114 揺れる想い 1
髪先を指で弄びながら、夜叉媛はバスの最後尾の席に座っていた。
車内はクーラーから吹く風で涼しく、立っているだけで太陽光に焦がされそうな外とは大違いだった。むしろ、肌寒いほどの温度である。
つい数ヶ月前まで、このような人々の生活環境など知りえなかった夜叉媛にとって、乗り物の中にまで冷房設備があるという事実はとは信じがたいことではあった。
しかし、今の彼女には、そんなことなど瑣末なことである。なんとも拭いがたい、ぬるま湯のような憂鬱に喉の辺りまで浸かっている気がしていたのだ。
夜叉媛は不機嫌そうに指に絡まった髪の毛を息を吹きかけて飛ばす。
「媛子ちゃん?」
すると、隣に座っていた椿が話しかけてきた。彼女はいつも通り、触れば綿毛が出てくるのではないかと思うほど、ふわふわとした無邪気な表情をしている。
「どないしたん、何かあったん?」
おそらく先ほどから夜叉媛が黙っているせいだろう。心配して声を掛けてきたようだ。
その様子を見て、夜叉媛は思った。
全く、この少女ときたら……。
いつも空気が読めていないようで、存外、相手の気分を敏感に察知する能力を持っているのだから侮れぬのう。
出会ったばかりの頃、夜叉媛は彼女を小生意気な人間の少女としか思っていなかったはずなのだが、次第に彼女を見る目は変わっていた。時折彼女が見せるその力は、人間がただいつも見えている面だけで、判断されるべきでないことを確かに夜叉媛に伝えていたのである。
「いや、何でもない」
しかしながら、夜叉媛は軽く笑ってごまかした。
一瞬、彼女に今朝の出来事について、一切合財を話そうかとも思ったが、止めた。今はまだ少しばかり、自身の胸に秘めておきたい。そう思ったのである。
そうして夜叉媛は無言で目を閉じる。
それにしても、今朝の出来事――。
夜叉媛が、春臣にしようとしたことを、思い出す。
彼に、口付けをしようとしたことだ。
それを思うと、花の蜜のような甘い感情が、夜叉媛の中を満たした。これ以上ないほどの、高揚感である。無意識に唇を押さえる。
あともう少し、ほんのもう少しだったのに。それなのに、たまたま運が悪かった。
口付けは未遂に終わった。
しかし、そこまではまだいいのだ。
次の瞬間、あの光景が、脳裏にフラッシュバックした。
春臣が、夜叉媛がしようとしていることに戸惑っている様子である。
途端に、胸の奥がぎゅっと狭くなる。急に居た堪れない感情に自身が晒されるのが、夜叉媛には分かった。
先ほどと打って変わって、あれはやはり、やりすぎたのだろうか、という戸惑いが生じた。
正直な話、あの瞬間の夜叉媛は冷静さを欠いていたと言っていい。元の体を取り戻した喜びと、春臣からそれを祝福されたことで、高まった感情を抑えきれずに、彼にぶつけてしまおうとしたのである。それはよくないと言えば、よくないことだ。
それに、やり方もまずかった可能性もあった。なにしろ、春臣から自由を奪った上で、半ば強引にしようとしたのだから……。
これはやはり、本格的に春臣を怒らせてしまっておるのかもしれないのう。
夜叉媛は思い出す。あの後、椿からの電話を切った後の春臣の態度は、妙に素っ気無い、冷たいものだった。普段なら、馬鹿なことをするな、とか適当に叱るはずなのに。
それが、なかった。何もなかったのである。
それが、なんとも言えず、不気味だった。
それに、夜叉媛だけを今回の椿との買い物に付き合わせ、自分が来なかった理由は間違いなく、
「明らかに、わしと距離を置こうとしておるよな……」
そう独りごちた。
と、
「榊君やろ?」
急にそう言われ、夜叉媛は心を読まれたのかと驚いた。
「な、何じゃ?」
見ると、椿が夜叉媛の顔をのぞきこんで、にやにやしていた。
「せやから、深刻そうな顔してたし、榊君と何かあったんかと思うて」
「む、鋭い奴じゃの」
「何言うてんの。媛子ちゃんが何か悩んでるっちゅうことは、常に一緒におる榊君のことやろうなって、すぐに想像がつくやん」
「ま、まあ確かに、そうかもしれん」
「それで、何があったん?」
当然のようにそう聞かれて、夜叉媛はたまらず視線を逸らして閉口した。やはり、彼女に話すのは止めておきたい。これは春臣と自分の問題なのだ。
解決すべきなのは、自分だ。
夜叉媛が話すつもりがないと分かったのか、彼女はくるっと笑顔を見せて、
「話せへんのん? せやったら、それでもええけど」
とあっさり諦めた。
「へ?」
「でも、せっかく元の姿まで戻ったんやから、楽しまな。ほら、バスに乗るの、初めてなんやろ? 見てみ、外の景色。気持ちええで」
彼女が指差す方向には、川の向こう、人々が住む町並みが見渡せた。
顔を向けると、夜叉媛の瞳にも流れていく風景が映り込む。
人々が暮らす家々がある。
あの屋根の下には、春臣と自分が暮らしているような普通の生活があり、変わらない毎日を過ごしているのだろうか。
そう思うと、なんだか安心した。
この世界に来てから、もうずいぶん経った。こういう風景で気持ちが落ち着くのは、この世界に夜叉媛が馴染んできているからなのだろう。
「あ、見てみ。さつきちゃんや」
ふいに、椿が声を上げた。
「さつき……巫女の娘か?」
夜叉媛の視界も道端に佇む彼女を捉えた。すると、同時にバスが再び減速した。女性の声のアナウンスがかかる。どうやら、停留場だったらしい。
どうも、ヒロユキです。
今回は少し短く、また半端なところで終わってますね。すいません。
実は、残りの部分はあるのですが、まだもう少し見直そうと思っているので、明日うpすることにしています。それまで少々お待ちください。