今はパーティーの最中なのである。この友人たちの視線が集まる状況において、自分たちのこんな体勢を見られては、いったい、どう対処すればいいというのか。だらだらと額から汗が垂れる。
すぐさま春臣は、すっかり脱力しきった媛子をなんとか起こそうと試みるが、そこでなぜか椿が止めに入ってきた。
「ああ、ダメやで榊君」
と首を振るのである。
「パーティーの主役は媛子ちゃんなんやから。媛子ちゃんの言うことは絶対服従や」
春臣は唖然とする。
何を言うかと思えば。
「おい、青山」
調子に乗るなと言い掛けたが、そこで彼女はあろうことか、
「ほれ、さつきちゃんも」
と、隣でふらふらと立っている少女にも同意を求めた。そして、何か意味ありげな目配せをしたと思うと、さつきも合点がいったように「ああ」と返事をした。
「そうれすね。夜叉媛さんの言うことを聞いてあげるといいれす」
「なんでそうなるんだよ」
春臣は目を白黒させた。
「起こすのを手伝えって」
「残念やけど、うちら料理作ってくたくたやしなあ。起こせへんのなら、そこで一緒に仲良う寝たらええやん」
「お、おい、何を言ってんだ」
しかし、椿はそれに追い討ちをかけるように、わざとらしく腕をまくるとその白い手首を見て、
「あ、もうこんな時間や、早う帰らな」
などと言い始める。
「青山、お前、腕時計なんてしてないじゃないか」
そんな春臣の突っ込みも空しく、彼女は春臣の言葉をまるで無視すると、ぱんぱんと急かすように手を叩いた。
「ほら、皆帰るで。あんまり夜遅うなったら、まずいやろ。さつきちゃんも、暮野君も」
「あ? まだ少々飲み足りないが、仕方ないな」
「そうれすね。私も門限があるので」
皆は口々にそう言って、帰る支度を始めてしまう。春臣は信じられない気分だ。
「おいおい、逃げるのかよ?」
「何を言うてんの、そんなわけないやん」
彼女はあくまでにこやかに微笑んで春臣を見下ろしている。
「ほなな、榊君に媛子ちゃん。パーティーの片付けは明日一緒にするから、今夜のところは、お休みや」
「おう、お休み」と後ろ向きに手を振って木犀。
「おやすみなさい」とぺこりと頭を下げてさつき。
「ちょっと待てよ、この状況で俺を置いて行くな!」
春臣は部屋から出て行こうとする彼らの後を追おうと立ち上がろうとするが、ぐっと媛子に掴まれ、引き戻される。上半身が畳みに打ち付けられ、ずりずりと引き摺られる。
「お主、逃げるな」
と、凶悪な目で睨まれた。
「あのさ、媛子……」
「むう、わ、わしの言うことを聞け。命令じゃ」
そこで春臣が何か言おうとすると、彼女は拳を振り回した。まるで聞き分けの無いわがままな子供だった。こうなれば、もはや成す術はない。諦めて、肩を落とした。
「なんだよ。もう神様みたいに威張らないんじゃなかったのか?」
「むう……今日くらいは、目をつぶれ」
媛子はそうして、くしゃくしゃと頭を顎の下に擦り付けてくる。まるで、子猫だ。
時計の針が進む音がする。コツコツコツ。
静かになった部屋に、今は、春臣と媛子だけがいる。
春臣は無言で、そっと彼女の肩に手を回すと、脱力して、今日一日のことをじっくりと思いだすことにした。
倒れたツリーが、窓を意味もなくチカチカ照らしている。
しばらくして、媛子は春臣の枕に満足したのか、顎を肩に乗せた。すると、今度は春臣の顔を見つめたまま、ふいにくすくすと笑い出す。
「ふふふ」
「何だよ」
なんだかくすぐったい気持ちになって、春臣はぶっきらぼうに言って視線を逸らす。
「お主、ほっぺに可愛らしくクリームなんぞつけおって。その顔でどこに行く気じゃ?」
「え……?」
そうか、さっき頭にケーキが乗っかったんだっけ。春臣は思い出す。
どうやら、ふき取れなかったものが残っていたらしい。
春臣は自分の手でふき取ろうとするが――。
「どれ、わしが食べてやろ」
ぺろっ。
「ふふふ、おいしい」
なんと、媛子が指ですくって食べてしまった。
「な、何を……」
突然のことに春臣が言葉を失っていると、媛子はそのまま目を閉じてしまう。そして、
「…………ぐう」
静かな寝息を立て始めた。