2.白馬物語(上)・ぎんのつるぎ
さて、これからどうしたものか。改めて大草原を前にすると乗馬は不可欠という思いが再燃する。
なんとか工夫して、このズボンを手綱代わりにできないだろうか。安直に股間部分を噛ませる姿が思い浮かぶ。
パジャマの耐久性や、この一張羅が破れること、落馬のリスクを考えると中々答えが出せない。
乗馬は諦め、荷物となって体を固定すればいいのか。その為の蔓草を森に戻って探すべきだろうか。
俺が悩みつつも川岸に戻り、脚の水気を落としてズボンを履きなおす間に、白馬はゆっくりと向こう岸に向かっていた。
俺も喉が乾いた。いずれ空腹になり、やがて夜になるだろう。急ぐのは賢明な判断だ。
ここまでに一キロは歩いただろうが、果実などは見当たらず、ここには魚も居なかった。
生水を口にするのは抵抗があるが、この先を考えて俺は手ですくった水を飲んだ。
白馬は行き先が決まっているのか、迷いなく歩を進める。便が出てすっきりしたことで飼い主の元へ帰るのだろう。
きっと飼い主も良い人のはずだ。俺が好意的に受け入れられるなら、そこで厄介になるのもいい。
今の俺に馬を養う力はない。別れの時を意識しつつ小川を渡る。
飼い主には馬をダシにして金をせびるような真似はしたくない。貰えるものは有難く頂戴するつもりだが。
小川を渡りほんの数歩進んだところで、不穏な空気に包まれ、若干の息苦しさを感じた。
見渡す限りの草原は見る間に起伏のある地形へと変貌し、地平の彼方には山脈が連なる。
様変わりした草原には岩や茂みが点在し、近場に牛らしき獣の死骸、それに群がる虫とトカゲ、朽ちた荷車がはっきりと見受けられた。そして正面に位置する遠くの高台には砦か城壁らしきものが見えた。
背後からは小川のせせらぎが聞こえてくる。
突然見せられた物が生命と文明の残骸でも人の痕跡に嬉しくなる。
思えばトイレで受けた現象に似てなくもない。俺は突然切り替わった風景にテレビゲームのエリアチェンジを想起した。
「チュートリアル終了か」
セーフティーエリアは終わった。これからが本番だと改めて気を引き締める。
白馬には元から今の景色が見えていたのだろうか?
俺が思案してる間でさえ白馬は何事も無かったように進んでいく。
きっとあの城壁らしきものが目的地だ。目測に自信は無いが三、四キロの道のり。途中から上り坂になるが問題は無い。
結果として生水を飲む必要は無かった事になるが、乗馬で危険を冒す必要も無くなった事に安堵する。あまりの安堵っぷりにサバイバル能力の無さを自覚させられ苦笑する。
俺は白馬に遅れまいと、後ろを振り返らず前に進む。よくある怪談話のように飲んだ水は実はドブ川だったかを確認するのが怖い訳ではない。
転位か幻か、見てもどうせ謎が増える。次の目的地が決まった今、真相を探るよりも出会いの森を美しい記憶のままに留めておきたかった。
「お待たせ」
白馬を追い抜きざま声をかける。白馬が嬉しそうに歩みを早める。
何か使えそうなものはないかと朽ちた荷車に向かったものの、強烈なアンモニア臭にハナから調査を断念する。
ふたつめの起伏を登る途中、前方に小柄な人影を見つけた。
奴はゴブリンなのだろうか。粗末な腰巻、人とは思えない体色。こちらに丸めた背を向けている。
そいつは一体でよたよたと腹を押さえ、棍棒を杖代わりにゆっくり遠ざかる。その様はまるでトイレから出てきた姉そっくりで、”探したよ、ねーちゃん!”と声掛けしたくなる。
お前も便秘か。はたしてこの世界は便秘だらけなのか。
例え重度の便秘だろうと、この文明を感じさせない化け物が俺のヒールを感謝するとは思えない。こいつは敵、初めて遭遇した危険なのだ。
もし襲ってきたら、姉より強そうな相手にぶっつけ本番で俺は勝てるのか。
両手を突き出してファイアと唱えてみるか? 一発だけなら出るかもしれない。
そのフレーズからは、なんとも炎上しそうな魅力的な響きがする。
駄目だ、なまじ姉に似てるせいで引き締めたはずの緊張が完全にほぐれた。
城壁らしき物がしっかり見える位置まで来たのだ、無理に挑むことはない。
戦う術が無く後ずさりした俺の腕を撫でるように白馬が首を寄せてきた。
いい加減乗れという事なのだろう。逃げると決めたら善は急げだ。
騎乗の為しゃがんでくれた白馬の首の太い部分に両腕を這わせて背にまたがる。
白馬はゆっくり後ろ脚を伸ばしながら、これまたゆっくりと頭を下げて首を前傾させる。俺はされるがままに首の滑り台を伝う。
俺の全体重が首に掛かる。馬の首が頑丈なのか心配ではあるものの、そこにしがみつかれるのが白馬の望みなら遠慮はしない。城までの道のりか又は、ゴブリンを振り切るまでの間くらい、きっと耐えられるのだろう。
白馬が首を縦に振って走る。俺は舌を噛まぬように口を硬く閉じる。
突然、前方の物陰からゴブリンが左右二体ずつ飛び出してきた。元の一体を中央にして壁を作る。
明らかな待ち伏せだ。無理に挑まず逃げの一手で良かったと安堵している場合じゃない。
白馬は中央の一体めがけて加速を続ける。そして狙われたゴブリンが怯んだ隙に棍棒をかすめる様に飛び越えた。
白馬が宙を舞う瞬間、行く手の先に俺が見たものは、騒ぎを聞きつけ岩場や物陰、茂みの中から這い出してきた奴らのお仲間だった。
ゴブリンの狩場に迷い込んだ白馬。二十体は優に超えるゴブリンが行く手に立ち塞がる。
白馬は着地の衝撃を抑えるべく首を縦に揺らす。弾みで俺は首にしがみついたまま底側にずるっと回り込む。つまりナマケモノの体でぶら下がる。
白馬が速度を緩めずに周囲のゴブリンを抜き去っていく。
ほとんどが逃すまいと追いかけてくるが、突然の来訪に為す術なくきょろきょろ辺りを見回す奴も居た。
便秘は欺瞞、擬態、俺を油断させる演技なのかといぶかしみ、俺は首を伸ばして顎を引き、後方を垣間見る。
最初の五体を探せば、その内の二体はわき腹を抱えて苦しそうに追いかけてくる。
そしてそいつらのうち一体が立ち止まり弓を構える。
俺は警告のため馬の首を軽く叩いた。白馬は心得たとばかりに右へ左へと蛇行を始める。
直進よりもペースが落ちれば、追走を諦めたゴブリンが再度モンスタートレインに復帰する。
矢を放つ集団と、追いかける集団。ゴブリンの肩に矢が刺さり憤慨する。ゴブリン同士で小競り合いが起こる。
白馬の蛇行に合わせ追跡者達が横に広がる。後方から放たれる矢が目に見えて減った。
白馬が蛇行と直進を織り交ぜ器用に後続との距離を保つ。それは優れた聴力のなせる業なのか。追われるのは初めてでは無いのかもしれない。
馬は嗅覚も優れている筈なのだが、これだけの群れに気付かなかったのだろうか。排便時に鼻が麻痺したのか、奴らが多過ぎ、臭過ぎで判別が付かなかったのか。
はたまたこれは想定の内、逃げ切る自信があるのか。いずれにせよ白馬はこのまま突っ切るつもりらしい。
俺が密接する首からは不安も自信も伝わってこない。
あれこれ悩むほどにこっちの不安は増すものの、あと少しの辛抱だ。城壁に辿り着きさえすればそこには守備隊が居るはずだ。この疾走はそれを見越してのはず。
緩やかな上り坂に差し掛かり白馬が蛇行を緩めてペースを上げる。
これを登り切れば城はすぐそこと安心するのも束の間、一体のゴブリンが群れを飛び出しなお猛烈な勢いで迫り来る。見た目に違いは無いものの、他を寄せ付けぬ軽やかな走りだ。
そいつが持ち主にはそぐわないほどの立派な銀剣を振り上げ、陽光煌めかせながら嬉々として距離を縮める。
俺は再度馬の首を叩く。白馬は蛇行を始めた。
俺の連打に熱がこもる。目の端に異変を捕らえたのか白馬がギアを上げる。
ゴブリンの執念の追走。じりじりと引き離すものの、なおも懸命に食らいついてくる。もうすぐ城壁のはずなのに奴はお構いなしなのか。
俺は揺れる首にしがみつくのに必死で前方を確認出来ない。城門に守備隊は居るのか。俺の確信が希望へと変わる。
草原に足を取られたのか白馬がつんのめる様に急減速する。バランスを取るようにたたらを踏み、前足を軸に体が左へ流れる。尻が俺の視界を塞ぐ。輝く剣先が迫る。
沈む白馬の尻。迫り来るゴブリンが頭頂から徐々に姿を見せる。
白馬が鼻息荒く、後ろ脚で地を蹴ると、ついさっきまで尻のあった場所を何かが突き抜けた。
ヒュン、と鋭い風切り音と共に、一本の矢がゴブリンの頬に吸い込まれる。一瞬、体をくの字に反らせたゴブリンはその場でうつ伏せに倒れた。
それを合図に坂下へと上空を矢が飛び行く。
俺はぶら下がったままどうにか城壁に目を向ければ、剣と盾を手にした守備隊が怒声と共に勇ましく坂道を駆け降りるのが見えた。白馬はゴブリンの矢が届かない安全な場所まで進むと速度を緩め、やがて歩き出す。
石で組み上げられた門まで残り約三十mの上り坂。堀には跳ね橋が下ろされ、門は全開状態だ。
俺は気が抜けて馬の首からずり落ちて、草原の上で仰向けになる。尻から落ちたにも関わらず強張った背中に痛みが走る。白馬は俺を踏まぬように片足をあげたまま器用に停止した。
逃走劇。危うくミソが出るところだった。今は腰が抜けて立ち上がれない。
ゲームだと思った途端にトレインをこさえるとは、なんとも皮肉な話だ。
白馬は命の恩人だ。背中の痛みなど逃げ切った事に比べれば些細なことに過ぎない。
気付けば、筋骨逞しい男が俺目掛けて剣を振り上げていた。白馬が俺をかばう様に一歩進んで跨ぐ。
「何だ人間か。貧相ななりで、ゴブリンかと思ったぞ」
心臓が早鐘を打つ。確かにパジャマはゴブリン色だ。
男は俺達に背を向けて不測の事態に備える。それを見て安心した俺はさっき足を滑らせた白馬が心配になり、素人ながら四肢を触診する。
白馬は痛がる素振りを見せなかった。あれはゴブリンを油断させる演技だったのかもしれない。
俺は立ち上がり白馬に密着するように寄り添う。馬の背からぶわっと汗が噴き出した。喧騒の止まぬ中、俺はそれをパジャマの裾で拭った。
「こいつを持ってろ」
俺は男から渡されたマンホール蓋サイズの木の盾を受け取り、重さに戸惑いつつも上半身を覆う。
「一人か? 逃げ遅れた連れはいるか?」
「いません」
返事を聞いた男が城門に合図を送る。俺は今になってやっと男の言葉が理解できている事に気がついた。
「悪いが、みんなが目が良いとは限らんぞ。今はそこでジッとしてろ」
これは見間違いへの詫びなのか、乱戦のさ中の誤射、誤斬への警告なのか。
やはり奴らはゴブリンか。不思議な力で言語がフィルタリングされているのかもしれないが。
ゴブリンに襲われたし、ここはゲームの世界、もしくは異世界だと考えて良さそうだ。
この歳でゼロからの言語習得なんて俺には無理だ。言葉が難なく理解できるのは転移のお約束とは言えなんと心強い事か。
歩兵が向かったその先でゴブリンと切り結び始める。俺達の周りには俺を殺しかけた男が一人残る。危険度がかなり低下したことで男が周囲を警戒しながら再度声を掛けてきた。
「白馬を見つけたのか?」
「はい、森で」
「そのなりでか、どこまで探しにいったんだ?」
男は俺が積極的に探しに行ったと誤解しているようだ。
「いえ、偶然みつけて。馬に連れられてここに」
「余所者、難民か?」
「はい」
「嘘は無いな?」
「はい」
男の質問は端的で深くは追及して来なかったので、この城の難民に対する扱いに不安はあるものの、俺は記憶が無い振りなどで取り繕うのは止めた。
第一、パジャマという格好からして胡散臭い。
ゴブリンが退散して喧騒が消えると、城門から飛び出した兵隊が潮が引くように戻ってくる。
その内の数名が手に縄を持ち、白馬を逃がさないように陣取る。対する白馬は苛立ちを露わにする。
「おっと、すまんな。そいつに捜索願いが出ていてな。逃げられたら困るんでね」
俺に質問していた男が片手で散れと合図して白馬の包囲を解いた。
「とある白馬に捜索願が出されて……まあそいつだろうな。報酬が出る。馬にしては破格の報酬だ」
男が俺の表情を窺う。俺が頷くのを見て話を続ける。
「出るんだが余所者のお前が一人で行ってそれをすんなり受け取れるとは限らない。受け取ってからの危険もあるだろう。そこでその交渉に一枚噛ませてくれないか?」
つまりは俺だけでは報酬を取りっぱぐれるから、男はその仲介をしてお零れに与りたいということだ。
「はい、お願いします」
俺は即決した。
「分かってるのか? その馬を手放すってことだぞ」
「飼い馬だとは思いましたので。第一、馬も帰りたがってるみたいだし」
「ちゃんと理解してる様だな、あまりにもあっさりしてるからこっちが焦ったぜ」
男が盾を指刺す。差し出した盾の縁を男は片手で掴むと軽々と手元に引き寄せた。
「ありがとうございます……ひとつ聞いても良いですか? ここでの難民の扱いは」
俺は盾の礼に次いで懸念事項を聞いた。
「戦えなくても読み書きができれば職はすぐ見つかる。安心しろ」
「奴隷とかは?」
さらりと戦力外認定された様だが、俺は奴隷という単語を使い改めて尋ねた。
「罪人だけだ」
男が俺を一瞥して無感情にそう答えた。その言によれば奇妙な出自が罪でなければ俺は奴隷にならずに済みそうだ。