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遺言

 妻との何気ない会話。


 有象無象の記憶と共に闘病の日々に押し流されようとしていた、それを掬い上げたのは義父の手だった。従軍医として経験を積んだ義父は現在、人口千人に満たない地方の寒村でひっそりと個人医院を営んでいる。


 年の瀬、妻を伴って彼を訪ねた。

 そのまま義父の棲家で寝起きしながら療養させてもらうことになっている。「いつまで」とは誰も口にしない。


 或る夜、板張りの間で囲炉裏の火を肴にコップ酒を煽っていたら、義父が起きてきた。真っ白な無精髭の下で頬肉が痩けて薄く、眼下の皮膚が浅黒く垂れ下がる。間近に相対して今更に気付いたのだが、耳の手入れを怠っているのか耳殻内の皮膚がところどころ剥離して、白垢が酷く目立つ。


 以前は身綺麗にしていた義父の有り様にぎょっとするが、相手はそんな些事に頓着する素振りも見せない。堅い音を立てて囲炉裏の木枠に愛用の湯呑みを置くと、顎で示す。珍しい。この村で唯一人の医師である義父は、滅多に酒を口にしない。


 二人で黙して酒精を煽る。


 やがて、酒臭い吐息混じりに妻の最後の願いと、それを実現する手技が義父の口からポツリポツリと呟かれた。細部まで配慮行き届いた口述から、義父の胸中で時間を掛けて練られた案と窺えた。



「お父さん、一人目の奥さんを若い頃に亡くしたの。母と再婚して私が生まれた頃には、四捨五入でもう五十歳だったって」


「君のこと、可愛くて仕方なかっただろうね」


「うん。車で往診に行く時、お父さんの膝の上が私の指定席だった」


「お巡りさんに叱られるよ」


「ねぇ、もし私達に女の子が生まれたら、やっぱり可愛いとか思うのかな」


「その質問はちょっと」


「あ、そっか。ごめん」



 バックパックの底を探って、小さな保冷ボックスを取り出す。パチリと上蓋のロックを外して、カモフラージュのために入れておいた食材を投げ捨てる。真空パックに密封されたそれ(、、)が姿を表した。


 刑法第百九十条 死体損壊罪。

 義父が犯した罪が薄霜を白く帯びて色を無くしていた。


 アウトドアジャケットのポケットから折り畳みナイフを取り出して、ブレードを開く。思えば、これも妻からの贈り物だった。これまで余りにも多くの物を妻から享受してきたと、今更ながらに思う。そして、物理的に何かを受け取るのはこれが最後になるだろう。


 暫時、掌の上で真空パックを観察する。切除されたという事実をもってしても、妻のその部位から生前の優美な弧を奪うには至らなかった。義父の丁寧な仕事振りが窺える。


 この部位を私が所望すると聞いた妻、その相貌に浮かんだ羞恥混じりの喜色。まだ知り合って間もない頃、詩を朗読する私の拙い声調に、テーブルの反対側からしなやかに身を乗り出す若い彼女。


 何処までも無防備に染まる、その耳殻。



「ねぇ、無理しなくてもいいんだよ」


「無理なんか、してない」


「そっか。じゃ、黙ってるね」



 怜悧な金属に妻が驚かない様に、ナイフのブレードを掌で握り込んで温める。これまで口にしてきた如何なる肉片とも異なる姿形。一度食せばもう此岸には戻れない。不覚にも、今際の逡巡に視野が揺れた。


 耳孔が位置していた空隙の上部、柔らかく隆起する丸みを左手の指先で抑えて、刃を添える。軟骨特有の逃げる感触に戸惑いながらも、耳殻の上端を薄く削ぐことが出来た。初めてにしては上出来と言える。


 この行為に「禁忌」などという大仰な冠を与え、食屍を罪過に結び付けたのは誰だろう。義父は罪の意識を抱いたのか、という問いがふと浮かぶ。だが、今は妻との時間に心を砕くべきだろう。


 胸ポケットからスキレットを取り出し、ウォッカを一口含む。アルコールを欲したわけではない。ただ、妻を迎えるにあたって口内を清めるべきだと感じた。切片に指先を伸ばした拍子に、外縁を包む湿った和毛にこげに触れる。その感触に思わず目蓋を閉ざした。


 忽然と、二人の営みが想起される。昂揚に身を委ねる刹那、端正な造形を歪ませてかんばせを枕に白く埋める妻。露わになった耳殻の潮をついばみながら至る真理。


 最早、二人の間に違える余地など残されていない。情慾の至高は、相手の魂魄そのものを掌中に納めてその骸まで貪り尽くすことに違いなかった。


 無味。私に遺骸を委ねた妻の屍肉は淡白無味であるが故に、否が応でも記憶自体の残滓が舌下に粘つく。臼歯で細い薄片を捉える。そのまま顎に力を込めると、歯茎が戦慄いて夥しい快感が錯覚された。


 喉元から背骨へと、冷えた血流がごっそりと抜けていく。これでは迂闊に噛み締めることも出来ない。小刻みに打ち合わされる顎骨の振動が肢体を伝って膝を頻りに揺らす。


 畢竟ひっきょう、唯一つの肉片を咀嚼し終えるのに私は小一時間を要した。その頃には喉から得体の知れない嗚咽が漏れ出て、頬、顎、下腹部もだらしなく濡れそぼっていた。


 次の一片は火にかざそう。そう考えて手を伸ばす対象は既に妻ではなく、二人のはらわたを浸潤するさかしまの私自身と成り果てていた。


 翌朝、下山する私は軽やかな空腹と共にあった。


 妻の声は、もう聞こえない。




(了)

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