1 引越し
12/3 ジャンルを「ファンタジー」に変更しました。
闇を抜ける感覚があった。
閉じていた目を開けると、揺れるように、細切れに、木漏れ日が差している。僅かに開けた眠たい瞳には、焼きついた光がくるくると螺旋を描いているように見えた。
午後の太陽の穏やかなぬくもりである。
軽トラックの助手席に座る榊春臣の体は、まだら模様に照らされていた。逃げ惑うように、その光は春臣の上を通り過ぎていく。
まるで、体が天へと浮遊していくような心地をよさを感じていた春臣は、急に戻ってきたラジオの音声に我に戻った。
それまでノイズとなっていた車内のラジオが、再び、女性の声で交通情報を話し始めたのである。
どうやらバックミラーに見えるトンネルを抜けたためらしい。
春臣は前へとせり出し気味だった体勢を、もぞもぞと身じろぎしながら座りなおす。
それに気がついたのか、隣の運転席にいる男が聞いた。
「ありゃ? 起きたのか?」
車の進行方向に目をやりながらも春臣の方を一瞥する。地味な灰色の作業服を着たいかつい体つきの男は今度はハンドルを回しながら、
「ずいぶん長い間寝ていたな」
と微笑んだ。
「すいません。かなり寝心地が良かったので」
春臣は膝の上に乗せたリュックを落とさないように抱き寄せて、そう返した。
感覚ではそれほど長い間眠っていたようには思えないのだが、そう言われたのだから、そうなのだろう。
「いや、そんなことを謝んなくっていいんだよ。怒ってるわけじゃあない」
そう穏やかに言ったのは親戚の楠康夫という男だった。母の弟に当たる人で、春臣にとっては叔父ということになる。確か今年で40歳になったはずで、春臣とは20歳以上も離れていた。気さくでおおらかな人で、時々見せる笑顔はその人柄の良さを感じさせる。
「車の中じゃ、何もすることもないし。ずっとそこに座って起きておけってのも難儀な話だしな」
「はあ……でも康夫叔父さんに長時間わざわざ運転してもらっている身で眠っているというのは、人間として配慮に欠けると思います」
「いいって、いいって、そんな他人行儀に。春臣と俺の仲だろうが、いくらでも好きなだけ眠ればいい」
しかし、彼は前方を見ながら眉を動かす。
「まあ、でも眠れるのはここまでだな。この道の先はちっとばかし、揺れる」
春臣がフロントガラスの方に視線を向けると、軽トラックは坂道を上り、ちょっとした山道に差し掛かるところだった。
道の両脇から垂れ下がるように伸びている木々の枝がさらに鬱蒼とその量を増し、ちょうどトンネルのような形を作っていた。
陽が遮られ、車内は薄暗くなる。
それと同時に、道がコンクリートから舗装のされていない砂利道に変わったようで、ガタゴトと不規則に跳ねるように揺れた。
「この道を越えれば、親父の家はもうすぐさね」
康夫がそう告げた。
「しかし、本当にこんなところでよかったのかい?」
目的地の家に到着し、地面の上に降り立った春臣に康夫が腑に落ちなさそうに訊いた。
「いくら家賃がタダだからって、こんな辺鄙な場所に住まなくてもなあ。だいたい大学にはここから一時間以上かかるんだろう? もっと町の近くにでもアパートを借りればよかったじゃないか」
春臣は彼の言葉にゆっくり首を振った。この選択をしたのにはもちろん理由がある。
「俺、あんまり人が多いところは苦手なんで、このくらいの場所がちょうどいいんですよ」
すると康夫は意外そうに春臣を見た。
「そんな若いのに、まるで隠居したがるじいさんみたいなことを言うなあ」
そういわれることには慣れているので、特に不快に思うことも無い。
余裕を見せるように、胸を張ったまま空を見上げる。
「俺は人いきれでむせるような、ごみごみした俗世が嫌いなんですよ。何だか妙に生臭くって、イライラするんです」
冗談っぽく言いながら自分で苦笑してしまう。康夫もそれを見て微笑み、
「春臣、今のは本格的に世捨て人みたいな台詞だな。まさか、もう人生に疲れてたとか言い出すんじゃあるまいな」
と呆れた。
春臣と康夫の目の前には背後の竹林に囲まれるように青瓦で横長の小ぢんまりとした一軒家がある。
今年から大学に通うことになった春臣が住まうことになった家である。
元々は康夫の父、つまり春臣の祖父であるが、その人が生前に住んでいた家だ。
住む人が居なくなり、安く売りに出されていたこの家を祖父が購入したのだという。
その祖父が亡くなったのが今年の一月。長年患ってきたガンが原因だった。
十年前に妻に先立たれ、一人寂しくも老後を過ごしていた祖父は、ある時ふと思い立ったらしく、こののどかな田園風景の残る柊町に引っ越してきたのだという。昔から自宅に菜園を作るのが夢だったという祖父はこの家の脇に小さな畑を耕し、ささやかではあるが、ここで半自給自足の暮らしを成り立たせていた。
しかし、それもあまり長くは続かなかった。
祖父の身を病魔が襲ったのは、その生活を始めてから、僅か二年後である。
そして、今はその主を失った家。
そう思うとどこか古びて忘れ去られ、家全体が青く変色したような寂寥感が漂っているように春臣は感じた。祖父の魂はまだ完全に浄化せず、かすかな体温をこの家に残しているのかもしれない。そう思うと同時に、柔らかい風が吹いた。
ふと振り返ると、康夫はすでに隣におらず、玄関先のポーチに入り、鍵を開けようとしていた。春臣が駆け寄ると、彼は誰かが入り込んだ形跡がないか確認した後、ドアに鍵を差し込む。
かちりと封印が解かれ、事もなくドアは開いた。
少々生ぬるく、湿気たような空気が頬に触れる。
すると、康夫はこちらに向き直り、その鍵を大事そうに手渡した。
「ほら、この鍵は今日から春臣が持つんだぞ」
「は、はい」
康夫の予想外に真剣な声に、春臣は緊張した面持ちでどもりながらも受け取る。
これが責任の重さというやつだろうか。
手のひらに置かれた鍵からはその本来の重み以上の重圧を感じる気がした。
無くさないようにとすぐにポケットにしまう。
すると、彼は大事な儀式であるかのように、それを見届けると春臣の肩を叩いた。
「今日からお前が、一応この家の主になるわけだ。しっかり気張れよ」
「主ですか……」
事実は事実だが、自分にはずいぶん大層な肩書きだな、春臣は思う。
そんな役を全うできるだろうか、と。
しかし、これから始まる一人暮らしに自身に強い渇を入れてここまで来たのだ。
そう考え直す。
実家が名残惜しくならないようにと、両親にはこの家まで送ってくれることも断わっている。
それくらいの重みも背負えるくらいでなければどうする。
そうだ、自分は今日から一人前の大人になるために変わるのだ。
今までは親の庇護下において、太平楽で気楽な生活を送ってきたが、今日からは違う。全ての事柄に自らの責任と決断が伴う生活がこれから待っている。
自信は、まだない。
だが、怖気づくわけにはいかなかった。
「大丈夫。俺なら大丈夫だ」
そう奮い立たせるように自分に言い聞かせて、トラックの方で荷下ろしを始めた康夫の後を追った。