『コーヒー狂い』・・・コーヒーと食についての考察
『コーヒー狂い』
・・・コーヒーと食についての考察
㈠
コーヒーをありのままに飲むには、ありのまま存在するコーヒーを求めなければならない。しかし、ありのままと一言に言っても、そこには何か付随してくる物事があるのは自然現象だろう。例えば、店に入ってコーヒーを注文する時、朝ならば、モーニングセット、という形で、食パンと卵が付いてくることが多い。
また、食パンにはバターが薄っすらと加味されており、卵には塩、といった感じだ。当たり前のように付いてくるこれらの食材は、実はコーヒーととても相性が良いのだろうと推測が付く。だから、食パンや卵を合わせて一緒に食べて飲むコーヒーというものが、朝におけるありのままのコーヒーなのだ。
㈡
誰だってコーヒーの事を突き詰めれば、外食した時に、食後に出てくるコーヒーが、食べた物の後味を、すっきりとさせていることは容易に思考できる。舌に残る、この食後のコーヒーの味は、味覚を通して、人の脳に響く。例えば、店を出た後、車などを運転して帰路に着く時に、運転者の頭を覚醒させていることなどがある。
こういった場合、コーヒーの役割は明瞭だ。舌からは、食事の味も記憶も消失し、快適な運転に貢献するコーヒーへと変容する。そして、家に帰って時間が経てば、また、家で何かを食べようとする頃には、コーヒーの味すら消失し、元の、食事に臨む時の通常の状態に、舌は復元されているのである。
㈢
述べてきた様に、コーヒーのありのままの姿とは、実はコーヒーだけを飲むという領域に、食事と一緒に飲むという現象も入り込んでいるのだ。ケーキセットなども同様で、ケーキの甘味と、コーヒーの苦みは、不思議にも確実に調和し、美味しさというものを何倍にも膨らませているのである。
食とはただ生きるためだけに存在しているのではなく、人生を豊かにするために存在しているのであり、コーヒーの存在は、今や現代社会では必要不可欠なものである。食との考察をしてみたが、やはり、コーヒーに狂っている時、傍にある食べ物が、より美味しく変容することを無意識に感じられれば、そのコーヒー狂いは、正解の一途を辿っているのだと、信じてやまない。