焚火
薄明が示す細道を辿り、昼前に山腹の神社跡が見えてきた。
もはや参道の体を無していない急勾配を見上げると、そこには記憶よりも苔に蒸され、地面に首を垂れる鳥居があった。境内の隅でバックパックを降ろし、身体を解す。
樹々に囲まれて、静かだった。
妻の闘病が始まって以降は足が遠退いていたので、この社を訪ねるのも数年振りだろうか。倒木に腰を下ろして軽食を済ませ、再び細道へ戻る。
天上に日は高くとも広葉樹垂れる視野は仄暗く、足下を覆う落葉も黙して濡れていた。擦れ違う者のない山中、自らの荒い息遣いだけを道連れに、黙々と歩を進める。
「たまに一人でフラッといなくなると思ってたら。こんなことしてたんだ」
午後の日差しが柔らぐ頃、水の微かな囁きが聞こえてきた。谷側を樹木の隙間から見下ろすと、碧い流れが垣間見える。傾斜の緩やかな場所を探って、沢へ降りていく。次第に強まる水音に耳を傾けながら暫時、河原沿いに辿っていくと不意に視界が開けた。
幾層にも堆積した黒岩が、眼前に高く切り立っている。その頂までの距離は掴みにくいが、屹立する岩壁はおそらく十メートルに届く。頂上から滔々と注ぐ水流は中途で三筋に別れ、緑青に濁る淵に溜まっている。
誰にも見咎められることなく、ここまで辿り着けたことに安堵した。
「綺麗な場所ね」
「あぁ、ほとんど誰も来ない。知る人ぞ知る滝だよ」
「そんなのばっかり」
「悪かったな」
「別にいいけど」
「君に見せたかった」
晩年の彼女と交わしたささやかな約束は果たされることなく、そのまま私の胎内に無数の肉芽となって宿っている。記憶を頼りに傾斜を少し上がると、淵を見下ろす踊り場を見つけた。手近な樹の根本にバックパックを降ろす。
アウターのポケットから煙草を取り出して、火を灯した。
葉緑が濃厚に満たす空間に、草葉を燻した呼気を解き放つ。その無為な循環が特定の像を結ぼうとして、慌てて意識を逸らす。徒労だった。
白煙をくゆらせながら、ゆっくりと周囲を散策する。大きな野生動物が獣道としている形跡は見られない。ブーツで落葉を払うとそこそこ平らな地面が現れた。ここで良いだろう。テント布を地面に広げる。
豊かな森だった。薪には事欠かない。さて……
ナイフの切っ先で毛羽立たせた樹皮。火打石を試してみるが、湿っているのかなかなか着火しない。諦めてライターに頼るべきか逡巡した刹那、ようやく芥子粒みたいな火種が灯った。
そっと息を吹きかけながら焚火台に安置して、落ち葉を被せる。火吹き棒で丁寧に吐息を送り込むと、にわかに赤く勢いを増す炎。細枝、そして頃合いを見て太い枝をくべていくと、樹木の骸を呑み込んだ熱が音を立てて揺れる。
時折、川風が頭上を抜けていった。
葉擦れの音。
都市部で育った私にとって、これらの木々は全て名も無き存在でしかない。認識するには知識と動機が決定的に欠落している。
「日本語で『アラカシ』っていうんだよ、それ」
「そうなのか」
「ホントに知らないよね、樹木のこと」
「植物学者に向いてないのは認める」
「まぁ、生きていてくれたらそれで良いけど」
長めの枝を選んで、焚火の真ん中へと差し入れる。火勢を絶やさない様に、火吹き棒に再び手を伸ばした。
「ねぇ、『骨噛み』って知ってる?」
「あぁ、以前に君が話してくれた」
「そう。父の地元にはそういう風習が残ってて。小さい頃に私も食べたんだよ、おじいちゃんの骨」
「そうか」
「うん。大好きだった、おじいちゃん」
「禁忌」の烙印を捺されて忌み嫌われながら、人類史の様々な場面で観測されてきた事象。遭難、難破、飢餓、戦争等の極限状況下は言うまでもなく、美食の対象とされたことすらあったという。
「骨噛み」も物理的側面だけを観察すれば同種を対象とする食屍行為に類されるのだろうが、その精神的背景は趣を大きく異にする。死者を悼む気持ち、一体化願望が残された者にその遺骸を口にさせる。その心情に意識を寄せることは、この風習に馴染みのなかった私にも難くなかった。
だが、その行為を自ら実践するとなると話が違うらしい。喉元から滲み出す圧迫感。この源泉は何だ。黄泉竈食ひに対する男神のそれか。死者の一部を取り込む行為を経て、一体化する主体はどちらなのだろう。
日の落ちた森に一人。
いまや火と風と水が渾然一体となって、鼓膜を微かに揺らす。
その脈動の最中に私も在った。




