123 遊宴の夜 2
「あれえ、榊君たち何話してんの?」
するとふいに、椿が背後に立っているのに春臣は気がついた。彼女がこちらを見下ろしている。えへー、といつもの笑顔を向けてくる。
「榊君、もっと盛り上がらな」
「盛り下ってるように見えるのか?」
と、嘆息しつつ訊く。
「十分どんよりしてるで」
そして、なぜか、彼女はわざわざ狭い春臣と木犀の間に割り込んでくると、木犀にこう言った。
「ほら、暮野君は、向こうで話してきて。榊君は、うちが引き受けるから」
「うん? なんだよ」
一緒に話せばいいのに。
春臣はそう思ったが、椿がこっそりこちらを見、目配せして、テーブルの反対側を見るよう合図した。
それに従って視線を向けると、
なるほど。
木犀の方をちらちらと窺っているさつきの視線があった。こちらと目が合うと、いけないことを見つかった子供のように彼女は顔を逸らす。春臣は無言で小さく頷いた。
「そうだな。青山と話でもするか。暮野は邪魔だから、どこかに行ってくれ」
「ずいぶんな扱いだな、おい」
木犀は不満げに眉をひそめる。が、その言葉とは裏腹に、意外にもさっさと彼は立ち上がった。
「俺を抜きにして、せいぜい二人で楽しく話せばいいさ」
そう憎まれ口を叩いて、テーブルの反対側へと行ってしまう。
春臣はそんな木犀を片目で見やり、きっと彼は心中で、向こうでさつきと話すのも悪くないと思ったに違いないと思った。だからこそ、場所を明け渡すのは吝かではなかったのだ。
「それで、青山」
気を取り直して向き直って、彼女が持ってきていたグラスに春臣はジュースを注ぐ。手元にあったのはたまたまオレンジジュースだった。
「俺に、何か用でもあるのか?」
そう訊いた。
すると、彼女はおおきに、とお礼を言った後で、表情を僅かに曇らせた。
「もう、そんな疑うような目したらあかんよ、榊君。うちはただ、お話ししたいだけや」
「なんだよ、それならいつもしてるじゃないか」
彼女との会話は、通学のバスの中、大学の授業中、たまの休日、帰宅後の電話などもりだくさんなのだ。話し過ぎと思われても不思議ではない。
しかし、彼女は頬を膨らませる。
「せやけど、今日はパーティーやん。いろいろと話したいんや」
「ふうん」
「なんか冷たいな。うちと話するの嫌?」
春臣がうわの空気味にため息を漏らすと、彼女は目を尖らせた。
「まさか。そうじゃないって」
春臣は首を振る。
確かに頻繁に話をするものの、それが苦痛かと言われると、そんな要素はこれといって見当たらない。ころころと変わる彼女の表情を見ているだけで十分楽しいのだ。
「じゃあ、うちと話すの楽しい?」
「……うーん」
しかし、これには思わず、春臣は言葉に窮した。もちろん、楽しいことは楽しいのだが……。
「改めて面と向かって言われると、何だか答えるのが恥ずかしいな」
「恥ずかしいないよ、ほら」
「あー……」
「なあ、どっち?」
「……た、楽しいよ」
春臣がようやく言ったのを聞いて、彼女が表情をほころばせた。
「うん、うちも楽しい」
と小さくはしゃいだ。
そんな無邪気な彼女を見て、春臣は恥ずかしくなるのを通り越し、なんだか心がほぐれて安心してしまう。
思えば、彼女と出会ったのは、この柊町に来た次の日だったなあ、と思い出す。
あの時は、いきなり関西弁で話しかけられて驚いたものだった。確かその後に初対面でありながら、二人で朝の町を歩いたんだっけ。
そして彼女は、春臣にこれといって警戒らしい素振りも見せず、まるで最初から友人のように接してくれたのだ。
そのあまりの警戒のなさに春臣の方が大丈夫なのかと思った覚えさえある。
しかし、
ともかくあの頃から、彼女は底抜けに明るくて、マイペースで、可愛くて……。
全く、ちっとも変わらないな。
「青山は、青山だよなあ」
そう思いながらしみじみと春臣が言うと、彼女はオレンジジュースを飲みながら、目を丸くした。
「あ、それ知ってるで、うち」
と予想外に、なぜか興味津々な様子を見せた。
「な、何がだよ」
春臣は意味が分からない。
しかし、彼女はこめかみの辺りを指でなぞりながら記憶を掘り起こしているようで、
「ちょっと待って……あ、あれやあれ、と、と、トートロジーや!」
と叫んだ。
「あ? とろー……じー?」
「ちゃうちゃう、トートロジーや、榊君。エコロジー、サイコロジー、ファンタジー、トートロジー!」
関連があるのかないのかよく分からない言葉を羅列して、呪文のように彼女は唱える。
春臣は首を傾げた。
「……よく分からないが、難しい言葉を知ってるんだな」
「なあ、偉いやろ?」
「あ、ああ……」
よく知らないから褒めようがないのだが。
「ちなみにどういう意味なんだ、教えてくれよ」
「ええと……」
「うん?」
「それは自分で調べなさい」
この様子ではどうやら、知らないようだった。
彼女のまつげの下で泳ぐ目を見ていれば春臣には分かる。動揺している証拠だ。往々にして、彼女とは分かり易い生き物なのである。
「なんだよ、手厳しいんだな」
と春臣がわざと悔しそうに言うと、彼女はふふんと鼻を鳴らした。
「せや。うちは厳しいで。獅子は我が子を千尋ちゃんの谷に突き落とすんや」
「おいおい、千尋は人名じゃねえよ」
これにはさすがに突っ込まざるを得なかった。正しくは深さを表す言葉のはずだが。
しかし、彼女があんまりにも堂々というので、春臣はそのまま吹き出してしまう。まったく、ボケについては、彼女は相変わらず異彩を放っている。
「あれえ、せやったっけ?」
せやったっけも何も、そうだろう。
一体彼女は毎度どこで間違えて覚えてくるのだろうか。そもそも、春臣は彼女の子供でもない。
春臣が笑っていると、つられて彼女もくすくす笑いだした。
彼女の持つグラスの中のジュースが波打っている。まったく、見ていて危なっかしい。
思わず春臣が彼女の小さな手を押さえると、
「うちはな、いつも楽しそうな榊君がええ」
彼女が目を伏せつつ、ぽろりと言った。
「え?」
「最近、榊君、暗いからなあ。これでちょっとは明るうなったよな?」
春臣は、その瞬間、こちらを見上げる椿の目を真っ直ぐに吸い込まれるように見つめた。
何だ、彼女は、自分に気を遣ってくれていたのか。
春臣は無言で、彼女のコップをテーブルに置くと、ややあって、
「ああ」
と答えた。
「ありがとうな」
椿が頷こうとして、小さくくしゃみをした。