12 隣人さん?
春眠、暁を覚えず。
世の中には春の日の寝心地の良さを表すそんな言葉があるが、榊春臣はある春の日、いつもよりも幾分早く目を覚ました。
一人暮らしを始めた祖父の家の二階。
神棚のある部屋で、むっくりと身を起こした。
僅かに揺れ動くカーテンの隙間からは、生まれたての春の朝陽がちらちらと白い壁を照らしている。
実家にいるならば、いつも目覚まし時計や、母が起こしてくれなければ上手く起きることが出来ないのが常だが、その時は違った。
「ふ、ああ……」
自力で起き上がり、大あくびをしながら、机の上にあった時計を見る。
現在の時刻は午前6時だ。
夜明けの時間である。
その時間帯に起きることは、まさに人間にとって健康的な目覚めそのものではないだろうか。
しかし、春臣が早くに目覚めたのは、何も健康的な理由とは言えない。
その証拠に、春臣はすぐさま掛け布団を払いのけると、勉強机の上に置いてある『焼きたてクッキー』と丸みを帯びた字で書かれたスチール製の小箱の中を覗く。
「何度確認しても、やっぱり、いるな」
そう呟いて、昨日の出来事が何かの夢幻の類なかったことを再認識したのである。
「これから、どうするかな……」
と深刻そうな顔をしたまま寝起き早々肩を落とした彼を知るはずもなく、その小箱の中にはすやすやと紅髪の少女が眠っていた。
敷布団の代わりに柔らかなタオルを敷き詰め、ハンカチをその身に被せて安息の寝息を立てている。
彼女の名は、緋桐乃夜叉媛。
本人曰く、その小さな風貌に関係なく、列記とした神らしい。
なんでも、信じがたいことだが、神の世界と人間の世界の間に生まれたという異空間に閉じ込められたということだった。
だが、
「本当にこんな小さくて、神様なのかな」
未だ実感の湧かない春臣は椅子に腰掛け、そんな彼女を見下ろす。
それもそのはずで、春臣の中での神様のイメージはもっと超然的で、偉大な印象が大きかったのである。
地上の誰もがその存在に畏怖し、敬い、崇める。そういうものが、神だと思っていた。
でも、目の前の少女は、こんなにも小さく、神としての力も使えず、自分の世界に帰ることすら出来ないのだ。
それは、果たして、神と呼べる存在なのだろうか。
「う、ううん……」
春臣がそんなことを考えているとは知らず、媛子は時折身じろぎし、顔の向きを変えた。
すると、その緋色の髪がさらりと白い頬の上にかかり、光を受けて輝く。
それは金色の朝陽にも負けず劣らず、華やかに、煌びやかに見えた。
これには、あまり神として彼女を意識できない春臣でも、素直に美しいと思ってしまう。
この世界のどんな豪華な宝石とも違う、一種の霊的な美であるように感じるのだ。
神だからこそこうして感じるのだろうか。
触れてみたい。
そう思って、つい手を伸ばしかけている自分に気づき、春臣はすぐに引っ込めた。
そんなことをするのは、まずい。
本能がそう感じた。
しばし、無言で彼女を見つめたまま座っていたが、ふと椅子から立ち上がり、部屋を出る。
朝の空気を吸いに行こうと思い立ったのだ。
実家から越してきて初めて迎える朝。
春臣は一階の洗面台で顔を洗い、簡単な身支度を済ませると、抜かりなく玄関の施錠をし、周辺の散歩へと足を踏み出した。
柊町。
それが春臣が越してきたこの町の名前だ。
町の周りを山に囲まれ、のどかな田舎の時間が流れる、人口五千人ほどの小さな町である。
なんでも上空から見ると、山に囲まれた町の土地がちょうどカタカナの「コ」の字に見えるらしく、周辺の都市や町ではコの字の町と呼ばれていることで有名だ。
柊町は分かり易く言うと、大きく半分で西地区と東地区に分かれている。
その昔、近くの山に鉱山があったという西地区は人々の生活の基盤となる場所であったのか、特に住宅地や商店などが多く、町として発展している。今でこそ、鉱山は閉鎖され、昔のような活気は失っているが、それでもまだ当時の名残をこの時代に伝えている町並みなのだ。
その一方で、春臣の家のある東地区はというと、西とは違い農業が盛んだったらしく、北の山から流れる楡川から水を引き、その土地の多くは水田として利用されている。
山の上から養分を豊富に含んで流れてくるというその川の恩恵を受け、作物は毎年のように豊作ということだ。
柊町は西と東で、人々の暮らし方が違う歴史を持つ町なのである。
そんな叔父から聞かされた知識を思い出しながら家を出た春臣は、一度おおあくびをかまし、周囲を田んぼに囲まれたあぜ道を歩いていた。
まだ完全に目が覚めていないのか、意識は未だ眠りの余韻を引き摺っているようだ。
ふと見ると、足元には朝露に湿った草花が重たそうにその身をもたげている。そして、視線を上げた遠く向こうには、朝陽が照らす山々の稜線が望め、その谷間には息で吹けば消え去りそうな薄い霧が漂っていた。
その道は一昨日に叔父が運転する車から見た景色であるはずだが、歩いて見える景色というのはそれとはまた別で、趣も違って見える気がした。
風情があるように思う。
やはり、こんな田舎の道はいいものだ。
まるで自分を圧するようにそそり立つ都会のビル群とは違い、見渡す限り、自然な和みの雰囲気がある。都会のように誰もがぎすぎすとした表情で、我先にと電車の座席取りゲームをしているようなぴりぴりとした空気はない。
春臣は地に足のついた静かな喜びが確かにそこにはあると思った。
ポケットに手を突っ込んだ機嫌よく十字に分かれた道を左に曲がる。
すると、どこからともなく軽やかなピアノを弾き鳴らす音が聞こえてきた。
最初はこんな朝早くから何事かと驚いたが、どうやらそれは春臣もよく知っているラジオ体操の伴奏で、しかもそれは、すぐ目の前の生垣囲まれた民家から聞こえてくるようだった。
さては、と春臣は察しをつける。
おそらく昨今のエクササイズブームに乗った健康志向の老人が行っている、毎朝の日課に遭遇したに違いないと思ったわけである。
春臣の脳内にどこかで見たような上半身裸で乾布摩擦をする老人が浮かぶ。
しかし、その民家の門前に見えたのは予想とは異なる光景だった。
ラジオから聞こえてくる掛け声の合図に合わせて飛び跳ねているのは意外にも春臣と同じ年頃の少女だったのである。
ラジオ体操など、てっきり小学生と高齢の人のためのものだと勝手に偏見を抱いていた春臣は一瞬戸惑った。
いったいどんな顔をして前を歩けばいいのか、と迷ったのだ。
素直に軽く微笑んで小さく会釈すべきだろうか。
逡巡していると、予想外のことが起こった。
なぜかその少女は春臣の顔を一瞬見ると、リズムに合わせて飛び跳ねの運動をしながら近づいて来たのである。
もしかすると、気に障ることでもしてしまったのか、と春臣はその場で硬直してしまったが、その少女は飛び跳ねながらこう訊いてきた。
「なあなあ、あんた、向こうの家の人やろ」
顎の方向で春臣の家の方向を示している。
「……? ああ、そうだけど?」
そう答えながら、春臣はその唐突な質問以上に、彼女の口調が気になった。
このイントネーション、言葉の使い方。
それは紛れも無く大阪弁だ。
ここが大阪だというならそれはそれで納得なのだが
春臣の情報が正しければここは関西圏ではない。
この土地の人間ではないのだろうか。
しかし、彼女は春臣が感じた違和感など気づいていないようで、さらに飛び跳ねながら近づいてくる。
「うち、見とったで。昨日、男の人と車に乗って家の前通ったし」
男の人というと叔父のことに違いない。
リズムに合わせて今度は彼女は手を回し始める。
「あれ、見てたんだ」
「せや。このあたりの人とちゃうし、空き家の方で止まったから、もしかしたら越してきた人かもしれへんって思たんや。どや、うちの推理合うてるよな?」
自慢げに彼女は鼻を鳴らし、今度はその場で今度は両手を挙げ、大きく深呼吸を始めた。
「ああ、正解だぜ」
春臣が頷くと、彼女はにひひ、と笑う。
「あんたは、この家の人なのか?」
彼女の背後にある表札に目がいき、そう訊いた。
「スゥーー、せやねん、うちの名前は青山、ハァーー、椿。スゥーー、あんたの名前は? ハァーー」
するとなんとも喋りにくそうに、彼女は深呼吸をしながら自己紹介をする。
そんなことなら体操をやめてしゃべればいいのに、と春臣は思うが、見ているのもそれなりに面白いのでわざとツッコミは避けた。
大人しく、聞かれたことに返答する。
「俺は榊春臣っていうんだ。今年から大学に入学するから、昨日から一人暮らしを始めてる」
「なんやて、ハァーー、実はうちも、スゥーー、今年から大学やねん、ハァーー」
それを聞いて、もしかすると、と春臣は彼女に問いかける。
「山を越えた向こうの翌檜大学か?」
すると、彼女の顔色が変わった。
「ええ! 一緒の大学かいな! びっくり……ごほっ、ごほっ」
ようやく体操が終わったと思いきや、彼女は驚いた拍子に咳き込みだす。落ち着くための深呼吸した後でこうなってしまっては世話が無い。
体を折り曲げて咳をする彼女を心配して、春臣は覗き込んで訊いた。
「大丈夫か? 青山」
「ええよ、ごほっ、ちょっとびっくりしただけや。もう大丈夫」
「そうか」
「でも、驚いたなあ、一緒の大学の人やったんかあ」
彼女は納得するように数度頷き、
「しかし、それならうちとしては心強いなあ」
と意味ありげなことを言った。
「何が?」
「じつは、あの大学に行く人に一緒の友達がおらへんのや。せやから、そうなるとそこで一から友達作らなあかん。それはちょっとしんどいことやで。勇気もいる。でも、ここで同じ大学に入学する人と知り合えとったら気持ちが楽やろ?」
「ああ、なるほど」
「榊君は、大学に知り合いはおる?」
春臣はすぐに首を振る。
「いや、俺も向こうに知り合いがいるわけじゃないよ。青山の言うとおり、確かに少しでも知り合いがいてくれた方がいいな」
「せやろ? せやろ? 家も近いことや、今のうちから仲良うさせてくれな。榊君」
「ああ、よろしく」
そして、彼女は小首をかしげるようにして、にっこりと笑う。それはのどかな午後の陽だまりを連想させるふんわりとした笑顔だった。
そこに初対面の人間と相対している緊張感は、ない。
青山椿か。
隣人さん、第一号だな。
春臣はそう心の中でカウントした。