10 神を殺した男?
「……踏み潰しそうだ」
皿に取り出しておいた食べ物を全て平らげた媛子を眺めながら、春臣が耐え切れなくなったようにそう呟いた。
「なんじゃ?」
と怪訝そうに媛子が見つめ返す。
「だから、媛子って小さいだろ。ここで生活するとなると、そのうち間違えて踏み潰しそうだなって」
そんなことを真顔で言う春臣の目には冗談ではない切実さがあった。
それを聞いて大きく溜息をついた媛子は、腕組みをしてこう言う。
「言っておくが、春臣。わしはその辺のむしけらとは違う」
「それは、分かってる。だが、なんといっても小さいだろ。だから、ふとした拍子にぷちっと、さ」
手のひらを上下で重ね合わせて、媛子が挟まれる様を表現した。
冗談を言っているようだが、全く持って春臣は真面目だった。媛子と春臣が暮らす、ということはつまり巨人と小人が暮らすようなものなのだ。
それだけスケールが違うと、やはりいろいろな障害が生まれてくる。
気づかぬうちに踏み潰す。それも一つの大きな問題であると春臣は思ったわけである。
身長差で圧倒的に不利な媛子には日々の生活でそのリスクが常に抱えながら過ごさなくてはならないのだ。
いやいや、笑い事ではない。
媛子にとってはまさに生死を分かつ重大な問題である、と春臣は思っている。
「ぷちっと、神を殺すのか?」
ふざけ半分の薄ら笑いを浮かべ、彼女が聞く。
「ああそうか。確かに媛子を踏み潰すとそういうことになるな。神を殺した男、か」
春臣は媛子の言葉にそう言ってううむ、とまんざらでもない顔をした。
「おい、まさかとは思うが、そんな肩書きに憧れを抱いておるんじゃなかろうな? 冗談ではないぞ」
それ見て、背筋がざわついたのか、とんでもないことを言うな、と媛子は釘を刺す。
「いや、でもカッコイイ感じじゃねえか。人類最大の禁忌って感じだな。神を踏み潰した男か」
「忠告しておくが、わしを踏み潰した上に、そんな肩書きを名乗られては、わしの恨みは尋常ではないぞ」
「どうなるんだ?」
春臣は興味本位で聞いた。
「まずは、おぬしが一生米が食えぬような劣悪な生活をさせてやる。さんざん周囲の人間にこき使われて、ぼろ雑巾のようになったところで、無人島に島流しして、一日中天日干しにしてやるからな。楽に死ねると思うでないぞ」
「確かに、踏み潰された神様の恨みは怖そうだ。ハハハ……」
どうやら本気らしい彼女の言葉に引きつった笑いをしたあとで、春臣はあることに気がついた。
「ところで、踏み潰されると神様でも死ぬのか?」
「そ、そりゃあ、どうじゃろう」
突然の質問に、彼女は言葉を濁らす。
「うん?」
「向こうの、つまり神の世界では普通、神が怪我や病気で死ぬ、ということはない。じゃが、ここはなんといっても特殊な空間じゃからの。わしはこの通り、力を失っておるし、どうなるかは分からん」
媛子は首を捻って答えた。
「じゃ、試してみるか?」
それならば、とにやにやと笑いながら春臣は片足を上げてみせる。
神を踏み潰す準備は万端だ。
そして、さらにこう付け加えた。
「いい経験だと思うけどな、いつも神の世界から見下ろしてる人間に踏み潰されるってのも」
「目、目が怖いぞ、春臣。冗談はよすのじゃ」
「ハハ、嘘だよ、そんなことしたりしねえって。なんと言っても、天罰が怖いし」
「無人島で天日干しか?」
「ああ、さすがに干物になるのは勘弁だ」
そう言って手のひらをひらひらさせると、ごろりと畳みの上に横になる。
春臣は大きく腕を伸ばし、リラックスした様子で欠伸をしていたが、ふと、何かを思いついたようで、また起き上がる。
「ど、どうした?」
不思議そうな彼女を尻目に、春臣は部屋を出て、階段を駆け下りると何かを探し始めたようだった。
そして、しばらくして戻ってきた春臣の手には小さな色紙とペンが握られていた。
「いい考えがある。ここに媛子のサインをくれよ。神を殺した男じゃなく、神と友達の男って肩書きもいいだろう?」
息を切らし、階段を駆け上ってきた春臣は何を言うかと思えばこんなことを頼んだ。
さすがにこれには媛子も呆れてしまう。
「……」
「……もしもし?」
「……」
「駄目か?」
「……そんなもの、いったいどこの誰に自慢するんじゃ……」
そう呟いた彼女の視線が冷たかったことは言うまでもない。