大好きをいただきます
勇気を出して履いたスカートに、久しぶりに袖を通したブラウス、羽織ったのはベージュのポンチョコートで足元にはリボンの付いたブラウンのブーティ――
「おじさん、こんにちは」
待ち合わせ場所の駅前にいたおじさんは、トレンチコートに革靴と、渋めの格好はまるで映画俳優で、そんな見た目にもどきどきしてしまう。緊張を隠すように声を掛ければおじさんはにっこり微笑んで挨拶してくれる。
「嬢ちゃん、今日はまた一段と可愛いな。どこのお嬢様かと思ったよ」
可愛い――その一言で努力が報われる。真っ赤になった顔を見せないように俯けば、なんだ照れているのかと笑われる。
「おじさんも……格好良いですよ」
ちらりと見上げたおじさんの顔には、ほんの少しの動揺の色。目が合えばおじさんはひとつ咳払いをして
「それはそれは、お誉めに与りまして光栄です」
と一言。なんだか上手くあしらわれた気がして悔しくなって
「そんなに畏まらなくてよくってよ」
なんて返して手を握る。するとおじさんはにっかり笑ってこう言うのだ。
「そりゃあ失礼致しました、お嬢様」
折角勇気を出して手を握ったのに、この反応はあんまりだ。なんだか子ども扱いされているような気がして腹立たしくもあるけれど、それでもこの感覚が心地良い。
おじさんとお日様の下で会うのは初めてだから、暖かい日差しもそんな気分にさせてくれているんだと思った。お日様の下――
「あっ……!」
握った手をぱっと離す。
いつもは周りに人なんていなかったから何の気なしに手を繋いでみたけれど、今日は違う。深夜の住宅街でもなければおじさんの家でもないのだ。
休日の駅前というものは人が多く、加えて今日は近所の商店街の縁日な訳で、ミケさんと待ち合わせした場所よりは少ないけれど、それでも周りは人で溢れている。
「どうした」
おじさんにそう聞かれて思い出すのはミケさんからのアドバイス。
いっそ開き直って――
「勢いで手を繋いだのは良かったんですけど、その、周りの目があった事を思い出して、恥ずかしくて」
こんな事を言えばまた子ども扱いされてしまうのではないか、一瞬だけ考えたけれど、嫌だから手を離しただなんて思われてしまってはたまったものではない。
からかわれてしまうだろうかとおじさんの様子を伺えば
「そうか。……それなら仕方ないな」
なんて、柔和な笑み。行くかと言われて並んで歩く。最初の目的地は商店街にある食堂で、縁日の屋台が見えれば心が躍る。
「商店街、久しぶりに来ました」
そう言って隣のおじさんを見上げる。
おじさんも商店街は久々だったようで、そうだな、とキョロキョロしていた。
お菓子屋さんにアンテナショップにお茶屋さん、真っ直ぐ歩けば左にはお寺……行きたい所はいっぱいあるけれど、まずは食事が優先。
人気の食堂だから少し混む事を見越して早めに待ち合わせ時間を決めていたのだもの。寄り道は後でも充分。
「お、席空いてるみたいだぞ」
お店に入れば店内は空いているという訳でもなく、地元の人達でごった返していた。やっぱり早めに来て正解だったみたい。
空いていたカウンターに並んで座って、壁のメニューと睨めっこ。鯖の味噌煮かアジフライ、どちらにしようかと悩んでいれば、それ以上に悩んでいたのはおじさんで、
「嬢ちゃん、刺身と鯖の塩焼き、それとエビフライならどれがいい」
なんて聞いてくるものだから笑ってしまう。
そういえば以前、優柔不断だから選べないと言っていたけど、本当だったみたいだ。
「どれも好きだから迷っちゃいますね。でも私ならお刺身かなー」
そう伝えればおじさんも、じゃあそれで、と店員さんを呼ぶ。
結局注文したのは、私が鯖の味噌煮定食でおじさんが刺身定食。料理を待っている間は、いつも通り、なんて事ないお話をした。
「そう言えば、本当にここでよかったのか」
ご飯を食べながらなんの事かと首を傾げれば、気になってたんだ、とおじさん。
「最初に行きたい場所を聞いて、それからずっと……。嬢ちゃんはそれでいいって言ったが、本当はもっと行きたい所があったんじゃないか、って」
心なしか元気がないように見えて、そんな事ないですよ、と首を振る。
「私、デートとか、あまりきらきらした場所とか知らなくて、だから今は地元で充分なんですよ。だって今まで一人で行ってた所に誰かと一緒に行くなんて新鮮じゃないですか。それに私、結構長い事引きこもってたので、変わった街を色々見たかったんです。でも、一人じゃ取り残された感じがして寂しくなっちゃうって思ったから、だからおじさんと一緒に歩きたくて……それで、ええと、私おじさんとだったら平気だから、その――」
付き合ってもらえませんか? 俯きがちに口に出した言葉は、全く意図していない意味も含んでいて、慌てて否定しようとすれば咽返るおじさん。
「あっ、その……! ごめんなさい! 私に付き合ってもらえないかな、って、そういう意味だったんですけど、あああ、大丈夫ですか」
背中を擦ってあげたら少し落ち着いたみたいですまんすまんと謝られる。
「や、本当にすまんな。あんまりびっくりしたものだから……」
「ごめんなさい。よく考えないで喋っちゃいました」
「あまり驚かせないでくれよ。嬢ちゃんにそんな事言われたら、おじさん本気にしちゃうぞ」
「……本気に――」
本気にしてもいいですよ、言いかけた言葉は、食器の割れる音に掻き消される。
失礼しましたの声と慌しく食器を片付ける音。流石にこれ以上は何も言えずに、なんでもないです、なんて、笑う他なかった。
結局想いは伝えられず、いまいち気分が乗らないまま商店街を歩く。今日は全部俺が持つよ、とご馳走になって、お礼を言ったのはいいけれど、さっきからおじさんもそわそわしている気がして、どうやって話をすればいいのかもわからない。
縁日の賑わいの中、私達だけが浮かない顔をしていて、それはまるでここだけ雲が掛かっているようで……沈黙が、痛い――
「嬢ちゃん、悪いな。おじさん少し、緊張してるみたいだ」
ぽつり、おじさんが呟いた声は少しだけ震えてて、おじさんらしくない。
あの日ミケさんが言っていた、流れに任せる、というのもきっとここらが限界だ。このまま全ておじさんに任せていても多分、私は変われない。だから……今日は自分の気持ちに向き合うと、そう決めたから、動くなら今しかない。
「あの……」
きゅっと摘まんだのはおじさんのコートの袖。
本当は手を握ったり、腕に絡み付いてみたり、ミケさんのような笑顔で手を繋ぎましょう、なんて言いたかったけど、やっぱり上手に出来そうにもなかった。
顔色を伺うようにおじさんを見れば、おじさんは気持ちを察してくれたように私の手を握る。空気が変わった、とそう思った。
「さて、嬢ちゃんは次はどこに行きたい」
からりとした笑顔のおじさんに、じゃあ少しだけ寄り道しましょうと言ってみれば、それなら行くかと手を引いてくれる。
私達は、商店街を抜けて、駅に付くまで、ふらふらと寄り道をした。
お寺でお参りをして、ちりめん細工のお店を見て、昔家族で良く行った場所、一人でよく行った場所をおじさんと周って……気が付けば丁度小腹が空く、おやつの時間。
「さて嬢ちゃん、次はケーキだったか?」
おじさんの言葉に頷いて、手を引いて歩き出す。
もう羞恥心なんてどこにも無かった。手を繋ごうが、腕を組もうが、今ならなんでも出来る気がして、また一歩前に進めたと、そう思った。
ケーキ屋は商店街とは正反対の方向、スナック街、その他ちょっと如何わしいお店が集まった通りを抜けた先の住宅地にある。
一人では平気な顔して通れるけれど、おじさんと一緒だとなんだか恥ずかしくて歩きづらい。決してかまととぶっている訳ではなく、単に気まずいのが嫌なだけ。
でも遠回りするのも不自然だし……あれこれ考えていればおじさんがそのまま手を引いて大通りの方へ、遠回りする方向へ導いてくれる。
「あれ、おじさんお店の場所わかるんですか?」
「一度だけ、行った事がある。そん時は仕事の打ち合わせだったんだが、周りが女性ばかりでな。気まずかったよ」
そう言っておじさんが笑えば、ああ、確かに、なんて私まで笑ってしまう。
高級住宅地にあるケーキ屋さんは外観も内装も可愛らしい。気取ったお店ではないのだけれど、なぜかお洒落なお客さんが多くて少しだけ入りにくかったりするのだ。私ですらそうなのだから、おじさんは特にそうなんだろうと思う。大通りから道をずれて、少し歩けば次なる目的地のケーキ屋さん。
レンガ調の外観とお洒落な木の扉に植木の緑が映える。
中に入ればショーケースにずらりと並んだケーキ、ケーキ、ケーキ。種類は色々あるけれど、お目当ては一番人気のいちごのショート。おじさんは、と聞けば俺も同じもので、と一言。
ケーキを選んで席へと向かえば周りにはぽつりぽつりとカップルの姿。
楽しそうに会話する姿を見ると、まるで私までおじさんと恋人同士になったみたいでこそばゆい。そわそわしながら飲み物を注文すれば、おじさんが目を丸くする。
「嬢ちゃん、今日はココアじゃないんだな」
「ケーキは甘いので紅茶の方がいいかな、って。おじさんはやっぱりコーヒーなんですね」
缶コーヒーではなく、洒落たカップでコーヒーを飲む姿を想像してくすりと笑う。
「おいおい嬢ちゃん、何が可笑しいんだ」
「缶コーヒーを飲んでいる姿しか見た事がないので、お洒落なカップでコーヒーを飲むのは似合わないなー、って」
そう伝えれば、おじさんは残念だよ、と肩を竦める。
「嬢ちゃんは知らんだろうけど、おじさん、そういうのも似合うんだぞー?」
大げさな仕草が可笑しくて、ついつい笑いが止まらない。
そうこうしている内にケーキと飲み物が来て、おじさんはどうだろうかとでも聞くように、したり顔でコーヒーを飲み始める。似合うか似合わないかで言えば、似合わない――けれど、目が離せなかった。おじさんの、ごつごつとした男性の手が、可愛らしいカップを口元に運ぶ。申し訳程度に整えられた髭と、少しかさついた唇は、妙な色気を放っている。
「正直、似合わないです」
「そうかー、嬢ちゃんも正直だなあ」
でも――
「でも、格好良いですよ」
そう言って笑えば、おじさんはそれなら良かった、とケーキを食べ始めた。
私も続いて一口食べれば、口に広がるのはいちごの酸味とクリームの甘み。ふわりと咥内で溶ける生クリームに身も心も溶かされてしまいそうで顔が緩む。決して甘すぎず、いくらでも食べられそうなケーキの味は、私が最後に来た時から変わっていないみたいで安心するのだった。
「やっぱりこの味です。幸せ……」
独り言のように出た言葉に、おじさんはくつくつと笑う。
「嬢ちゃん、本当に幸せそうな顔をしてるな。やっぱり甘い物には勝てないか」
大好きなケーキとおじさんと、大好きを二つも目の前にすれば幸せな気分になるのは当たり前。幸せですよと頷いて、おじさんはどうでしょう、と聞いてみる。
「ああ、幸せだよ。こんなに喜んでもらえるならもう少し早く連れ出しても良かったな」
未熟者の私には、その答えから脈有り脈無しを判断する事は出来ないけれど、今の私にとっては充分過ぎる返事だった。
それから山葵の様子を聞けば、すっかり親バカになってしまったおじさんは話したい事がいっぱいあったらしく、山葵の食事の時の様子だとか、最近はティッシュにいたずらするのがお気に入りなんだとか、寝る時は一緒に寝ているだとか、日々の話をしてくれた。
山葵はやんちゃで甘えん坊だからいつもちょっかい出されて大変だよ、なんて、嬉しそうに話すおじさんはとても可愛くて、山葵に会いたくなると同時に、ちょっとだけヤキモチを焼いてしまう。私も上手に甘えられれば、私もおじさんともっと一緒に居られれば、そう思うとキリがなく、欲張りな自分に嫌気が差してくる。
そんな事を考えていればもう夕方、特に時間を決めてはいなかったけれど行きたかった所は全て行ったのでもうお別れの時間。ちょっとだけ寂しい気持ちになってしまう。
「おじさん、ご馳走様でした」
「いや、いいんだよ。嬢ちゃんが幸せそうでおじさんは何よりだ」
午後四時半、西日が眩しいこの時間、お店の外で頭を下げる。どうせ夜中にまた会えるんだろうけど、それでもまだまだ一緒に居たいのでほんの少しだけ悪足掻き。おじさんの手をきゅっと握って、人の少ない場所まで移動する。
「お、おい。嬢ちゃん……?」
「おじさん」
真っ直ぐ見据えれば、戸惑っていたおじさんは諦めたように口を閉じる。
「おじさん、私まだおじさんと一緒に居たいです――」
――駄目ですか。震える声を誤魔化すように小さく息を吐いてから、控えめに、出来るだけ可愛らしく聞いてみると、おじさんは私の頭に手を乗せる。
「そんなの、駄目なんて言えるかよ」
そのままそっと髪を梳かれて、私の心臓はどきりと跳ねる。
「あの――」
「嬢ちゃん……実は俺が、嬢ちゃんを夜まで連れ回す気でいたと言ったら、怒るか?」
熱っぽい眼差しにくらりとする。
これはもしかするともしかするかも知れない。
そんな私の返事は勿論決まっていて、首を横に振り、最高の笑顔で答えるのだ。
「怒るなんてとんでもない。願ったり叶ったり、ですよ」
エスコートよろしくお願いしますね、なんてふざけて笑えば、おじさんはぱっと私の手を離す。そうしてそのまま傅いて、仰々しくこう言った。
「お嬢様の仰せのままに――」