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11.スカイハイ・フライハイ(参の巻)

 話し声で目が覚めた。”じゃんけん”という響きが耳に残る。

 てっきり昨日のやりとりを夢に見たのかと、そんなに印象深かったのかと思ったが、勘違いだった。

 それはまさに今、部屋の隅で揉めているギルド職員の発した言葉だった。


 開け放たれた窓と扉から陽の光が差し込む。

 朝だ。宴は既に終わり、卓上には何も残っていなかった。

 俺は昨夜、スパルタだ何だと息巻いてみたものの、スープを数口飲んだところで疲れと安堵からか、壁と柱の入り隅に背を預け、椅子に座ったまま寝入ってしまったらしい。

 何の肉か訊かず仕舞いだったのだから、それはそれで良かったのかもしれない。


 室内では五人のギルド職員が輪になって言い争い、それを他所に男が床に二人、宴を満喫したであろう幸せそうな顔で眠りこけていた。

 職員はトイレ掃除で揉めていた。

 昨夜は利用者が多かったのだから、いつもとは違う。当番だからと押し付けられては堪らない。じゃんけんで決めようと。


 興奮する当番。対する一人が背を向け床の男を起こしにかかる。

 それに続く離脱者が二人掛かりで卓を脇にどけ始める。そして当番に言った。

「今日はこっちも大変よ」

 予定外の大掃除か。

「じゃあ代わってよ」と当番が食い下がる。どっちも大変なら一理あると思った。

「俺がやろう」

 俺はキレイ好きをアピールするチャンスとばかりに名乗りをあげた。当番が満面の笑みを浮かべた。


 掃除道具の木ベラと木桶を渡され、互いの持ち場へと背を向けた。

「臭くならなければいいけど」

 遠くの背後からかすかに聞こえてきた。誰とは分からないが確かに聞こえた。

 やはり俺は年頃の職員にとって嫌味や軽口の対象であり、これからもネチネチ言われるのかと思うと虚しさに襲われてくる。

 それでも、もし食堂の掃除についつい手を貸して、余計なお世話とばかりに根深い不興を買ったり、あるいは面罵されたかもと思えば、それより何倍もマシだと捉え直した。


 俺がトイレのドアに手をかけた丁度その時、玄関で大きな物音がした。

 振り向くとそこには息せき切らした男が立っていた。

「あら、忘れ物?」

 職員が男に声を掛け、ひとまとめにしていたのか、カウンターテーブル上の品々に目を向けた。

「いや、その、先生に用があって」

 男が返事ののち俺を見た。そして告げる。

「ダンが先生を呼んでくれって。馬が大変なんだ」

 恐らくは痩せ馬の事か、緊張が走った。

 同時に誘拐を懸念する。理由より恐れが先に来た、ありがちな展開として。

 痩せ気味なこの男には見覚えがある。昨日馬屋敷で数度見かけた。昨夜ここに居たかまでは知らない。

 直接、ダンが来てくれば即信用できるのだが、手を離せないほど深刻な状態なのか。行かない訳にはなるまいが、それが誘拐の手口なら痛い所を突いてきやがる。


 手元の掃除道具が別の職員を介し無言で当番へと戻された。

 ギルドに護衛を頼もうか。もしくはこれが俺の対応を見るといったギルドの入団試験なのか。

 どこかで聞いたような、そんな疑念も沸いてくる。


「痩せ馬がやばいのか?」

 俺は訊いた。

「その、何というかダンが兎に角って」

 返事に無言で頷く。曖昧ながら肯定でなかったことにまずは一安心。

 同時に連れ去りたいのなら痩せ馬を口実にするのが一番ではないのかと思った。

 しかしその返事はあらかじめ用意された何にでも使える便利な決め打ちにも思えた。


 疑い出せばきりがなく、一歩も進めない。これが俺yoeeeの弊害か、無双がうらやましい。

 問題が本当なら手遅れになったらまずい。俺に救えるとは限らないが。

 この男を試金石に今後の疑い癖から抜け出せるのだろうか。


 返事を吟味する短い間にも職員はこちらの様子をチラチラ見つつ掃除を始めた。トイレ当番も観念して動き出した。ギルドに怪しい気配は無い。

 まずは外に出よう。 

「手伝い、待ってるからね」と温かい言葉で送り出された。


 表に出てすぐに、足元の気配に驚いた。

 乾いた土の地面に、出入りに支障のない程度にドアから離れて、こちらに足を向け寝そべる男がいた。先程ギルドから追い払われた客の一人だった。足をやや曲げて、腕を枕に穏やかに寝入っている。

 俺は寝ている客と馬屋敷の男に挟まれた位置取りになるが、今なら仮に襲われてもドアを開け放ったままのギルドに素早く逃げ込める。

 来るなら来い、この疑念を早く解消したいと気が高ぶった。


 いわゆる泥酔の体の男から目を離し素早く辺りを一瞥する。左右に道が続き、不揃いな家々が軒を連ねる。道の先には寝ていたもう一人の客が去り行くのが見えた。その他の人影は無かった。


 路地に風が吹き抜け、サンダル履きの足に寒気を感じた。同時に寝ている客が身震いした。

 俺は抱え込んでいた作業着の上着を広げ、その男の上背に掛けた。

 これは単なるお節介では無く、失踪に備えての遺留物やギルドへの点数稼ぎとも無関係。

 自棄ともいえる咄嗟の思い付き。普段ならやらなであろう自発的行動によって流されるままの現状に反抗を示したかった。一々不安がる自分に嫌気がさしたのかもしれない。


 念のために胸元にあるはずのスマボに触れ、その存在に安堵した。

 同時に男の呼吸や吐しゃ等、切迫した危険が無いことを確かめた。

 掛け終え、立ち上がり離れつつ上着を見れば、屋上で揃えられた靴に似た哀愁があった。やはり慣れないことはすべきでは無い。


 馬屋敷の男の傍に行くと、彼は背後の道を示しつつ訊ねてきた。

「場所は覚えてますか?」

「いや」

「脇道はよして大通りで行きましょう。いやまぁ、警戒心の強い人だとダンから聞いてますんで」

 俺はその気遣いに無関心を装い、その場で屈伸運動をこなす。

”はい”と認めるのも、”気遣い無用”と意固地につっぱねるのも避けた。それを分かってるなら白馬でも連れてきてくれ。

 そんな俺の態度に憐れみか、はたまた煩わしさを感じたのか、男は片目を細めた苦笑いと共に告げる。

「付いてきて下さい」


 男が小走りに先導する。小道を左折、大通りに出た。

 顔見知りなのだろうか、男は朝の挨拶に対し律儀に急ぎだ急患だと返していた。

 追走する俺も挨拶と応援の声を受ける。左手で手持ちの作業ズボンと胸のスマボを押さえつつ右手で軽く応じた。

 大通りを五百m程、左折すると馬屋敷が見えた。

 速度を緩めた男とは逆に、俺は勢いを上げて門を抜け、開けた庭へと踏み入った。


 痩せ馬の小屋は今日も布で覆われていた。そこにメイドらしき一団が集う。

「かれこれ一時間、あんな調子です」

 背後から案内役のうんざりした声。そして「では」と気配が遠ざかった。


 俺は芝生を直進する。男は迂回しながら隣の馬小屋に向かった。

 一時間と聞かされても、品薄ゲーム機や3の付く日など、行列の話題に事欠かない世界から来た俺からすれば男は大げさだとか、ここの住人は待つのが苦手なのかと侮ったが、近寄るにつれその認識が改まる。

 小屋を背に十五人程のメイドと向き合うダンは、まるで詰め寄られる駅員だった。


「おはよう」

 ダンに声を掛けた。”モテモテだな”等と軽口を叩くのは控えた。知らない顔が多過ぎる。

「聞いとくれよ、クソを渡してくれないんだよ」とメイドが俺の同情を誘う。

「そうなのか?」

「やめてくれ、本当に困ってんだ」

 俺のとぼけた言葉にダンが弱音を吐いた。

「馬の調子は?」

「すっかり元気だ」

「だからさっきのじゃ駄目だって言ってるんだよ」と先頭のメイドが会話を引き戻しにかかる。

「そんなことねえ、今朝のマー坊のクソだ」

 マー坊とは痩せ馬の愛称らしい。メイドとダンの言い合いが続く。

「出したてを貰いたいんだよ。中に入れとくれ。私らだって馬屋敷の者さ、無茶はしないよ」

「分かった。大事な時期だ、静にな」

 ダンが半歩道を譲る。

 ゾロゾロと皆一斉に動き出す気配があった。ダンはあわてて小柄な体で押し留める。俺は静観する。

 出鼻をくじかれ不満げなメイドに、彼はなだめる様な小声で要望する。

「一人、一人だけ。せめて二人にしてくれ」

「そりゃ駄目だ。あたしらは、ねえ、抜け駆けしないって決めたんだよ」と脇のメイドに相槌を促した。

「なら、回復するまで待ってくれ」

「おちおちしてたら、効き目が消えちまうかもしれないじゃないか!」

「皆そんな気持ちで働いてるのか」

 ダンが声を震わせた。

 俺なら料簡や矜持と問い詰める所か。不必要に難しい言葉を連発する人はアホ認定されるらしいが。

 メイドが大人しくなる。気まずそうに互いが顔を見合わせた。


 馬フンを寄越せとメイド達が痩せ馬の小屋に群がる。俺のクソがメイドの便秘を治したからだろう。

 しかしその功績は馬フンに取って代られていた。

 俺は昨日のこの馬小屋での排泄によって、どんな扱いを受けるか、つまりは蔑みを覚悟していたのだが、それは嬉しい肩透かしとなった。


 恐らく爺が偽ったのだ。そして応対にせわしいダンの名を借りて俺を呼びに行かせたのも爺だろう。

 前者のそれは温情だろうか。もしくは馬フンと偽った方が自身の威厳を保てると感じたか、それは勘繰り過ぎだろうか。

 そう、馬フンなら笑い話で済むかもしれない。そういった感性がこの世界にも有るのなら。

 それに比べて人糞では猟奇、獣の所業だ。だとすれば爺が口を開かずとも、あれは獣のフンだとメイドが勝手に早とちりした可能性は十分にある。

 それでも、この騒ぎに瀕して真相を暴露しないのはやはり爺の温情だろう。


 さらにはダンは薄々気付いているのでは無いか。知らされずとも痩せ馬のフンより俺のクソの方が有望だという事に。メイドに詰め寄られ、対する妙案として伝えないのは温情か、はたまた偶然かは測りかねた。


 メイド達の話し振りでは、既に一度渡された物を試したらしい。しかし何も起こらない。

 この結果は素直に捉えるべきか。つまり俺のスキルを受けた馬、そのフンに不思議な力が無いのだと。

 もし有るとすれば俺のスキルの残滓がフンと共に排出されるのか。その仮説は匂いに悩まされるモリブの問題解決の糸口に思えた。

 ただダンの発言を鵜呑みにすれば、元気になったとはいえ病み上がりの痩せ馬の身を案じれば、今はその仮説を試す時では無い。ダンもそれで防波堤となっているのだ。

 仮に無かったとしても、俺がレベルアップしてスキルが強化される可能性まで考慮すると、孤独な検証とはなんとも面倒な物である。


 そして俺は偽りの情報をあえて訂正するつもりは無い。

 だれもが便に触れただけで治ってしまったら、俺が予定する偽ヒールによる金儲けの大きなライバルとなる。

 クソは高値で売れるだろうか、いや売れまい。そもそも売る気も無い。

 もっとも一番の懸念は踊らされたメイド達の怒りだ。


 メイドにしてみれば触れるだけという単純な行為を失敗したとは考えづらく、不思議な力が弱まりつつあるのか、鮮度に問題があるのではと疑っているのだろう。そう考えるのは治ったという前例を信じれば当然と言える。

 揺るぎない強引さは単純なはずが上手くいかなかった焦りと、やはりはタダで治せるかもという欲目からだろう。


 どう引き下がらせようか、事実をうやむやにしつつ。

「なるほど、悪魔の証明だ」

 俺はつぶやいた。偽証なのだから意味合いは違うが、同等の厄介さを感じた。

「なんだい、私らの事かい」

「あ、いや」

 メイドが怒り出した。難しい言葉を使う奴はアホ……らしい。

 ダンが長引きそうなこじれの気配に背後を見やった。

 舌禍で図らずも集めし耳目を契機に、俺は提案を始める。

「馬のフンで治ったってのは恐らくは、マグレ。医者の言うところのフラシーボだ。馬が治ったと聞いて暗示に掛ったんだろう。しかし俺のヒールならきっと便秘を治せる。……しかしタダじゃない、これが商売だからな」

「フラ、何だって?」「金取るのか」とメイドが口々に騒ぎ立てる。

 タダへの強い期待か、高値への牽制か。舌打ちも聞こえた。

「ああ、そうだ。まぁ昼メシ一回分位さ」

 日本円にして千円程度を想定した。

「それでヒーラー様はどんな豪華な食事なんだい?」

「ギルドでの一食分だ」

「これくらいかい」と一人が腰ポケットをまさぐり、差し出した掌には小銭が乗っていた。

 いびつな銅貨が三枚。

 俺はダンに指を三本を立てて確認する。出てきた三枚が偶々では困る。

「これ?」

「そうだ、それくらい。あっ!」

「なに?」

「肉料理だが」

「ありがとう。値段が知りたかった――」

「払う位なら、馬のクソ食ったほうがましさ」とメイドがほざいた。

 彼女の豪気を仲間が持て囃す。メイド全員が沸いた。俺は調子に乗ったセリフにムカつきを覚えた。

 例え今日が金曜日だろうと俺にはサービスデーは無い。


「オラが払うから、だから……」

 騒ぎを嫌ったダンが弱音を吐いた。耳にしたメイドどもが喜声をあげる。

”しーっ”っと制する声もあった。その取り繕うような物分かりの良さが俺をイラつかせた。薄汚いご機嫌取りに思えた。

 虚しさと憤りに皆に背を向けた。昨日トイレに使った茂みが見えた。そこへ向かう。

「先生どこへ?」とダンの声。

 メイドが一人だけついてきた。

「ダンがああ言ってるんだからそれでいいじゃないか、やっとくれよ。そりゃあダンが正直なのは知ってるよ。渡されたのが偽物だって疑うのも居るけどそれは無いね。でもね、昨日のがマグレだろうが試してみたいんだよ、もう一度。あたしゃ待つよ、マグレ結構じゃないか。あたしゃ言う程便秘が重い方じゃ無いし。ビタ一文払うもんか」

 俺は俺の知ってる馬のふんはタダじゃないと伝えたい思いを募らせつつ、ただただ歩いた。

 捲し立てがひと段落してもメイドがついて来た。茂みに到着し、俺は振り返った。

「他人のうんこは邪魔をするのか?」

 メイドが引き返した。


 半数のメイドが俺を見据え、残りは仲間内で喋っている。

 こちらはため息と空気椅子、アゴに手を当て考える。

 俺は一律料金こそが一番平等だと思ったが、便秘が軽い者にとっては納得がいかないらしい。

 かといって細分化は煩わしく適切な価格を一人では決めかね、なにより重かろうが多くを求めない事にある種のロマンを感じていた。


 依然としてメイドの監視が続く。

 先程の怒りを思えば、こちらから折れる気には到底なれない。

 持久戦か、ダンには悪いが帰ってしまおうか。商売初日にして今日だけは無料と、ずるずる流されたくはなかった。

 メイドの立場からすれば、突然しゃしゃり出てきた生意気な守銭奴の鼻をあかせて、ついついはしゃぎたくなる気持ちも理解できる。

 決心がつかず、ズボンを脱ぐ風を装って、抱えていた作業着のズボンを茂みに被せるように晒すとメイドが一斉に目をそらした。

 メイドに根気勝ちしたような錯覚に、いたずら心が芽生えてくる。


 茂みの中、身を低くして館へと向かう。

「あ、逃げた」

 館の勝手口手前でメイドの咎める声がした。


 昨日世話になった作業場を覗くとメイドが四人、馬の餌を用意していた。

 用があるのは、昨日俺に頼み事をしたメイド。いたずらとは虎の威を借りる事だった。

 彼女は四人の中に居た。俺に気づいた一人が彼女に「チーフ」と呼び掛け、注意を促した。

 水場を指し示す俺にチーフが頷いた。顔を洗い手酌でうがいをする。

 俺はチーフの衛生意識が高いことを知っていた。丹念に手を洗う。その間にチーフがすぐ傍まで来た。

「ありがとう」とタオルを受け取った。

「本当に術者だったんだね。昨日は悪かったよ」

「いや、まあ別に」

「それで何だい? 今日も手伝う気なら歓迎するよ」

「いや、それは勘弁。実は外のメイドの――」

「ああ、あれかい」

「そう。彼女達が便秘を治せ、でも金は払いたくないって言うんだ。俺としては今日から商売だってのにいきなり舐められるのは御免でね。それでチーフにちょっとお願いしたい事が」

「何だい?」

「彼女達にここで残業を、いつもとは別の仕事をさせられないかな。銅貨三枚分、ギルドで一食分ほどの。そう、そんな訳だから舐められなきゃ、俺への支払いは要らないから」

「そりゃあ大歓迎だよ。餌を刻んだら馬に甘え癖がついてね。面倒ったらありゃしない。人手が足りないよ、食欲も戻ったしね。でもそれでいいのかい、随分手ぬるいねえ」

「まあね、板挟みのダンが恨まれるのもかわいそうなんで」

「なるほど、分かったよ。まあ私らは時間時間できっちり働いてる訳じゃないけど、今さぼってる分も含めてみっちり働かせるよ」

「ありがとう。それともう一つ、トイレを借りたい」

「そこで治療するのかい? その廊下沿いあるよ」

「いや、そこで治しもするが俺が使うんだ」

「医者の不養生って言うけどあんたは違うって訳かい、長生きするね。いいよ使っといで」

「どうも。……チーフもその、ヒールするかい?」

「あたしゃいいよ、魔法ってのがどうにも苦手でね」

「それはそれは」

「妖精に見られてるんだろ? 気味が悪いったら……何だい、ニヤニヤして」

「いやあ、会話量からすれば、チーフが第一ヒロインかなって」

「ふざけても照れながらじゃ世話ないね。ほら、さっさと行きな」


 チーフと別れドアの手前で、目に付いた椅子を治しの間だけ借りようかと思ったところで、「後にしな」と、チーフが仲間に言い聞かせる声が聞こえた。ここに居た者の手が治しに心奪われて止まったらしい。

 チーフのそれはやはり衛生面への配慮だろう。臭い手ばかりに気を取られ、発動中に触らなければいいと思っていた事に苦笑しつつ椅子を借りるのは止めた。


 調理場を預かるチーフの衛生意識とは如何ほどのものか。俺は昨日、作業前に念入りに埃を落とした。上着は倒れ込んだ時の藁が付いた程度で汚れてはいなかった。

”後にしな”との発言から謎解けば、忙しい時にトイレから調理場に戻ってくる者を信用していないのか、騒動や上の空による不手際を恐れたのか、はたまた魔法の類いを嫌ったのか。

 負い目があると理由を列挙し易い。なぜなら俺こそがうんこであり騒動でありスキルであった。

 実際のところは直接聞けばいい。それはスキル検証に比べてはるかに容易だ。

 但し問い掛けることで、昨日の続きを任されかねない。やぶ蛇って奴だ。


 ほくそ笑みつつ部屋を出た所で、戸口の脇に潜んでいた三人のメイドと出くわした。庭から追いかけて来たメイドが成り行きを窺がっていたらしい。

 何事もなかった風に表情を正し無視するようにトイレへ向かう俺に、最後尾のメイドが無表情のまま作業着一組を押し付けてきた。畳まれた俺のズボン、裾先が汚れていた。そして色合いが微妙に薄い上着。この館からの補充品だろう。

 いたずらを見逃されたような、まるで俺が優しいママに飢えているかの扱いに、いたたまれない気分になる。

 受け取ったのちにバツの悪さに硬直していると、メイドの何らかに気付いたチーフがこの三人に声を掛けつつ近づいて来た。チーフの到着と入れ替わるように俺は軽く頭を下げてトイレへと向かう。


 トイレは洋式だった。

 便座でゆっくり考える。風呂、日用品、住む場所。まずはギルドに戻るのが先か。

 治しについて一つの考えがあり、中に着ていたパジャマの上着を脱いだ。

 片袖の先を結んで袋状にしてスマボをそこへ入れた。パジャマを振り扇ぐ事になるので胸ポケットのままでは心許なかった。

 排泄、そしてパジャマの手に触れていた部分の匂いを嗅いだ。匂い移りは無かった。

 俺がここに居るのは明白なのだろう、メイドが廊下に集うにつれ騒がしくなってきた。

 これからの行為に意識が向いたおかげで、退室時にうっかり手を洗わずに済む。


「チーフの条件に納得したか?」

「ああ」

 俺の問いに、集まったメイドが返事と共に、渋々の者も含め全員が頷いた。

 計十人、四人減って数え易くなった。俺の意地が彼女達の団結を崩す形となったが、結束が弱いと蔑む事や気の毒だと思うべきでもないと思った。俺を含め皆それぞれに意地と都合があるのだ。

「不満だからってダンにたかるなよ」

「見くびるんじゃないよ。あんたの働き次第だよ」

「ふっ」

 念押しにメイドが強気に答え、お互いに挑むようににやける。

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