108 白昼の訪問者 2
10/4 文章を一部修正しました。もしかするとまた加筆するかもしれません。
千両の枝が差し入れられた花瓶を元通り拝殿の奥に置くと、中から、からりと涼やかな音が鳴った。枝が前方から綺麗に見えるように調整してから、さつきは千両神に話しかけた。
「一応、応急処置として、花瓶には氷を入れましたが、どうですか?」
先ほどの花瓶の落下事故から少し経って、今は花瓶の水も補給し終え、さつきも千両神も、拝殿の中にいる。相変わらず参拝者などはいないので、さつきが声を落とすことはない。
「うむ、大丈夫じゃ。気分も悪くない」
すると、すぐに千両神の返事が聞こえた。どうやらこの処置で満足しているようである。心なしか、千両の赤い実も瑞々しさを取り戻したように見えた。
「そうですか」
一時は千両神がパニックになったため、どうなることかと危惧したが、一先ずはこれで問題はないようだった。肩から力を抜き、さつきはほっとため息をつく。
それはそうと――。
この蒸し暑い夏の午後に、少し前から穏やかな風が吹いていた。先ほどのぬるい風同様に、すぐに止むでもなく、一定の風速で吹き続けている。
おかげで、べとべとと張り付く汗もひき、今では午前中に失ったさつきの活力も取り戻してきたようだった。全く、申し分ない風である。
しかし、何もこれはさつきが天に願ったからではなく、はたまたタイミングよく偶然にも風が吹き始めたわけではない。
さつきは後ろを徐に振り返る。拝殿の階段の手すりにとまっている一羽の大鷲を見た。話によると、この大鷲が吹いている風の動きを制御しているらしいのだが。
さつきはつい数分前にこの大鷲から説明されたことを思い出す――。
「俺は、神なのさ」
先ほどの騒動の後、大鷲は近くまで降りてきてさつきたちに謝罪をした後、こう言った。鷲に喜怒哀楽の表情があるのか、さつきにはよく分からないが、少なくとも、得意げな声でその大鷲は言った。
「いろんな地方の鳥たちを統べる、な」
そして、続けてこうも言った。
「今日は、この神社の土地神さんに用事があったんだけど」
そこで首を縮めて、
「いやあ、まさかこんなことになるとは、本当に申し訳ないことをしたよ」
心配している仕草なのか、くいくいと首を動かし、気分が優れないため、一言も喋らない千両神の枝を見下ろしている。
すると、大鷲がさつきにくるりと首を向け、
「あんたの名は?」
そう訊いてきた。さつきはいきなりの質問にどぎまぎとしながらも答えた。
「瀬戸さつき。なるほど。見たところ、こちらの神社の巫女さんだろ?」
「はい」
大鷲はさつきの顔をしげしげと眺めると、
「ふうむ、見た感じ、良い筋してるみたいだなあ。中々の素質を持っている」
「そ、そんな」
「ハハハ、謙遜しなさんな。今時、これほど自然に神と会話できるだけの能力を秘めた巫女などざらにいないさ。おまけに美人ときたもんだ」
「え?」
「天は二物を与えたもんだよ」
そうして、その鷲は大笑いしてみせたのである。さつきは驚いて目をぱちくりとさせたものだ。
と、その大鷲が嘴を動かして喋り出した。
「少しは元気になったみたいだな」
どうやら、その言葉は花瓶の千両神に向けられたもののようである。
「地面の熱で焼けなくて安心したよ」
そのフランクな口調からは、相手に対する尊敬の念はほとんど感じられない。友人の身を案ずるかのような、親近感のある話し方だった。
さつきは最初から不思議だと思っていたのだが、この神はいかにも神らしい全てを超越したような独特な雰囲気をもっていないようだった。くだけた感じの喋り方といい、千両神のような神とはまた違う感じがする。
すると千両神が、
「まったく、ご挨拶なやつもおったものじゃの」
と不機嫌そうに言う。
「アポなしでいきなり訪問してきたと思えば,わらわへのこの仕打ち。いささか冗談が過ぎるのではないか?」
姿こそ見えないが、さつきにはこの神が頬を赤くして怒りの陽炎を揺らめかせているのがよく分かった。あんな騒動になったのは初めてのことだったし、千両神が怒るのは当然のことだろう。まさか勢いに任せて力を放つような暴力的な振る舞いはしないと思われたが、さすがにさつきはドキドキして、千両神の枝を見た。
「ああ、悪い悪い。こちらとしても悪気があったわけじゃないんだ。さっき謝っただろう。そのお詫びに、こうして過ごしやすいよう、涼しい風を送ってるんだ。少しは大目に見てくれ」
「大目に見ろ、じゃと?」
そこでさらに千両神の言葉に怒気を帯びる。
「お前、浮ついた台詞を並べる前に、きちんとすべきことをしてもらおうかの?」
「何のことだ?」
「まさかわらわが気がついておらんとでも思っておるのか? お前であろう、ここ最近、わらわの領地を許可なく徘徊しておるのは」
さつきは、驚いて背後を振り返った。
「おお、そうだそうだ。さすがに気がついていたか」
すると大鷲は、そう即答する。その様子が何の恐怖心も抱いていないようだったようなのでさつきはさらにぎょっとした。
というのも、千両神から教わった神たちの常識からすれば、神が他の神の領地に無許可で踏み入るなどとても無礼な行為であり、敵意のあるなしに関わらず、諍いの問題になったり、なんらかのペナルティが課せられたりしてもおかしくない行為なのである。神の領地とはそれほど厳正に守られるべきものであり、おいそれと踏み越えていものではないのだ。
榊春臣の家に現れた緋桐乃夜叉媛のようなやむを得ない例外的な事態であれば、千両神が許すのも分かるが、この神の場合、話の雰囲気からして、無許可で侵入したのも一度ではないと思われ、千両神も心穏やかに接することは出来ないのだろう。
だが、この鷲の神は、自らの行為に対し、さほど罪悪感を感じていないようだった。いや、むしろ堂々としている。
「すんなり認めたか」
「当たり前さ。でなきゃ、こんなところにのこのこ来たりしない。そもそも、今日は挨拶するためにも来たんだぜ」
「……」
千両神はそこで一度言葉を止め、何かを考えたようだった。あまりにもあっさりとしたこの神の態度にどう対応すべきか、と迷っているのかもしれない。
「……で、それで何という神じゃ? 名は?」
「俺の名は、蒼日鷲命」
その大鷲はそう名乗った。
「ふむ……知らんのう」
「だろうな。でも、これでもいろんな地方の鳥たちを統べる立派な役職を持った神なんだぜ」
蒼日鷲命という名の神は自慢げに言う。誇らしげに胸を張っているようにも見えた。
しかし、それが気に喰わないのか、土地神の方は微かに舌打ちをしたようだった。苛立った様子で喋る。
「そうかそうか。それはご立派じゃ。ちなみに忠告しておくが、今日以降、いくら仕事とはいえ、わらわの半径10キロ以内に近寄るでないぞ。獣臭い匂いが移るのでな」
これに対し、鷲命は苦笑した。
「ハハハ、こいつは嫌われたもんだ。でも、これを聞けば少しは興味を持ってもらえるんじゃないかな」
「なんじゃ?」
「俺の異名さ。『技師屋』って聞き覚えないか?」
その瞬間、さつきには千両神が急にこの大鷲に興味を示したのが分かった。さつきには巫女のもつ性質で、集中の度合いでごくごく表層面ではあるものの、神と感情をリンクさせることが出来るのである。
「む、それは広く噂で知られておるな」
「だろう?」
「何でも、毒にも薬にもならん知識を豊富に持ち、新しいものに目がない偏屈狂の馬鹿をさす言葉らしいぞ」
鷲命は一瞬、絶句する。
「……そりゃまた、どぎつい噂だな。ま、妙な奴と見られてるのは自分でも知ってるが」
「それから、その者は誰もが目を疑う奇妙な作品をいくつも作っておるとか」
加えて、千両神が言った。鷲命は頷く。
「ああ、まあな」
作品――。
それが何のことなのか、さつきは気になったが、神同士の会話においそれと口を挟むわけにもいかず、ぐっと言葉を堪えた。
しかし、それにしても、やはりこの鷲の姿をした神は変わり者らしい。技師屋という異名から察するに、何か怪しげな発明品でも作っているのだろうか。だとすれば、それを作品と呼ぶことも頷ける。
「一先ずお主の素性は分かった。一安心じゃの」
そこで、千両神がふむ、と何かを考え終わったように言った。
「そうか」
「これで心置きなくいつでも仕返しに行けるな」
「お、おい」
さすがにこれには鷲命もたじろいだ。
「ふふふ、まあその前にお前にさせることはあるがのう」
「あ?」
途端にピリリと肌に電流のようなものが走るのをさつきは感じた。それと同時に、ざわりと、ただならぬ巨大なものが神社の奥の森で蠢く気配を感じ取る。それは、足の底から震えがくるような、首根っこをぎゅっとつかまれているような、ぞっとするほどの気配だった。
勘違いではない。
それは巨大な神の力。微々たる人々の力など、小手先で捻り潰せる絶対の力。圧倒的な存在の力の気配だった。
さつきは戦慄する。
千両神は、いざとなれば、戦闘態勢に入る構えをとったのだ。
「蒼日鷲命よ」
神の声が、にわかに厚みと重みを増して響いた。
「土地神であるわらわとこれから話をしたいというのであれば、まずは許可なく我が領地に足を踏み入れたことへの非礼を詫びることからせんとな。神たるもの、義を通すのは当たり前のことじゃ。悪ガキでさえ、悪さをしでかせば謝らなければならない道理くらいは知っておるじゃろう」
「……」
「どうじゃ、それを拒むのであれば、問答無用で我が領地から追い出すぞ」
千両神は本気である。そうでなければ、これほどまでの気迫を相手に見せることはないだろう。
長年の付き合いだからこそ、さつきには分かるのだ。
こんな時、千両神は相手が誰であろうと妥協はしない。神たちのルールは相手がたとえ誰であれ守らせる。それこそが、土地神の土地神たる所以なのだ。そう、いつも声高に語っていた。
空気が動きを止める。
さあどうなる?
さつきは固唾を呑んで見守った。
「そうだな」
と、鷲命が静かに羽を縮めた。
そして――。
拝殿の床の上に降り立つと、その場で、低く、頭を垂れた。いや、体全体を床に押し付けるようにして、平身低頭した。
さつきは、目を見張る。
なにしろ、神様が頭を下げたのだ。そんなこともあるのかと、とても驚いた。
「ふん、躊躇なく頭を垂れたか」
千両神は、威圧を緩める事無く、ほとんど吐き捨てるように言った。
「生憎、こんなことくらいで、他の神と争いたいと思うほどのプライドは持ち合わせていないんでね」
対する鷲命はあくまで淡然としている。きらりと光る鷲の瞳は、そこに一点の嘘もないことを物語っていた。
ひりひりと舌の先がしびれるような沈黙が続いた。
しばらく両者が動かないでいると、そこですっと千両神から怒りの気配が消えたのにさつきは気がついた。森の奥でざわめいていた巨大なものの気配もそれっきり何も感じなくなった。
「なんじゃ、いじめ甲斐のない奴じゃ」
と土地神は少しがっかりしたようだった。
「お前が渋々頭を下げるのを見て楽しもうと思っておったのじゃがな」
「ご期待にそえず、心底遺憾だ」
「全くじゃ。こんなことなら、許して欲しくば、三度回って可愛らしくちゅんと鳴けとでも言えばよかったのう」
そう言う様子は意外と悔しそうである。
しかし、一方でさつきにはその様子があまりにも能天気に見えて、絶句していた。目の前でいつ神同士の戦いが繰り広げられるのかと戦々恐々としていただけに、張っていた気が緩むと、ぺたんとその場に尻餅をついてしまった。歯を食いしばっていないと魂が抜け出てしまいそうだった。
「おや、さつき、大丈夫か?」
「は、はい。何とか」
「少々本気を出しすぎたの。さつきがおることをつい忘れておった」
「いえ、平気ですから」
さつきは起き上がった。これくらい、巫女であるなら平気だ。
「どうぞ、お話しを続けてください」
作者の一言。
千両神を書くのがとても難しい。
表情も動きもないただの枝なので、どうしても表現の限界が発生します。さつきの視点で話を書くことで、彼女を媒介に感情を表現することを思いつきましたが、それでも難しい。
っていうか、そもそも鷲が動かない木の枝と話している場面を想像し、その間抜けな絵に笑ってしまいました。神様って難しくって面白い。