105 宵の幻 3
しばらく春臣が何も言えずに口を開いていると、媛子は突然、何かに気がついた顔になった。
「あ……」
春臣の方をじっと見て、まるで、母親に怒られた子供のようにしょげてしまう。
その途端に、美しかった蛍の羽も、息を吹きかけたように、宙に散らばっていった。
どうしてしまったのだろうか。
春臣からは、彼女が何かを後悔しているようにも見えた。俯いた顔を覆うように前髪がかかっていて、悲しげだ。
もしかすると、気に入らないことでもあったのかもしれない。知らないうちに、自分が変なことでも口走ったのだろうかと、春臣は不安になる。
彼女に駆け寄ろうとすると、
「すまぬ、少し調子に乗りすぎたようじゃ」
と彼女がぼそりと言った。
春臣には意味が分からない。
「調子に乗りすぎたって、どういうことだ?」
「お主が気にするほどのことでもない。これは、わしの独り言じゃ」
彼女は、春臣と目を合わせたくないのか、視線をわざと逸らしている。その瞳は、木々の合間を濃密に埋める闇を吸い込んだかのように、暗く、深く、澱んでいた。
春臣は、釈然としない。
彼女は、いったい何を考えている?
媛子が急に落ち込んでしまった理由がちっとも見つからないのだ。
もしかすると、体が元に戻っていないうちから神の力を使ってしまったことを、自戒しているのだろうか。と思った。
それならば、分からないこともないが……。
と、そんな春臣の前を横切り、媛子は、橋の方へ足を向けていた。ただこの小川を越えるためだけに出来た石の橋は、短いため、五歩も歩けば、すぐに向こう側へと渡れてしまう。だからだろうか、彼女は、その橋をちょうどいい腰かけとして捉えているかのように、中央部辺りまで行くと、納得したように小さく頷いて、足を宙ぶらりんにして座った。川を覗き込むようにして、水際を飛ぶ蛍を見ている。
春臣は、とりあえず疑問を意識の外へ追いやり、彼女の方へ向かった。
彼女がそれほど不注意とも思えないが、どうしても幼い外見からか、そのまま川に落ちてしまうのではないかと不安になる。傍まで行って、横に腰を下ろした。
すると、媛子はややあって、ためらったように口をもごもごと動かし、
「そういえば、お主にまだ言っておらんかった」
と言う。
「何を?」
「そりゃあ、もちろん、ここへ連れてきてくれたことのお礼じゃ」
「気に入ってくれたか?」
「もちろんじゃとも。こんな夜には、最高の場所じゃの」
「そう、かもな」
と返した時、微笑した彼女と目が合った。
「……ありがとう、春臣」
「あ、ああ」
そう面と向かって言われるのも恥ずかしいもので、春臣は鼻の辺りが急にむずむずとした。青い草木の匂いが隣の媛子の甘い匂いと一緒になって香って、なんだか夢を見るようにぼんやりとする。
春臣はそこで、少し後悔した。
彼女を喜ばせたくて、この場所を選んだのだが、ある意味、これは選ぶべきではなかったかもしれない。媛子と二人きりになるには、あまりにも出来すぎたシチュエーションだったのだ。
これからいったいどうすればいいのだろう。何を言えばいいのだろう。
不器用な思考だけが、焦るたびにもつれていく。
しかし、このままただ無言を貫き通すのは、あまりにもかっこ悪い。
さて、どうしたものか。
こんなことなら、椿もあのまま帰さなければよかった。
「春臣」
と、ふいに媛子が話しかけてきた。
「うん?」
顔を向けると、彼女は、足元の辺りを飛び交う蛍を見ている。
「蛍は、一週間ほどしか生きられぬそうじゃな」
そんなことを言う。
「え?」
「たった一週間ほどじゃ。太陽が七回昇って、七回沈んで、それで、命が終わってしまう。あっけないものじゃ。実に、あっけない」
耳元にかかった赤い髪が、彼女が喋るたびに、切なげに揺れた。
「お主ら人間から見ても、あまりに短い生の時間じゃろう。ましてや、大昔から生きてきた神の目からすれば、それは一瞬にも満たぬ時間じゃ」
ため息をついて、
「例えば、そんな一瞬の時間で消えていくものには、いったいどれほどの意味があるのじゃろうか」
そう言った彼女の瞳が虚ろで、春臣はぎょっとした。
「き、急に何を話し出すんだよ」
彼女の言葉の意図が春臣には掴めない。先ほどからの気分の落ち込みといい、いったい全体どうしたというのか。不安が膨らむ。
しかし、媛子は、そんな春臣の胸中など知る由もなく、
「どう思う? 答えて欲しいのじゃ」
と問いかけてきた。
「え?」
蛍が、生きている、意味。
またしても、難しい話だ。春臣は思う。
「そうだなあ」
こんな話は、時雨川さんとの会話で、もうこりごりだったのにな。
しかし、この雰囲気では、適当にごまかすことも出来ないだろう。
春臣は、息を吐いて、目の前を浮遊する光の粒をそっと両手で包んだ。
「あ」
媛子が目を丸くした。
「大丈夫」
安心させるように、春臣は優しく言う。
そして、ゆっくりと手のひらを開くと、そこには、蛍が一匹、止まっていた。指の合間を興味津々な様子で動き回りながら、儚くも、どこか力強さを感じる、優しい光を放っている。捕獲成功だ。
「見ろよ」
それを媛子の顔に近づけて、春臣は言う。
「綺麗だろ」
「……へ?」
「ずっと、この輝きを見ていたいと思わないか?」
「……う、うむ」
彼女は戸惑いつつも、肯定の意思を示した。春臣はそれに頷いて続ける。
「たとえ、たった一週間の命だろうと、こんなに美しいんだ。たとえ、ちっぽけな虫だろうと、必死に生きて、こんなに輝いてる。だったら、それだけでも蛍が存在する価値は十分にあると思わないか?」
そこで、彼女の返答を待つつもりだったが、春臣は、考えが変わってすぐに言葉を継いだ。
「いや」
「なんじゃ?」
「価値があるとかないとか、そういう議論はそもそも必要ないって、俺は思う」
「必要、ない?」
「ほら、顔上げてみろって」
春臣は、頭上を指差した。媛子がそれにつられて視線を向ける。
「このでっかい宇宙で、これほど小さくて綺麗な光に出会えたんだ。それだけで奇跡だろ」
「奇跡」
「そう、出逢いは奇跡さ。媛子だって、いつだったか言ってたじゃないか、この移り変わり行く世界で、俺とめぐり合えたことが嬉しいって」
「あ……」
「出逢いってのは、とても簡単なように見えて、その実、全然そうじゃない。それだけで特別な意味があるんだよ」
春臣は言いながら、今度は指先を這い回る蛍を見ている。もうそろそろ仲間の元へと、飛び立ちそうだ。果たして、自分の手のひらの上の居心地は良かったのだろうか、なんて思っている。
「出会えたこと自体に俺たちはむしろ感謝するべきなんだ。蛍たち、いや、きっとそれに限らず、この世で巡り会う全てにさ。だから俺は、この世に、無意味なものなんて、ないと思う」
そして、一拍置いて、
「だから、だからさ……急に変なこと、言うな」
放っておけばどこか消えてしまいそうで頼りない彼女を、そうたしなめた。
「はる、おみ……」
すると、彼女は泣き出す前触れであるかのように、肩を震わせたようだった。
「春臣、ありがとう」
「おいおい、何で俺が感謝をされないといけないか、ちっとも分からないんだけれど。俺はただ、媛子の質問に率直に答えただけだぜ」
しかし、彼女はふるふるとかぶりを振る。そこには強い確信があるように見えた。
「いいのじゃ、わしは感謝したい。確かにお主はただ答えただけなのじゃろうが、わしはそれがうれしいのじゃ。わしは……うむ。お主と、こうして出逢ったことを永遠に誇りに思うぞ」
刹那、媛子と視線が交じり合った。
すると途端に彼女が頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯いたので、同じように、春臣も恥ずかしくなる。意思の制御が利かず、耳が熱くなった。
「ば、馬鹿、何だよ。さっきからいちいち大げさなんだよ。どうしたんだ媛子、らしくないじゃないか」
突如湧き上がってきた羞恥の念を振り払うように、ぶっきらぼうに言い放った。
しかし、彼女は何も言い返さないまま、体育座りをし、膝の間に顔をうずめてしまう。
しばらくして、彼女はようやく言葉を探すように空を見上げ、そして、
「そうじゃな、もしかすると、わしは、この月の光に酔っておるのかもしれぬ」
と言った。春臣はきょとんとする。
「はあ? 神様って、月の光で酔うものなのか?」
そんなことは初耳である。
すると、
「……ぶ、ハハハハハハハ」
媛子が笑い出した。
「な、なんだよ」
「存外、お主は不粋な奴じゃのう。ここはそういうことにしておくものじゃ」
そう言われた。
「不粋?」
「そうじゃ、お主は察するということが出来ぬダメな男、というわけじゃ」
「……さいですか」
「全く、ダメダメの唐変木じゃ」
果たしてそこまで言われるほどのことなのだろうか。
春臣は、頬を掻いた。なんだか、つい最近も同じようなことを言われた気もするが……。
まあ、いいか。
媛子が取り戻した先ほどの笑顔を見ながら、春臣はそう思った。
作者の言葉。
先日、レポートが終わらず、ひいひい言いながらやりました。なんとか間に合ったけど、こんな時でさえ、小説のことが気になってしまうのは病気なのでしょうか。