113 冷めたコーヒー
椿からの電話は、パーティーの準備に取り掛かるために、町へ買い物に行こうという誘いの電話だった。彼女の計画する媛子のためのパーティーは、すでに予定日まで数日を切っていたし、あまりのんびりするわけにもいかないというのである。
春臣は鼓動を抑えつつも、それを聞いて、すぐに了解した。
特に重要な用事があるわけでもないし、断わって彼女一人に買い物をさせれば、いつものように妙なことにならないか不安な気がしたからだ。興味の向くまま一人でふらついて迷子にならないとも言い切れないのだから、恐ろしい。
そして、彼女から集合場所と時間を聞き、
春臣は、電話を切った。
その間、媛子がまだ布団の上で困ったように春臣を見ていたが、それを無視して、朝食の準備に取り掛かった。
台所でフライパンを出して目玉焼きを作り、トースターにパンを突っ込むと、やかんでお湯を沸かし、インスタントのコーヒーの準備をすることにした。
それは比較的にいつもの作業で、深く考えなくても流れ作業のように行うことが出来る。そう、いつも通りのことだ。春臣はゆっくりと自身の呼吸の音を聞きながら、作業の中で気持ちを落ち着けた。
ゆっくりと居間に下りてきた媛子を物音だけで確認したところで、朝食の準備は整った。
椿との約束の時間は案外早い。ゆっくりしすぎるのもまずいだろう。パンを齧りながら、テレビでニュースをチェックした。
その間、媛子が春臣の方へ視線を向け、何か言いたげにもぞもぞとしていたが、春臣はそれを敢えて無視した。
極力何も感じないように、振る舞い、そして、さっさと外出の準備をさせた。
そう、させたのだ。媛子に。
「お主は、行かぬのか?」
洗面台で顔を洗いながら、媛子が聞いてきた。その声には、あからさまに不審感があるのを春臣は感じたが、やはり、それを敢えて無視をした。
「ああ、ちょっと今日は他の用事があるんだ。一人だけで行ってくれ。話じゃ瀬戸さんも行くみたいだから、三人もいれば問題はないだろう」
「用事……」
「ああ、用事だ」
「……そうか」
彼女は、それ以上追及することはなかった。おそらく、というか、間違いなく、春臣にそんな予定がないことなどお見通しであったに違いない。
椿から電話が来る直前、彼女がしてしまいそうになった行為のことを、その行為の持つ意味を、彼女が再認識し、強く意識しているのが春臣には分かったし、また彼女も、春臣がそれを意識していることを、春臣と同じように、理解していたのだろう。
彼女も自分と同じように困惑しているのだろうと思った。
今、春臣と媛子の間に、触れればすぐにでも崩れ落ちてしまいそうな繊細微妙な緊張の壁が出現していた。
彼女と一緒にいる間、春臣はそのことを出来るだけ考えてはいけないと強く念じた。
そして、彼女が着替えるのを待ち、手短に町を歩くときの注意をし、さらに昼食代などの代金を渡すと、近くのバス停まで送った。椿との待ち合わせ場所はそこになっていた。
「じゃあな。あんまりはしゃぐなよ」
「ああ、分かっておる」
ただそれだけの、場を繋ぐだけの空っぽの会話をして、春臣は背を向けた。その背中に、彼女の視線が突き刺さるのを感じた。
が、もちろん、振り向くことなんてしなかった。振り向いたら、何を言い出されるのか、怖かったのだ。
そして、家に帰り着き、誰にも見られていない安堵感から、春臣は重たい息を吐いた。
こんなにも頭を抱えて逃げ出したくなったのは、初めてだった。あの瞬間を思い出して、眩暈がしそうになる。
媛子に、キスを、されそうになった。
「夢、じゃないよな」
目を閉じれば、彼女の呼吸の音さえ覚えていることに春臣は気づいた。
自分は、あのとき、果たしてどうすればよかったのか。
椿からの電話。
あの、何らかの妨害がなければ、自分は間違いなく、媛子とキスをしていただろう。無理やり押しのけて拒むことも出来たのかもしれないが、少なくとも、呆気に取られて、何をすることも出来なかった、と思う。
もしも、
仮にもしも、そうなっていたら、状況はどうなっていたのだろう。
現在でさえ、あれこれ切羽詰って最悪と言っても過言ではないけれど、もしキスをしていたなら……彼女と自分との関係はどうなってしまっていたのだろう。
春臣は自問する。
いや、たかがキスだぞ。
と、心の声が言った。
それで、そんなことごときで、何が変わるってんだ。
子供だって、じゃれてキスすることくらいあるだろう。そんなものに、大した意味なんてない。気にすることなんてないはずだ。
「……いや」
違う違う。そうじゃない。
問題は、
問題は、するしないに限らず、彼女が、そういう愛情表現を自分に対してしてもいいと、『判断した』ことじゃないのか?
何しろ、キスは、友達とか、家族でさえ、滅多にするもんじゃないし。特別な意味のある行為だ。ただ、お互いの肌に触れるだけとは、また違う。
そう、親密度の違いだ。
人と人の心の間には常に一定の距離があるとしてだ、その距離に応じて、ラインが引いてある。知り合いであるとか、友人とか、家族とか、きっとそれは心の距離で表せる。
そして、キスという行為は、その心の距離のラインをきっと踏み越えるのに近い意味を持った行為で、要するに彼女は、これまでの、たまたま運悪くこちらの世界に来てしまった神様と、その原因をたまたま作ってしまった哀れな人間の少年という関係を壊して、それとは別の本格的に新しい関係を作ろうとしてきたのだ。
それは、
「こ、恋人、とか?」
自らそう言って、春臣は情けなくも赤面した。
自分と、彼女が恋人に。
頭が痛くなりそうだった。耳の奥でつーんと変な音がし始める。
嗚呼、いい感じに混乱してきたぜ。
しかし、そこまで考えて、春臣は別の可能性にも気がついた。
そもそも、彼女が本気でキスをするつもりがあったのか、ということだ。
あのタイミングで椿からの電話がかかってきたので、結果的にはキスは未遂と春臣は思ったが、最初から彼女が寸前で止める計画であったという確率も、ないわけではない。
つまり、イタズラだ。
『心底困った春臣の顔が面白くてのう』
といたずらっぽく言う彼女のニヤニヤ顔が浮かぶ。
しかし、あの電話のせいで、その台詞も言いそびれ、気まずくて、中々切り出せないのではないだろうか。ありえなくも、ない。
いや、もしかすると、もっと状況は違って、彼女はむしろ、この緊張感を楽しんでいるのかもしれない。あの性質の悪い神様にはありえることだった。
後から家に帰ってきて、あれは冗談だったと笑ってくるかもしれない。
そう思うと同時に、自分が考えていたことがどうでもいいものに思え、そして、怒りも湧いてきそうだった。
そうだ、きっと彼女の冗談だったのだ。
全部悪ふざけだった。ただ、自分が勘違いしているだけ。可能性はある。そう、可能性は、ある。
春臣は無言のまま、居間に戻った。テーブルの上には、朝食の時のまま出しっぱなしの食器があった。冷めたコーヒーが媛子の側にある。それに気がついた。
「媛子、全然飲んでないな」
いつもならば、春臣が淹れたコーヒーはおいしいと言って全部飲んでしまうのに。
見た感じ、少しも飲んでいないようだった。
まさか、コーヒーも飲めないほどに、『緊張していた』ということだろうか。
春臣はその瞬間、息を呑む思いだった。
そして、テーブルの横に腰を下ろすと、最近の彼女の様子を、春臣は思い出した。
数日前、春臣に意味もなく擦り寄ってきた媛子。それはまるで小猫がじゃれているようで、嬉しそうだった。
「馬鹿か、俺は……」
気がつかないうちに、声が漏れていた。
いつか、こういうことになるかもしれないなんて、そんなのとっくに予想できていたことだろうが。
「大馬鹿野郎か、俺は……」
どうしてこういうことになると自分はこんなにも男らしくないのか。なんて意気地がないのだろう。
今だって、彼女と一緒にいるのが怖くて、答えを出すのが怖くて、彼女を意図的に遠ざけたんじゃないのか?
どうなんだ、おい!
心の声がする。
そして、憂鬱の風船が胸の中で膨らみ続けていた。こいつ、そのうち時限爆弾みたく、破裂でもするのかな。
春臣は冷たいコーヒーを啜ってみた。
「苦いな、これ」
そう呟いて、額に皺を寄せた。