110 白昼の訪問者 4
鷲の羽音が聞こえなくなると、途端に、世界にうっとおしい蝉の鳴き声が舞い戻ってくる。
そこでさつきは、はっと我に帰った。一瞬、それまでの記憶が吹き飛んで呆然としていたのだが、すぐにまた思い出す。
そう、自分は今まで神と神の会話を聞いていたのだ。それは、いくら巫女のさつきでも、日常では起こりえない特異な状況である。
その非現実的な事態に、気を集中させすぎていたのだろうか。今まで意識の外へ置いていた精神の疲れが、どっとさつきの肩にのしかかってきた気がした。
さつきは再び立っていられなくなり、その場によろよろと腰を落として体育座りをし、力を抜くと、社殿の天井を仰いだ。すっと気持ちを切り替えるように深呼吸をする。
「あの神様、帰っちゃいましたね」
「そうじゃの」
千両神はどこか遠いところに想いを馳せるように、しみじみとしている。
「神の世にもいろいろな考えを持った奴らがおるのう。いちいちまともに取り合っておったら切りがない……」
さつきはそんな神の言葉を聞きながら、寄りかかるのにちょうどいいものを探し、近くにあった賽銭箱を見つけた。
服が汚れるのも気にせず、そこまでずりずりと体を引き摺って移動し、そして、背中を預け、楽になったのを確認すると、一、二度咳払いをして、タイミングを計って口を開く。
「あの、千両様。聞いてもいいですか?」
「んむ?」
「さっきの話、いったいどういうことなんですか? 榊さんたちに何か問題が?」
「……」
すると、そのまま神は何か迷っているのか、一度口を閉ざした。
「ええと、千両様?」
「……さつき、お前にも話しておいてもよいのだが、今はせぬ方がよいのじゃろう。彼らと付き合っていく上で何か悪影響を与えるやもしれぬ。余計に彼らの生活を刺激せぬほうが……」
「それは、どういうことです?」
さつきには千両神が何を言っているのか分からない。なぜそんなにも頑なに、彼らに関わることをよく思っていないのだろうか。
「わらわは……わらわは、この一連の事件を彼らだけで終わるものとは思っておらんのじゃ。大げさかもしれぬが、これはもっと大きな、重要な意味のある事件なのじゃ。それを考えた上で、わらわは、下手に手を出さないほうがいいと考えた。少なくとも、わらわはそう思っている。いくら神とはいえ、の」
「神様とはいえ、ですか?」
最後の言葉がさつきの印象に残った。この世の森羅万象を統べる神が、手を出さない方がよいことなど、果たしてありえるのだろうか。聡明な神に比べて、遥かに浅学なさつきには、皆目分からない。
しかし、もしそうだとなると、それは間違いなくさつきの理解の範疇を越えていることなのだろう。
「……わ、わたし」
そう思うと、自分はもしや、何かとんでもないことに関わっているのではないかという思いがさつきの声を震わした。急に榊春臣や、緋桐乃夜叉媛に関わることが怖くなってくる。
千両神はそれを慮ったのか、宥めるように言った。
「さつき、勘違いするな。お前が心配などせんでも、大したことなど起こりはしない。ただ、少しだけ、わらわの期待が叶うか、叶わぬか、それだけの違いじゃ」
「え?」
「じゃから、さつきはこれまで通りの付き合いを続けておけばよい」
「本当ですか?」
「ああ、わらわが保証する」
神がそう言ってくれるのならば、何も恐れることはない。さつきはほっと心を落ち着ける。
しかし、その一方で、その千両神の期待というものも気に掛かった。
「さつき。話を変えるか」
と、急に千両神が切り出した。
「え、何ですか?」
「いや、なんということもないのじゃがな……お前、最近仲良くしておる男がおるらしいの」
「は……はぃ!?」
あまりのことに、心臓が飛び出してしまうかと思った。急に息を吸ってしまった反動でさつきは咳き込む。
「そやつのことをどう思っておる?」
「へ、へ?」
「デートはしたのか?」
「え、え?」
「将来は、一緒になることを考えておったりするのか?」
意地悪のつもりなのか、千両神は矢継ぎ早に聞いてきた。脳内に千両神の言葉が次々に押し込まれ、さつきは、今にも目を回しそうな心境である。
「な、ななななな、なんですかあ、いきなり!」
呂律も回らないままにようやくそれだけ喋った。
「フフフ、わらわは案外真面目に聞いておるぞ。ほれ、正直に答えてみよ」
しかし、土地神は相変わらずこの調子だ。
「か、からかわないでください。暮野さんのことは……その。それは、いい人だとは思いますけど。そ、そういうことは、なんていうか……ええと、気が早いっていうか、そもそも暮野さんが私のことをどう思ってくれてるのか、分からないし」
そして、これはしめたと言わんばかりに、
「ほう、面白いことを言う。さつきが懸想しておる男は暮野というのか」
などということを言い始めるのだから、さつきはますます混乱して頭を掻き毟ってしまう。
「は、はめられたあ!」
「フフフ、女子の赤くなった頬というのは、実に可愛らしいの」
「ひどいですよ、千両様!」
「まあ案ずるな。その男のことはゆっくり考えていけばよい。さつきの思うとおりな。何があってもわらわがついておる」
「え?」
「おいそれと運命を変えるなどということは出来ぬが、アドバイスくらいはしてやってもよいぞ」
「……ほ、本当ですか?」
「わらわは土地神じゃ。ほら吹きとは違うぞ」
それを聞いて、さつきは微笑んだ。神が味方についてくれるなど、これほど心強いことはない。なんだか午前中に失った元気も取り戻せそうな気がしてくる。
すると、何を思ったのか、千両神は少しの沈黙の後、ため息をついてこう言った。
「わらわたち神は、いったいいつまでこうして、お前たち人間を見守っていられるのじゃろうか」
その言葉があまりにも寂しげに聞こえて、さつきはドキドキした気持ちが急に冷めていくのを感じた。
「……あの、千両様?」
「うん? なんでもない。独り言じゃ」
さわりと、千両の枝が風で揺れる。
「ただの、独り言じゃ」
その風をなぜか冷たく感じたのは、きっとさつきの気のせいなのだろう。