10.フラワーナイト爺さん
「ふう……」
モリブが溜息と共に厨房脇のドアから姿を現した。
まだ汚臭が気になるのか、両の鼻穴から綿らしき詰め物が覗く。髪形がポニーテールになり、尖ってない耳も見えた。
見るからに憔悴の体、パリスが俺の匂いを確かめたくなるのが理解できる程に。
「姉さん……」
心配するパリスの声にモリブはかぶりを振った。連られて髪が揺れた。
そしてパチンと音を立て手のひらサイズの何かを卓上に置いた。
「初級スキルは最初から使えるものなのよ。素質さえあればね」
不調を押して話し始めた彼女が一呼吸置く。
俺を見下ろす目つきが怖い。
「それが使えないのは戸惑いかプレッシャーのせいだと予想したんだけど、どうやらあなたは普通と違うみたいね。これからが楽しみだわ」
言い終えるや軽く咳き込んだ。その拍子に鼻の詰め物が掌に落ちたらしい。
「すまないけど、後をよろしく」
逆の手で鼻を覆ったモリブがパリスに小声でそう告げた。
そして皆へ挨拶する余裕すらなさげに、背を向け遠ざかり始めた。
「シャーマン!」
爺が呼び掛けるとモリブが足を止めた。背は向けたままだ。
「ヘボなどと言って悪かった」
彼女は爺の謝罪に右手で応えると静かに去っていった。
モリブを見送る間、沈黙が続く。
実害、俺はせいぜい汚臭が抜けない程度に思っていた。風呂に良く浸かってくれと。
それ止まりの可能性は無くはないが、あの憔悴からは例えばシャーマンとしての調香師の鼻よろしくの繊細な知覚を損ねてしまったとか、禁忌たる穢れを与えてしまった等、いわゆる取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったのではと、そんな不安に苛まれる。
彼女の力の神秘性を考えれば十分有り得る話だ。そしてその懸念が本当なら、故意でなくとも本人はおろかギルド中から恨まれるのも無理はない。
残されたパリスはモリブの登場に代役の責務を優先すべきと思ったか、はたまた爺の謝罪から深追いは野暮と感じたか、俺の懸念とは裏腹に話を次に進ませる。
パリスが卓上に置かれた物を片手で端を挟むように持ち上げ、程よい速度で手首を巡らせる。
「これが何か分る?」
「スマホ、か」
木製か。四隅は丸く、片面が黒い。まるでスマホ、外見はスマホだった。
「惜しい、スマボよ」
「スマ、ボ……」
「そう、スマボ。スキル&マジックボード」
俺は口をつぐんだ。もはや、どんなテンプレが来ても受け入れる心構えだ。
「転移者のスキルを管理する為に転移者が作った魔力で動く道具よ。その魔力を姉さんが急速注入してたって訳。姉さんに感謝しなさいよ」
彼女の口振りから察するにモリブへの尊敬の念がうかがえる。それはギルドと契約した途端、先輩風を吹かれそうな嫌な予感に繋がる。
便利アイテムの登場とは無関係な事を気にしながら彼女の次を待つ。
「レベルアップしてスキルを獲得したときにブルルって震えて教えてくれるらしいわ」
「ファンファーレは?」
俺の言葉に彼女は、ボスに流し目をくれてここぞとばかりに勝ち誇る。
「ほら、詳しいじゃない」
「そんなのは戦場で邪魔なだけだろうが。まあ俺は門外漢、俺の事は気にせんでくれ」
そう言ってボスが口をつぐむ。
何が有るかと聞かれても、思いつくのは著作権。ボスの意見はもっともだ。
しかしボスはあれか、映画の主人公が着信音でピンチになる展開を許せないタイプか。
「そこにスキルが表示されるんですか?」
俺は確認した。誰かの手間を借り、モリブの二の舞を増やすのは御免だった。
「そうね、そう聞いているわ」
パリスは再度得意げな顔をするも、凝った首を気にする素振りを見せるボスに相手にされなかった。
「でも、渡すには契約が必要よ」
「転移者獲得に必死だな。取られると思ったら惜しくなったか?」
パリスの発言にすかさず茶々を入れたボスがキッと睨まれた。
俺にとってはやっとという思いだ。その根底に有るのは頼まれる形を取りたいという見栄か、それが今後の関係性を左右するという予感か。単にこちらから切り出しそびれただけか。今は自己分析よりも話に集中しよう。
俺は他に条件は有るのか、俺に何かをさせたいのかと訊く。
返事を要約すれば、地域の平和が確認出来れば王都への身柄の送還。今は有事対応としてギルドが俺を監視して、成長を助けると共にスキルの悪用を防ぎたいらしい。
俺は転移者に居て欲しい、助けて欲しいと願いつつ、出会いたくは無いという身勝手な願望を抱いている。ギルドに関われば遭遇率は増す。優先すべき願望は天秤に掛けるまでもなく前者だ。
諦めに反して、スマボは他人を煩わせずに済みそうな点が魅力的に思えた。
モリブの状況は追って知れる筈、魔物に関しては情報が少なすぎる。どちらも最悪の事態は想定しておくべきか。仮に契約せずとも、それらしがらみからは逃れられない気がする。成り行きにせよステータスチェックを頼んだのは事実。
受けた恩については今は黙殺する。心の弱さから窮地で責任転嫁をせぬ為に。
スマボに注目する俺がパリスの視線を感じながら黙っていると、ボスの方から声が上がる。
「話を戻して悪いんだが、実際のところスキル快便ってのはその方面に詳しいのか?」
皆、スキル快便と呼ぶ。俺はその呼び方を個人的長所と捉え、他者を治す方は快便スキルと区別している。
それはともかく、この世界が抱えている便秘のスケールが大きすぎて、皆が居る所では逆に披露しにくくなった。
まず第一に、いかにして――もはや事業計画と呼ぶべき――商売を成功に導くか。
懸念もある。何らかの理由でスキルが打ち止めになったら、ぬか喜びへの謝罪対応が馬屋敷で起こり得たそれとは比べ物にならない。それこそモリブの言うプレッシャーに押し潰されそうだ。
差し当たってはスキル快便としての有体な知識でお茶を濁そう。
「一般的には運動と水分、蜂蜜、バナナ、ヨーグルトなんかが。結局は基本が大事かな」
「基本か、バナナはまずいな。いや、ここの特産で美味いんだが、便秘以来魔物がな……」
ボス曰く、魔物がバナナ畑に跋扈するらしい。転移一日目にして俺にも心当たりがある。
「ゴブリンも苦しそうでした」
ボスは俺の発言を頷くに留め、話を進める。
「蜂蜜やヨーグルトも暫く口にしてないな。爺さん、蜂蜜貯め込んでるんだろ? 熱心な信徒として」
「やむをえん、フローラ様の慈悲と思え。しかし幼子をはじめ食せぬ者もおる。過信するでないぞ」
「フローラ、フローラ、……腸内フローラ!」
「様を付けんか、馬鹿モンが!」
「……さま」
爺の返答に俺は椅子から腰を浮かせて叫ぶも、爺に怒られすごすごと座り直す。
「すまんが転移者だろうがそれなりの敬意を払ってくれ。この街は信徒だらけだからな」
「そうそう花瓶を割ったら罰金よ」
ボスが固い口調で言い含め、パリスがそれに乗ってくる。
ツボよろしく花瓶を割りまくった奴が過去に居たとでも言うのか。案外それが転移者を嫌う真相か。
それはさておき宗教絡み。花壇に踏み入る等、俺にその気が無いにせよ、何かしでかす前に聞けて良かったと叱られた事はプラスに捉えよう。
「それはそれとして何か知っているのか?」
シュンとした俺を励ますかの様にボスが訊ねてきた。
ヨーグルトは理解されたが、善玉菌も同様だろうか。そして食事処でこの話題にどこまで踏み込んで良いのやら。
「腸内にはお花畑があって。うーん、良い便を作る工場が、うーん……」
最近知ったネタとしては油で排便を促す薬や、バラムツなんてのもあった。しかしどちらも素人が扱える代物には思えない。
お腹が緩くなる成分はどうか。この世界にはスマホもどきが在った、キシリトールも知れ渡っているか。そもそもあれはハーブか樹液か。知っているのは名前だけ、何かと聞かれたら困る。それを出し惜しみと解釈されたら面倒だ。人工甘味料の人工って位ならこいつもお手上げか。
ボスが踏み込んでくる。
「キシリ……? 聞かんな。腹を下す毒草が良いのか? 手あたり次第集めるから、どれが当たりか確認してくれ」
「ちょっと待って」
どうやら俺の断片的な呟きを聞かれたらしい。
「お前しか知らないんだ。しょうがないだろう」
ギルド内までもが怪しい雰囲気を帯びる。周囲を見回せば、儲け話かと奮い立った男達の視線がいつのまにか俺に釘付けだ。皆やる気に満ちている。
俺にとっては迷惑な殺気だ。いくら俺の腸が太くても死んでしまう。あーもー仲間にガムの自販機さえ居れば。
「見つけたらギルドの物ですからね」
「まだタイヨウと契約した訳ではあるまい」
「うー」
パリスとボスが言い合っている。しかしこっちはそれどころでは無い。
他に役立つネタは無いか。キシリトールなどと半端な知識のまま余計な事を口走ったばかりに。
アニメの主役になる。ゴリラが投げつける。うんちとの違いが騒動になる。俺の知識はどうにも無駄が多い。
それなら姉はどうだ、最近は快便CDを聴いていた。しかしそれも姉の前には力及ばず。
「……効果には個人差があります」
「どうした、疲労の限界か?」
「いや、その、姉を思い出して」
ボスの気遣いには申し訳ないが誤魔化しの嘘を付く。
異世界に来たからには一度はメタ発言の爪痕を残したかったのだ。そしてさっきのが絶好の機会に思えた。
「姉、家族か」
「生き別れの姉ね、こっちに来てるの?」
ボスの同情するような呟きに次いでパリスが聞いてきた。あてずっぽうだろうが、あながち的外れではない。
「いや、姉は多分そのままだ。こっちには来ていない」
「良かった。……いいえこっちの話。御免なさいね、探しに行くって言われたら困るから。そういう話あるんでしょ?」
パリスはさすがに口が過ぎたと思ったのか落ち込んだり謝罪、弁明、確認と大わらわだ。
俺はその有様にやはり予定外の面接だと、予想を確信に変え幾分気が晴れた思いがした。
「有るね。まあ、俺だけで良かったと思うよ、本当に。だから気にしないで」
俺は本心からそう告げた。
「ありがとう。それでどう? このギルドに登録してくれるかな」
「ああ、よろしく」
俺は待たせず返事をした。
目指すは新スキル獲得。モリブと魔物の件を考えればギルドの助けは必要とも結論付けた。
ギルドホールが”うおおお”と歓声に沸いた、俺の前途を祝福するように。
俺はめずらしく照れ顔を惜しげも無く披露する。彼等との繋がりに儲け話の欲目があろうとも、あるいは純粋な気持ちか、いずれにせよ歓迎されるのは嬉しいものだ。
「よし、話がまとまった所で飯にしよう。お前は爺さんを見送りがてら、衝立の向こうで着替えてこい」
ボスが玄関の方を指差して言った。
衝立は平らで無地。暗色で掲示板としておあつらえ向きだが、そう使われた形跡は無かった。
その向こうには簡素なロッカーと言うべき物置が並び、そこに着替えがぽつんと入っていた。
今日はボス達の貸し切りか、レジカウンターが壁際に追いやられていた。
俺は別れの挨拶として爺に頭を下げ、着替えに向かう。上下一着用意されていた。着替えを警戒するのは散々隙を見せた後では今更だろう。
爺は帰らない。子連れの女性が数組、玄関から入っては爺に頭を下げて室内に向かう。生返事を返す爺が俺を見ている。
俺は”作業着か?”と指差す。
「いらん! ダンにでも渡しておけ」
「いや、ありがとう。使わせて貰うよ」
「はっきりさせてくれ、あれはヒールでは無いんじゃな? 金は払ったんじゃ、教えてくれ。あの汚れに触れた者の便秘までもが治った」
言うまでもなく馬小屋の件だ。
「爺さんも?」
「思い出させるな、メイドの事じゃ。あれはどう見てもクソじゃ、汚らわしい」
もっともな返答。我が意を得たりと頷いた。今の俺は我ながら憎らしい程に良い顔をしているに違いない。
俺は爺に背を向け新しい上着を着る。造りは脱いだ作業着よりも用途を踏まえてみてもヤワで粗末に思えた。客観的事実であり文句とは違う。着替えも食事も感謝している。
なおも続く通り過ぎる人々の気配と挨拶。不意に爺が返事を途切れさせた。
変化が気になり振り向けば、爺は真正面にこちらを見据えていた。そして口を開く。
「小僧の姉はフローラ様に関係が有るのか?」
その改まった態度に、感謝の言葉でも聞けるのかと思いきや、全くの別物だった。どうやら俺への好感度はまだ低いらしい。所詮助けたのは賭け絡み、当然ではある。
残念ながら姉はフローラでも、なずな、花子とも違う。
思い返せば、爺の思い込みには毎度驚かされたり困らされてきた。
真剣な爺に対するふざけた連想に自嘲気味になる。
「なんじゃ、胸糞の悪いガキめ。もういい、話にならん」
爺はその態度を侮辱と捉えたか「短足め!」と捨て台詞を残して去っていった。
ズボンを替え、スマボをパジャマの胸ポケットに納め、元の卓へと向かう。スマボはひと眠りしてから、誰も居ないところで調べるつもりだ。
室内の人数は五十人前後。俺を気にする者が居れば、料理に気を取られている者も居る。
ヘイ、ミラー、赤ちゃんパンダの名前? 鏡に水晶球、魔術は科学。彼らには記録・配信の習慣は根付いて無いらしく、わたしを映さないでと憤らずに済んだ。
席決めの微調整と配膳に人が往来する。爺に挨拶する参加者を根拠に、俺と白馬の為の宴と考えて差し支えないだろう。
やや暗がりとなった場所に気が付いた、一部子連れの卓から燭台が除かれたのだろう。
俺が元の卓まであと少しの所で、ボスが周囲に声を張り上げる。
「今日は馬屋敷の爺さんの奢りだ。とは言えこの人数、まあ程々に楽しもう。便秘に障らん程度にな」
”爺さん”、”快便”と室内が俄かにざわつく、それが”皿が足りん”という厨房の声に気圧される。ボスは苦笑しつつ、まずは――ぼちぼち――乾杯だと皆に告げた。
俺はさっきの歓声は奢りを喜んだだけなのではと訝しむ。ボスが見せた女神に関する爺への配慮も、この約束を反故にされない為ではなかろうか。
あらかたの手配が済んだ様で、不足を申告する声に応じて補いの皿がバケツリレーの要領で運ばれる。
そんな中、知らぬ間に俺の近くに居たダンが声を上げた。
「先生は肉は食べないんだ」
「あ、ああ」
「聞いたことがあるわ、聖職者にはそういう人も居るって」
俺の曖昧な返事に、またもパリスが乗っかってくる。
「慈悲か? それとも禁欲か。じゃあこっちもダメって訳か?」
ボスが小指を立てる。リア充 アベックに劣らない古典的表現だ。
「きっとそうだ。清い心がピッピに好かれたんだべ」
ダンが合の手を入れた。
「そりゃあいい、俺達も明日から見習うぞ」
ボスが屈強な仲間に呼び掛けながら両手でシャンシャンと手綱捌きを真似て見せる。
「ボス、勘弁してくだせえ」
誰かの泣き事が皆を笑わせる。
ダンは自分の発言を受け入れられて満更でもない様子だったが、ボスの馬への執着に気付くや遠くの卓へと退いた。
「ホーリーか、モリブが一目置いてたな。魔物を倒すだけじゃ駄目ってことか。……いや違うな。資格が有るから覚えるのか、どうだ?」
ボスなりにスキル習得の条件が引っ掛かったらしく、俺に意見を求めてくる。
それについては思い出したくもない。つまり鼻から考えてもいない。
俺のダンマリを神妙な思案顔と捉えたのか、ボスが立ち上がり周囲に声を放つ。
「おう、皆よく聞け。聖職者の修行の邪魔はご法度だ。なんせホーリーを覚えるらしいからな」
”ホーリーホーリー”と大合唱。興奮冷めやらぬ内にボスが続ける。
「修業は、いいかー、禁欲だ。肉、酒、賭博に女、考えただけで恐ろしい。いいか、悪い遊びに巻き込むなよ。ここに居ない奴にも良く言っておけ。よし、乾杯」
皆が杯を傾け、食事とお代わりに各々がばらける中、ボスが訊ねてきた。
「ところでホーリーって何だ?」
「さぁ」
「修業、頑張れよ」と背を叩かれる。
俺のつっけんどんな”さぁ”はパリスの時とは違い見逃された事に、言ってから気がついた。
一度は離れたボスが神妙な顔つきで戻ってきて、俺の視線の先のダンを見る。
「一応、男と動物も釘刺しとくか?」
「知らん、好きにしてくれ」
皆が夢中になって料理を口に運ぶ。その楽し気な喧騒とは裏腹に俺の心は醒めていく。
俺は嘘の多い男、それも全て今を生き抜く為のこと。その嘘がこの境遇を招いたのか。
はたや戦いの日々への大いなる誘いか。大いなる決断を下した俺へのスパルタさながらの第一の試練……肉の盗み食いだ。