107 白昼の訪問者 1
森の奥にひっそりと佇む千両神社は、蝉たちの容赦のない鳴き声で騒がしい。
いつも通りに参拝客の姿こそ無いが、その騒音のせいで、音にぎゅうぎゅう詰めにされているかのような密度がある。むんむんとした満員電車に乗り込むのも不快だが、これはこれで、逃げ出したくなるようなうっとおしさだった。
そんな神社の拝殿の階段に、巫女である瀬戸さつきの姿がある。いつものきりりとした立ち姿はどこへやら、だらしなく箒を投げ出し、服が乱れるのも構わずその場に寝転んでいる。自慢のポニーテールは、無造作に段差へ投げ出されていた。
彼女の親が見れば、真っ先に顔を赤くして注意されるであろう、そのだらしない姿は、一人になったこの空間で全開となっているようだ。
そして、さつきは、
「ああ……世界が、暑い」
と、いまいち判然としない意識の中で呟いた。
影から見上げる初夏の高い空は、清々しいほどに雲ひとつない。中天へと昇った太陽は、遮るものがないと知ってか、余す事無く自らの熱を地上へと注いでいる。
そこへ、生ぬるい風が吹いてきて、さつきの服からむき出しになっている膝元をかすめていった。それは、彼女から体温を僅かに奪い、そのまま吹き続けるかと思いきや、五秒も持たないですぐに止んだ。そう、すぐに。残酷にも、すぐに。
「あ、ぐうう」
さつきは苦しげに呻きながら思った。
何だ、今の風は、と。そんなことなら、最初から吹くな、と。取るに足らない微々たる優しさなど、今のさつきには必要ないのである。
どうせ吹くなら、台風の一つや二つ、この神社に直撃してくれるくらいがちょうどいい。それくらいでなければ、この異常な暑さと釣り合いが取れないはずだ。そうさつきは確信した。
湿っぽい梅雨も終わり、立ちくらみを起こしそうな蒸し暑い七月のある日だった。
休日で、することもないさつきは今朝からこうして神社に来ている。折角なので、掃除でもしようと思いつき、午前中から箒でゴミを拾い集めていたのだ。しかし、始めたのはいいのだが、ものの数分もしないうちに箒を持った手が休みがちになっていた。言うまでもない、この異常なほどの暑さが原因である。
大勢でやるのであれば、まだやる気ももったかもしれないが、たった一人で、この暑さと向き合って黙々と作業をするのは、もはや掃除ではなく、修行と言っても過言ではないだろう。
午後に入っても、まだ仕事の三分の一も済んでいないなどということは、そうあることではない。
これから拝殿の床を拭いていこうなどと考えていたのだが、そんな思考も、まるで水蒸気のように頭のてっぺんから空へと抜け出ていっていた。服が汗で肌にべたべたと張り付き、すこぶる不快である。
と、拝殿の奥から、
「これこれ、さつきよ」
誰かが呼ぶ声がする。
「少しわらわに水を汲んできてくれ。こう熱いと水分がすぐに蒸発してしまう。花瓶の中の水がもう五分の一もないぞ」
誰と言うこともない。この神社に祀られている神、千両神である。この神の声は特殊なもので、千両神がそうしようと思わない限り、巫女であるさつき以外には聞こえない。
その声が、さつきを呼んでいた。
「はやくせぬと、わらわの枝が枯れてしまうのじゃ」
寝転んださつきは、ごろりと首だけを社殿の奥の花瓶に向け、面倒くさそうに言う。
「自分でしてください」
「お、おい。さつき」
「私は今、ここから動く気はありません」
「何を言うておる。ほれ、そこの手水舎から水を汲んでくるだけではないか」
そう言われ、さつきの目が拝殿斜め前方の小さな屋根がついた施設を見た。そこには石造りの手洗い場があり、参拝客はそこで柄杓を使って手などを洗い清めることになっている。そして、そこから流れ出る水は、ご神体がある森の奥を流れる小川から汲み出した神聖なものであるため、同時に、千両の枝を浸すための水としても利用されていた。千両神はそれを汲んで来いと言っているのである。
しかし、
「私、これから寝るんです」
さつきは素っ気無く返す。
「嘘をつけ、この暑さで眠れるわけがないだろう。干からびたいのか?」
と、千両神が言うと、
「ああ、もういっそ干ぼしになってやろうかしら」
投げやりになってみせた。
「悩みもなくて気楽そうだしね」
これには千両神も次の言葉に迷ったようだ。
「うむう……いい加減なことを言ってわらわを困らせるでない」
「でも別に、水がなくなったって、千両様が死ぬわけじゃないでしょう。ご神体は森の奥にあって、その枝はあくまで分身のようなものだし」
「そ、それはそうじゃが」
「あ、そうだ。熱いお茶ならいっぱいあるし、差し上げますよ」
さつきは良いことを思いついたと手を打つ。
「は?」
「今日お母さんが、私への嫌がらせに持たせてくれました」
「う、ぐう、なんじゃと。お前たち、どうせまた下らぬ親子喧嘩でもしたのじゃろう」
「ふふふ」
「よいか、そんなものにわらわを巻き込むでない。枝が茹ってしまう。頼むから冷たい水を汲んできてくれ」
すると、ようやくそこで観念して、さつきは長く息を吐いた。
「……ふう、分かりましたよ。あまりの暑さに冗談を言いたくなっただけです」
そうして徐に立ち上がり、拝殿の奥にまで歩いて、千両の枝が入った花瓶を持ち上げる。ずると、確かに水が減っているようで、ずいぶんと軽く感じた。試しに軽く揺すると、底の方で水が僅かにちゃぽちゃぽと鳴る。この暑さで中身が蒸発してしまったのだろう。これはすぐに補給せねばならない。
「いつもすまぬの」
「いえいえ。でも、ほんとに今年の夏は熱いわあ」
さつきは額の汗を拭う。やはり、いっそ台風くらいの風がびゅうと吹いてくれれば、心がすっきりするのだが。そう思いつつ、拝殿の階段へと足を向ける。
そして、階段を下りようかという時だった。急に、何の前触れもなく、前方の鳥居を抜けてきた突風が、さつきたちに吹きつけた。
「へ?」
かと思うと、次の瞬間には、さつきの視界に黒い何かが飛び込んできた。
「き、きゃあああ!」
あまりのことに驚いたさつきは、手に持っていた花瓶を落としてしまった。それが千両の枝ごと宙を舞い、ごつん、と地面と触れ合う音が響く。
「千両様!」
さつきはすぐに気づいて、そう叫んだが、すでに倒れた花瓶から千両の枝が水浸しのまま落ちていた。昼間の太陽に晒されている地面は今や鉄板の上といっても過言ではないほどに熱されており、零れ出た水からすぐに蒸気が上がる。
「熱い熱い、地面が、石が熱いい」
千両神の悲鳴を上げた。
「は、早く助けてくれ」
「千両様、大丈夫ですよ。落ち着いてください。分身である枝がどうなろうと、ご神体の方は問題ありませんから」
「いや、それは落ち着きすぎじゃ。魂だけの身とはいえ、わらわの五感は千両の枝を通して繋がっておる。見ていないで今すぐ助けろ!」
「は、はい――」
さつきと千両神が突然の事態にどたばたとしていると、
「おおっと、すまねえ」
背後から大きな羽音と共に、いきなり何者かの声がした。
さつきは先ほど目の前を横切った黒い物体を思い出し、咄嗟に振り返る。
見上げれば、一羽の鷲が拝殿の屋根の上に颯爽ととまるところだった。黒光りする長い爪で屋根をがっしと掴み、さつきたちを見下ろし、悠然と両翼をはためかせた。
「ちょいと驚かせちまったみたいだな」
「わ、鷲が喋った」
目を丸くするさつき。
「こ、こんなことって……」
あまりのことに動けなくなってしまうが、
「さつき、驚いておる場合ではない。そっちよりもわらわじゃあ、死ぬ、死ぬうう!」
その背後で千両神の声が蝉の鳴き声をかき消す叫びとなった。