『コーヒー狂い』・・・コーヒーの本質に関する考察
『コーヒー狂い』
・・・コーヒーの本質に関する考察
㈠
以前、コーヒー豆を買って、自分でコーヒーを入れていた時期がある。もう大分昔の話だ。
魔法瓶の熱湯を注いで、しとしとと落下するコーヒーの粉からでた水液が黒くて香ばしい。
難しいことはなにもない、手慣れてしまえば簡単なものだ。それでも、いつからか自分でするよりも、店で入れてもらうことが自己内で主流になった。
特に思い当たる節はない、しかし、喫茶店Aなどに行って入れてもらったコーヒーの方が、やはり若干美味しいのだ。そして今は、喫茶店Aに通って、コーヒーを飲んでいる。
そもそも、コーヒーの本質とは、味や見かけや香りや熱さである。特に外で飲む場合、熱さは重要な位置を占める。というのも、熱すぎるコーヒーを出して、すぐに飲めない店などは、自然と行く回数が減る。逆に冷めてしまっているのも駄目だ。より適切な温度で、口に入ってくるコーヒーを出す店が、繁栄するのは考えるに簡単なことだろう。
しかしまた、店の雰囲気や照明の具合、ソファの座り心地などが、多分にコーヒーの味に影響していることは確かなのだ。そして今は、喫茶店Aが自分には、一番合っている。だから、コーヒーの本質とは一言にいっても、難しいものなのだ。
㈡
ただ、余りにも考えすぎると、コーヒーの本来の持つ役割を逃すことになる。
気分を落ち着けたり、片手間に本を読んだりしながら、ゆっくりと味わうことは、時間の観念をも凌駕するのだ。
つまり、場所代も込みで、コーヒーの価格は決定されるべきだ。というより寧ろ、客側が評価して決定していく事象なのである。
コーヒー豆にも色々な種類があるが、ブレンドコーヒーというのが主流になっていると自分は感じる。
よく考えてみるに、ブレンドとは、数種類のコーヒー豆を混ぜたものだから、実を言えば、純粋な一種類のコーヒー豆からできたコーヒーを、私たちは飲んでいないことになる。
その事実はどうだろう、突き詰めて言えば、ブレンドした方が美味しいからだ、という結論に行かざるを得まい。
コーヒーの本質の一部としての考察は、ブレンド、という言葉に一先ず終着しつつある。
㈢
コーヒーの話など、人は飽きたというかもしれない。しかしこれだけは言っておきたい。
日常に、しかも日本人の日常に、コーヒーというのは必ず食い込んでいるものなのだ。
だから、もっと考察し、極めて、よりよいものを目指した方が、日常の身体や精神の調子と言おうか、そういうものを自己管理できるし、すべきかもしれないと、思う時がある。
缶コーヒーの手軽さ、店の場合、私は喫茶店Aだが、そういったものが、日常を豊かにする。そして、気分を高揚させる。それだけの力がコーヒーにはある。だから、人に何を言われようと、コーヒーを飲むことを自分は止めない。
もう一つ重要な事柄がある。それは、何時飲むか、どこで飲むか、である。
朝飲む場合、それはまだ眠りの残った脳の残像を消し去る効果があろう。俗にいう、目覚めと覚醒の効果である。
昼に飲む場合、それは食後のコーヒーと呼ばれる、あの昼食の満腹感に味を添える飲み方である。
夜飲む場合、それは眠さを吹き飛ばすものだから、深夜まで起きている覚悟を持った、意思決定の表明である。
家で飲む場合は、リラックスのための飲み方であり、外で飲む場合は、店の雰囲気を楽しむための飲み方だ。
さて、随分と、いささか本質の考察になっているかわからないが、少なくとも自分に置けるコーヒーの本質を一応書いてみた。今の自分は、喫茶店Aのコーヒー狂いであるが、つまりは、自身の本質は、狂いの中に喜びを見つけるという、単一的かつ積極的な作業なのだろうと思う。
以上がコーヒーの本質に関する考察であるが、今回の『コーヒー狂い』は、どちらかというと自己の内部を掘り下げた、独白のようなものになった感がある。そして、今後も日常に、コーヒーは共にあるという通念を抱いている。
※実際の店名を入れず、喫茶店Aと表記しています。また、これは昔書いた過去のエッセイなので、現在は喫茶店Aではなく、時折ですが、喫茶店Bにコーヒー飲みに行っています。