遠慮がちにごめんください
おじさんに手を引かれて歩く大通り。今日は結構歩いたが疲れちゃいないか、と気遣ってくれるのも、ゆっくり歩いてくれるのも、繋いだ手が暖かいのも、何もかもが嬉しい。少し時間があるからと、おじさんと入った先は本屋さん。
ずらりと並んだ本棚に面陳になって置いてある本は、ドラマ化したらしいベストセラー。そういえば最近は本なんて全く読んでいない。何か面白そうな本はないかと適当に文庫本コーナーをうろついていれば、おじさんが横から聞いてくる。
「嬢ちゃんはどんな本が好きなんだ」
本、本……。よく読んでいたもののジャンルを思い出すけど、統一感はあまりない。
「うーん。どんな本と聞かれると困っちゃいますけど、有名な物しか読んでいないかも知れません。好きなのは児童文学でしょうか。芥川とか、ショートショートの神様とか……。海外の作品も有名なのは読みましたが、なんというか、ロシア文学だけはどうにも苦手です」
読書はあまりしないから、最近の本の話にはついていけない。なので思いつく限りの回答をすれば、おじさんは顎に手を当てて真剣に聞いている。
「じゃあ、長編小説が苦手なのか?」
「そうですね。小説でも漫画でも、長かったり、あんまりにも登場人物が多いと困っちゃいます。面白いと感じた作品だったり、読める物は普通に読めるんですけどね。そうやって考えるとロシア文学は私からしたら冗長だったかな……なんて、有名な作品しか読んでいないのに、ちょっと偉そうな事言っちゃいましたね」
おじさんの部屋には本がいっぱいあった。きっと読書好きだろうから、深い話になったら困ってしまう。本当はそこまで本を読んでいる訳じゃないんですよ、と付け足して、平積みになっている本を適当選んで手に取る。
「おじさんは、何か本を探しているんですか」
隣で私と同じように本を物色しているおじさんに聞いてみれば、おじさんはいんやと首を振る。
「用事はもう済んだが、嬢ちゃんの好みがなんとなく気になって、な」
「私はそこまで読書家じゃないので、まだ自分の好みは良くわかりません。あ、でも、好みの登場人物が一人でも居ればそれだけで充分だったりします」
それは窮地を救ってくれるヒーローだったり、
頼れる上司だったり、
茶目っ気のある三枚目だったり、
ミステリアスな女性だったり――
そんな好みの話をすれば、おじさんは嬢ちゃんはやっぱり女の子なんだな、なんて笑う。
「戦前の、終始薄暗い、じめじめとした話は好きです。でもやっぱり底抜けに明るい話も好きなんですよ。おじさんはどんなお話が好きですか?」
「俺か……そうだな。マイナスから始まって、最後にゼロになる話が好きなんだ。まだプラスじゃないが、そんでもなんとかやっていけそうだ、って。そんな終わり方だとそれからを想像するのが楽しくてな」
そう言って笑うおじさんを横目で見れば、その表情はとても楽しげで、瞳はきらきらと輝いていて、好きな事を語る笑顔はまるで少年のようなのに、話す内容は少年の夢とは程遠い。
「一筋の光明――ですか」
「ああ、嬢ちゃんと少し似てるかもな。苦くてリアル話も好きだが、やっぱり甘くてロマンチックな話も好きなんだ。だからいつも、最後に救いを求めちまう」
似合わないだろう、と。おじさんは笑って、そして私は首を横に振る。
「いいえ。優しい、おじさんらしい好みだと思います」
それに、私とおじさんが似ている、なんて、そんな事言われたら似合わないなんて言えないもの。
手にしていた本を棚に戻しておじさんを見つめれば、私の視線に気付いたおじさんは照れたように頭を掻いた。
「そろそろ時間かもな。行くか」
差し出された手を握って、狭い通路をおじさんの後ろに付いて歩く。自然と目に入るおじさんの背中は男らしくがっしりしていたものだから、このまま背中を見ながら後ろを歩くのもいいかも知れない、なんて考えてしまうのだった。
酒は飲めるよな――そう確認されたのは、これからお酒を飲むお店に行くから。
駅前には居酒屋さんがいっぱいあるけれど、おじさんが向かう方向はそんなお店が集まる方ではなく、どちらかと言うと家の方。
どうにも落ち着かなくて視線はきょろきょろと忙しなく動いてしまい、そうすると私の様子から何かを察したおじさんが行き先を教えてくれる。
これから行くのは洋食屋さんで、雰囲気も良く個室席もあるからと予約を取ってくれたらしい。
少し待っていてくれと言われ、おじさんより遅れてお店に入ればブラウンを基調とした落ち着いた店内にカウンター席とテーブル席が並んでいた。
奥の個室へ案内してもらえばおじさんが好きなものを飲んでいいぞと言ってくれる。
「コースメニューだから食事の心配はしなくていい。嬢ちゃん、酒は何がいい」
メニューを手渡されて、左上から読んでいくけれど、そこには見た事も聞いた事もないワインの名前がびっしり。
どれにしようかと悩んだ挙句に選んだのはワインではなくイタリアンアイスティー。アマレットと烏龍茶のロングカクテルはさっぱりとした甘さがあり食事に合う、とどこかで聞いた事があった。
軽く注文を済ませれば、すぐにドリンク、前菜が運ばれてきて軽くグラスを持ち上げ乾杯をする。一口お酒を飲めば杏仁独特の香りがふわりと広がって心地良い。
「そういえば、おじさんは何を飲んでいるんですか?」
ふと、おじさんが飲んでいるカクテルが気になって聞いてみれば、白ワインとカシスリキュールのカクテルだと教えてくれる。名前はキールというらしい。
「――でもまあ、本当はおじさんワイン苦手なんだ。ワインは昔から、どうも悪酔いしちまってな」
提供されたステーキを切り分けながら、小洒落た店を選んだはいいが忘れてた、とおじさんが苦笑する。
「なら私が飲んじゃいますよ?」
するりと口から出た言葉に驚いたのはおじさんではなく私。無意識の内に、なんてはしたない事を……。
それでも、行儀の悪い女だと思われてしまうかも知れないと焦っていたのはほんの一瞬。おじさんが、いいのか、とグラスを渡してきたものだから今度は別の意味で焦ってしまう。
「じゃあお言葉に甘えて、嬢ちゃんに飲んでもらおうかな?」
「は、はい。いただきます……」
もう間接キスぐらいで恥ずかしがる年齢ではないのに、おじさんに見られているのではと思うと恥ずかしくて、くっと一気に飲み干せばワインの香りが鼻を突き抜けた。
「ごちそうさまでした」
こんなもんじゃ酔ったりなんかしないはずだったのに、なぜだか体がふわふわして、顔が熱くて仕方が無い。
美味かったかと聞かれて頷けばおじさんは笑みを浮かべる。
「そろそろ水挟んでおくか」
そう言われておじさんは自分が飲むビールとお冷を頼んでくれて、そっと私の額を触る。
「あまり調子が良くないみたいだが、平気か」
なんて、私の心の内の事、私が思っている事を知らない癖に、もっとどきどきしてしまうような事をしてくるんだもの。困ってしまう。
「お酒久しぶりで、おじさんとお話するのが楽しいから、なんだか気持ち良くなっちゃいました」
気を遣わせないように笑って、やんわりと、おじさんの手を突き返す。お冷を受け取り飲み終えれば、そっと私の隣へ移動してくるおじさん。やがて大きなどきどきがやってきて、私の表情を、思考を、どろどろに溶かしていく――
カウンターでも無いのに並んで食べる食事というものはどうにも落ち着かないもので、おじさんとくっ付いていたいのに、恥ずかしい。食事もデザートも食べた気がしないし、お酒の味もわからない。でも、恥ずかしいと伝えたらおじさんは元の場所へ戻ってしまう。
じゃあどうすれば?
いっそ開き直って……?
強行策でも……?
それなら――
「おじさん、お酒、もう一杯飲んでもいいですか?」
ぴたり、おじさんにくっ付いて強請ってみれば、平気かなんて心配する声。
おじさんにどきどきさせられてばかりという事にいい加減苛立ちにも似た何かを感じ始めていた私は、逆におじさんをどきどきさせてやろうと思い立つ。
私の気も知らないで!
なんて身勝手な事を考えてしまうのはお酒とおじさんの所為。
そう、これは正しく強行策。
「大丈夫ですよ。私、そこまでお酒弱くありませんから」
子ども扱いしないで下さい、と唇を尖らせればおじさんは諦めたように笑って頭を撫でてくれる。
「わかった。嬢ちゃんが酔ったら面倒みてやるよ」
言った傍からこれだもの、全く嫌になっちゃう、なんてきゅっと抱き付いて心音を聞いてみれば、その音が思いの外大きいものだから私は嬉しくて仕方がない。
おじさん、好きですよ、大好き。まだ口には出せないけれど、おじさんに気付いてもらえたらどんなにいいか。
「おじさん、ありがとう」
そう言った私はどんな顔をしていただろう。無邪気な子どもか恋する女、はたまた娼婦のような顔――しかしどれにしてもおじさんの反応は上々で、落ち着かないとでも言うように眼が泳いで、お酒を飲むペースも少し速い。
ああ、こんな事が愉快だなんて、全く私はなんて嫌な女なんだろう。
楽しくて、笑いを堪えられない。
「嬢ちゃん、楽しそうだな。いい笑顔だ」
ふっと笑ったおじさんが、するりと私の頭を撫でる。
おじさんの心音は相変わらずうるさいけれど、表情は至って穏やかで、にこにこと私を見つめていた。途端、私の熱も一気に冷めて意地の悪い考えも、どきどきも、どこかへ飛んでいってしまったみたいに、心は穏やかになる。
おじさんには敵わない、そう思った私は今、とても安心していた。
「お酒、会社の宴会とか、上司と、とか。そういう付き合いでしか飲んだ事なかったんですよ。彼氏と、なんていうのは勿論無くて、友達とすら飲んだ事ありませんでした。だから今日、おじさんと一緒にお酒を飲めた事が楽しいんです」
「そうか。俺も嬢ちゃんと酒が飲めて嬉しいよ」
おじさんはいつだって私を受け入れてくれる。言葉が嬉しくて、ふにゃりと蕩けてしまいそう。
そのまま身を預ければおじさんは困ったように私の体を抱きとめる。
「こんなに甘えて……子ども扱いは嫌なんじゃなかったのか?」
「今は子ども扱いで構いません」
「調子が良いな」
気持ちが良い、このままずっと居られたらどんなに幸せだろうか――
「おじさん」
一言呟いて、そうするとおじさんは私の頭を撫でながら、ん? なんて聞き返してくれる。
「おじさんの家、行きたいです」
直後、おじさんの体はぴくりと動く。数秒、時が止まって体は引き剥がされた。
「おじさん……?」
「嬢ちゃん、俺が言える事じゃないが、少し軽率だな」
今自分が言っている事の意味も、おじさんが言っている事の意味も、十二分に理解している。
私とおじさんは恋人同士じゃない。私はおじさんの名前も、職も、年齢も知らない。そんな相手の家に酔った状態でというのは軽率――そんな事言われるまでもなく知っている。
それでも私がそうしたいのはおじさんなら構わないから、それでもいいと思ったからなのだけれど――
「ごめんなさい……」
叱られたような気がして謝ってしまった。おじさんはいつだって私を受け入れてくれたけど、こればかりは仕方がない、と諦める他ない。それに、尻軽女だと思われるのは嫌だもの。
「少しお酒飲みすぎちゃったみたいです。おじさん、今のは気にしないで下さいね」
ほんと、やだなあもう――なんて冗談にしておじさんから目を逸らし不満も何もかも、お冷で内に流し込む。
本当、急に冷静になってしまうんだもの。困ってしまう。恥ずかしすぎて、逃げてしまいたい。
「そろそろ、帰りましょうか。おじさんも、山葵が待ってますよ――」
少し無理をしていたであろう私を、おじさんがどんな目で見ていたのか知らない、わからない。けれど、次の瞬間には後ろから抱きしめられていた。
「ごめんな。今のままじゃ無理なんだ。だから、いつもと同じ二時だ。それまでに酔いは醒めるから、そうしたら、嬢ちゃんを迎えに行く」
余裕の無い、焦れた様子のおじさんはそう言って私から離れ、また、私と同じようにぐっと水を飲み干した。
その後は、私もおじさんも、二人共落ち着かないと言った様子のまま、会計を済ませ、家路に着く。まだ少しお酒が残る体はふわふわとして、外の肌寒さが心地いい。
「じゃあ、嬢ちゃん。また後でな」
「はい。おじさん、また一緒に、お出掛け、してくれます、か」
ぎこちない、会ったばかりの頃のような聞き方だったと思う。
ちらりと見上げたおじさんの顔はさっきと一転、からりとした、笑顔。
「当たり前だ。嬢ちゃんのお誘いなら大歓迎だよ」
おじさんはそう言って、私の頭を撫でてから、ひらひらと手を振って去って行った。
ああ、なんて幸せな時間だったんだろう。自販機の前より、ずっとずっと、楽しかったんだもの――
午前二時、迎えに来たおじさんは全くいつも通りのおじさんだったけれど、やっぱりどこかそわそわとしていた。
「嬢ちゃん、泊まりで平気なのか親御さんとか……」
どうやらおじさんは私が親に叱られるのではないか、という事を気にしていたようで、
「大丈夫ですよ。学生なら兎も角、私はもう大人ですから」
ね、とおじさんの手を握り、私の家から僅か数十メートルの所にある、おじさんの家に向かう。
自分の意思でおじさんの家に行くのは初めてで、それもお泊りだなんて、やっぱり私も落ち着かない。
何か起こるのではないか、どぎまぎしながら手を引かれ、あっという間におじさんの家。今更怖気づいた訳じゃない。だってこれは自分で望んだ事、それにおじさんに限ってそんな事がある訳ない。
でも、どうしても緊張してしまう。
「お、おじゃまします」
跨いだ敷居の向こうから、聞こえてくるのは猫の声。甘えた声は私の緊張を解すには充分すぎるものだった――