111 夢の迷い路
榊春臣はその日、とある街中にいた。
密集した巨大なビルが立ち並ぶ通りをおおよそ南から北へと向けて歩いている。
辺りに漂うのは昼間の都会のむせるような熱気だ。季節も夏であるから、暑いのは当たり前なのだけれど、群れを成して歩く人々や、排気ガスを撒き散らす車たちを見ていると、それだけが原因ではない気がした。じっとしていると、それだけでじりじりと地球が焦げている音も聞こえてきそうに思う。
ふいに、汗が額から流れ、ぽたりと落ちて、服の襟に吸い込まれていくのが見えた。春臣はその様子に、自らの生命力が体から次第に抜け出て、溶け出しているような錯覚を覚えた。歩けば歩くほどに、疲れが増している気がした。
そして、交差点で信号待ちをしている時、春臣はついに、自分はどうしてこんな場所にいるのだろう、と考えた。
いったい何の用があって、こんな不快を感じるだけでしかない街の中にいるのだ、と。
春臣の意識はいまいちはっきりとしていない。
最後に媛子に会ったのはいつだったのか、椿に会ったのはいつだったのか、両親と話したのはいつだったか、柊町にいたのはいつだったのか、すべてが不確かで、記憶になかった。
なんだか心が空っぽになった心地である。
これからどこに行くのか、そもそもここはどこなのか、どうやってここに来たのかも分からない。
まるで抜け殻のような心地だけがそこにはあった。
すると、その時、春臣は人ごみの中から見覚えのある人物を見出した。
あれ、と思う。
春臣の視線の向こうにいたのは、彼の祖父だった。白い顎鬚をたくわえ、すらっとした体でありながら、どこかがっしりとした大木のような体格は春臣が知っているいつもの祖父のイメージと変わらない。
ひょんなところで会うものだと思いつつ、春臣はビルのショーウインドウの前に立つ彼に近づいた。
「おじいちゃん」
と呼びかけてみた。
こんなところで何をしているのか、訊ねてみようと思ったのだ。
しかし、祖父はそれに気がつく様子もなく、春臣の方を見ることもなかった。ただその場に突っ立っていて、真っ直ぐ道路の向こう側を見ている。
まさか、聞こえなかったのだろうか。
妙な感じだと春臣は思いつつも、今度は、もっと近づいて、祖父の手を握ってみた。揺すぶってみた。
「おじいちゃん。ねえ、おじいちゃん」
これにはさすがに彼も反応を示すかに思えたが、祖父はやはり、動かない。まるで、祖父の姿をしたマネキンが地面から生えているように、瞬きも身じろぎもしなかった。
まさか無視されているのか、とも思うが、どちらかと言うと、祖父の様子は春臣という存在そのものを認知していないように見える。
いったいどうしてしまったのだろう。
祖父に何が起こったのかは分からないが、これは誰かに助けを求めるべきか、とそこで春臣は考えた。状況の分からない春臣にはそれが最善の策に思えたのである。
まさか、こんな祖父を放っておくわけにもいかないだろう。
と、そんなことを考えていると、唐突に目の前の祖父がするりと歩き出した。それは、止まっていた時が動き出したかのようだった。
あまりのことに春臣は唖然とする。声を出すことすら、忘れる。
そして、祖父は、そんな春臣を振り返ることもなく、すうっと溶け込むように人ごみへ消えていった。あっという間に見えなくなる。
そこで我に帰った春臣は、追いかけなくては、と咄嗟に思った。
「待ってよ。おじいちゃん!」
そう叫んで、走りだした。歩道を横切り、横断歩道に出る。往来する人々を避けながら駆け抜け、歩いている祖父に追いついたように思えた。
が、意外なことに、よく見ると祖父は、すでに向こう側の通りにいた。人ごみを抜けて、さらに北へ進んでいる。
何と足の速いことだ。早くしなくては見失う。そう思って、春臣は懸命に走った。
しかし、追えば追うほどに、なぜか祖父の背中は遠ざかっていった。歩いている祖父よりも、遥かに走っている春臣の方が速度はあるはずなのに、ずんずん、ずんずん、と遠ざかる。
そして、気がついた時には、祖父の姿はもう、道の向こうに米粒ほどの影が見える程度だった。
そこで春臣はさすがに苦しくて立ち止まり、俯いて大きく息をした。
「お、おじいちゃん?」
どうして、
どうして、追いつけないんだ。春臣にはその理由が分からないまま、下唇を噛む。
そして、顔を上げたときには、もはや祖父の姿はどこにもなかった。
それは、これ以上の追跡が無意味であることを、春臣に告げていた。その絶望感に、急に周囲の景色が霞み、歩いている人々が生気のない無機質な色を帯びて見えたような気がする。
これから、どうすればいいのか。
どうしても自分は、祖父に合わなければならないような気がするのに。もう、間に合わないのか。
すると、そこで誰かが春臣の肩を叩いた。
「春ちゃん」
「え?」
振り返ると、そこには、
「おばあちゃん?」
春臣の祖母が立っていた。
「ここで何してるのさ?」
穏やかな笑顔で春臣を見る祖母は、いつもの様子と変わらない。しわしわの手を伸ばしてきて、春臣の頭をくしゃくしゃと撫でてきた。視界がぐるぐると揺すぶられた。
「うわ、くすぐったいよ。おばあちゃん」
春臣はそれが恥ずかしくて、祖母の手をどけようとする。
しかし、そこであることを思いついた。これはもしや、ラッキーなのではないか?
祖母なら、祖父がどこに行ったのか、分かるかもしれない。
そう思った春臣は、祖母に訪ねてみた。
「ねえ、おばあちゃん。おじいちゃんがどこに行ったのか知らない?」
しかし、祖母は唇を尖らせてしばらく困った顔をした後、
「さあ、知らないねえ」
と答えた。
「そっか……」
春臣は肩をすくめる。期待の欠片はあっけなく四散した。
「居なくなったのかい?」
「うん、さっきこの道を真っ直ぐ行って、そのまま消えちゃったんだ」
「そっかい、じゃあ、一緒に探そうかね」
この申し出に春臣は驚いた。
「いいの?」
すると、祖母はおかしなことを言うものだと、軽く微笑んだ。
「可愛い孫が困ってるのを見て、助けないことがあるもんかね」
そう言って、すっと、手を差し出してくる。
「ほら、行くよ」
春臣はそれで元気を取り戻した気になって、祖母の手を握った。
「う、うん!」
一人で行くよりも、二人の方が心強い。それに、よく知っている祖母と一緒ということになれば、百人力だった。
そうして、今度は二人で、どこにいるのか分からない祖父を探して、通りを北へ進んだ。街を抜け、川を越え、人々の姿が次第に少なくなっていき、もうどれくらい歩いたのか分からないほどのところまで来た。
そこはもはや、春臣と祖母の他には、だぁれも歩いていない、薄暗く細い田舎道だった。
次第に、するすると陽の光が世界から後退し、夜の闇が辺りに侵入してきた。
寂しげな鳥たちの鳴き声が静寂を満たし、東の空から、月の光が世界を照らしている。
そこで、ふいに前方に、闇がぽかりと口を開けた。黒々とした蛇がとぐろを巻いているような異質な闇だ。
その闇の中心で、見覚えのある人物がこちらに手を振っている。よく見れば、春臣の祖父だった。
「おじいちゃん!」
ようやく、見つけた。そう思って、春臣の胸が高鳴る。
祖父は、こちらを見て、自分を呼んでいた。
「おばあちゃん、ほら、おじいちゃんが向こうにいるよ」
春臣はそう言って祖母に告げた。手を引っ張って、祖母を急かす。
「ほら、早く行こう」
しかし、それまで優しい表情だった祖母は急に恐ろしい剣幕で、春臣を見た。
「だめよ。行ってはだめさ」
と、首を横に振る。
「どうして、あそこにおじいちゃんが居るのに」
「行ってはダメ。あれは、おじいちゃんなんかじゃないのさ」
春臣は、唖然とした。それはどういうことだろう。あの祖父が偽者なんていうことがあるのか。
「どうして、どうしてそんな意地悪なこと言うの。ねえ、おばあちゃん、おばあちゃん」
「ほら、帰りなさい。自分の場所へ」
「どうして、おばあちゃん、おばあちゃん」
春臣はその場に泣き崩れる。自分の泣き声が周囲にこだまし始め、暗闇が急に迫ってきた。
しかし、次の瞬間には、回線が途切れるように、すべてが消え――。