恋心にこんにちは
アルバイトを始めてから少し経って、私もミケさんもすっかり仕事に慣れ、気付けば金曜日や土曜日も、ミケさんと二人でホールを回す事も多くなっていた。
彼女はマイペースそのものだけど、仕事はしっかりとこなせる優秀な女の子、それでいて物事をはっきりと言う子だった。しかし不思議と嫌な気はせず、そして私も彼女には気を遣う事がないので気付けばよく話をするようになっていた。
そんな彼女との帰り道、唐突に聞かれたのは彼氏の有無――
「小鹿さん、彼氏いますかー」
「か、彼氏……!? いませんけど、急にどうしたんですか?」
「なーんだ、勘違いしちゃいましたよー。なんか殿方の匂いがすると思ったんですけどねー」
すんすんと匂いを嗅ぐ真似をするミケさんはどこか山葵に似ていて、思わず笑ってしまった。なんで笑うんですかー、と不思議そうなミケさんに、友達の家の猫にそっくりだったので、と素直に伝えれば、不本意ですけどよく猫っぽいって言われます、と一言。
「ああ、でも仲のいい異性はいますよ。彼氏でもなんでもないですけどね」
もしかしておじさんのタバコの匂いが移っちゃったのかな、と思いコートの匂いを嗅ぐけれど、自分ではいまいちよくわからない。
「ああ、じゃあその人の匂いかも知れませんー。小鹿さんの父親にしては匂いが若いしー」
「え……?」
くるくると指で髪を弄りながらそう言った彼女は一体何の匂いで当てているのかさっぱりわからない。
「ミケさん、凄いですね。どうしてわかるんですか?」
「勘ですよー。私そういうの結構当たるんですからー」
にししと笑った彼女には、そうなんですか、と返すしかなくそのまま会話が途切れてしまった。
ミケさんには、謎が多い。
彼女の年齢は、凛子さんも、芋丸さんも、社員であるジョンさんすら知らない。前に一度ジョンさんが店長に聞いた事があるみたいだけど、それでも曖昧にして教えてくれなかったというのだ。
それならそれで何か事情があるのだろうと思って、私もそれ以上は首を突っ込まずにいるけれど、それを抜きにしてもミケさんは変わった人だった。
彼女は何かを持って歩くのは煩わしいとよく言っていて、常に持ち物は最低限。小さなポシェットにはスマートフォンにがま口財布、それとリップクリームしか入っていない。
その数少ない持ち物の中のひとつ、スマートフォンの使い方もよくわからず、本当はそれすら持ち歩きたくないらしいけれど、何かあった時に困るからと同居人に言われて渋々持ち歩いているとの事だった。
「小鹿さん、その人の事好きなんですねー?」
信号待ちの交差点、ミケさんの髪がぴょこぴょこと揺れる。頭の上で跳ねた髪はまるで猫の耳のようで可愛らしい。
「好きとか、そういう恋愛感情じゃないですよ。まあ、一緒にいるのは凄く楽しいですけどね……」
一緒にいて楽しい。どきどきする事だってあるし、きゅんとする事もある。
でも、それは恋じゃない。
よくわからないけど、違うと思うんだ。おじさんはずっと年上だし、自分の好きな芸能人とはタイプが違う。
それに私は男性に免疫が無い、ちょっと近づいただけで、意識してしまうもの。おじさんが勘違いさせるような事を言うから、私が自意識過剰だから――だからきっと違うんだ。
「ふふーん。小鹿さん、やっぱりそれ恋ですよ!」
だって顔が乙女のそれじゃないですかー、なんて言われると顔が真っ赤になってしまう。
「な、何を……!」
「本当は薄々気付いてるんでしょー? ……そろそろ動かないと、後悔しちゃいますよ」
街のネオンが反射して、彼女の瞳が黄色く輝く。
「別に、私は今のままでいいって思ってます。このまま、仲の良い友達でいられたら、そんなに幸せな事はないですから」
だから後悔なんてとんでもない、と続けようとすれば、それは無理なんですよ、と遮られる。
「余程の事がない限り、それは無理なんですよ。だって、いずれ小鹿さんも、小鹿さんのお友達も、彼氏が出来たり、彼女が出来たり、結婚するかも知れないじゃないですか。その彼氏、彼女さんと共通の友達だったりでもしない限り、ずっと友達ってのは難しいと思うんです。皆人間だから、嫉妬だってすると思いますよ」
遠くの一点を見つめたまま、つらつらと喋る彼女はどこか寂しげで、そして彼女の言葉ひとつひとつが、私の胸に刺さって、チクチクと痛む。
「小鹿さん。小鹿さんは、その男性に彼女が出来たとしたら、平気ですか」
おじさんに、彼女……。
あの笑みが、
温かい手が、
声が、
言葉が……自分に向けられなくなったら?
「それは、辛い、ですね」
辛い、辛い、と胸が啼く。
きゅうっと締め付けられる痛みは今まで感じた事のない痛み。ともすればこれが――
「それが、恋なんですよ」
「恋……」
信号が青に変わる。歩き出したミケさんは、ちょーっと真面目な事言っちゃいましたねー、とけらけら笑う。
「小鹿さん。作戦会議なら任せて下さいね!」
妖しく光る目に、悪戯っぽく弧を描く唇、風で揺れる髪も、何もかもが楽しげなミケさんはやっぱり変わった子。
それでも、飄々としているミケさんの、真面目な顔を見るのは初めてで、そんな彼女の新たな一面を見る事が出来たのが、嬉しくて……そして、私は、自分の中に芽生えた恋という新しい感情に戸惑いを隠せずにいた。
その日の夜、いつも通りにおじさんと待ち合わせ。あんな事を言われた後だから、おじさんの事が気になって仕方がなくなってしまう。自販機前でもじもじとしていれば、午前二時きっかりにおじさんはやってきた。
「こんばんは、嬢ちゃん」
「こ、こんばんは……」
上手に笑えない上に、目も合わせられない。
これなら気が付かなければ良かった、なんて思ってももう遅い。これではどうしようもないので顔を背ける。
大丈夫か、と心配そうな声が聞こえてくるけど、今はその声にすらどきどきとしてしまう。
「は、はい……」
「それなら良かった。そういや嬢ちゃん、今度のデートの待ち合わせ時間だが――」
「で、デート……!!」
些細な一言にまで反応してしまえば、やっぱりおかしいと首を傾げるおじさん。
「あ、いや、なんでもないんです。待ち合わせ時間が、どうかしましたか」
「お、おう。いやー、それがな、今更なんだが……嬢ちゃんの連絡先を教えてもらいたくて……だめか?」
そう言って、タバコを咥えたままスマートフォンを取り出すおじさん。
男の人のごつごつとした指が画面をなぞって動く、そんな動作ひとつひとつから目が離せない。
「ああ、嬢ちゃんが教えづらいなら今のままでいいんだが」
「そ、そんな事ないです。えっと、私のメールアドレス短いので、口頭で言いますね」
メールアドレスと電話番号を口頭で教えれば、ポケットの携帯電話がぶるりと震える。
「ありがとよ。電話番号はメールの本文に書いてあるから、何かあったらいつでも電話してこい」
な、と頭を撫でられれば、触れられた所から熱が広がる。
はい、なんて返事をするだけで精一杯で、恋とはこうも面倒なものなのかと少しうんざりしてしまう。
これでは会話すらままならない。その癖もっと一緒にいたい、もっとお話したいというのだから本当に、本当に面倒だ。
「あの……私、この間、おじさんの家まで運ぶ時、重くなかったですか」
どうにか会話を続けたくて質問してみたけど、流石に元引きこもりのもやしだから、体重自体はそう重くないはず。答えなんて解りきっていた。
「いや、そんな事はなかったぞ。まあ、ぐっすり寝てたから運ぶのは苦労したがな」
気にしているのか、と会話が途切れないように質問を返してくれるおじさんの心遣いが嬉しい。
「なんとなく、聞いてみただけです。乙女心ってやつでしょうか」
「なんだ、可愛いじゃねーか」
可愛い――そう言って笑うおじさんの顔を見ていられなくてやっぱり目を逸らしてしまう。顔を赤らめつつも、やだなあそんな事はないですよー、と言いたいのにそんな事すら出来ないなんて有り得ない。もうおじさんにも慣れて、普通に会話出来るつもりでいたのに、おじさんの家に遊びに行った時も乗り切れたのに!
「そ、そんな事ないです、よ……」
ワンテンポ遅れてのレスポンスは声も身振りも何もかもが小さくて、こんなはずではなかったのにと頭を抱えたくなる。
「嬢ちゃん、本当に平気か」
心配してくれたおじさんが私の顔を覗き込んで、心臓が跳ねる。
「ひあっ……!」
「具合でも悪いか?」
額に手が伸ばされて思わず身を竦めると、おじさんも困ったように手を引っ込めた。
「すまん……。今日は嬢ちゃん、調子がよくないみたいだから帰るか」
そう言って、まだ火をつけたばかりだったタバコを消して、私に背中を見せる。
撫でられるのも、顔を見るのも、本当は嬉しいのに、気持ちとは正反対の体が憎い、心が痛い。
「おじさん。私、今日は少しおかしいみたい。明日には、元気になってるから、だから――」
「大丈夫。無理させてごめんな。また明日、話そうな」
搾り出した言葉と、おじさんの返事、いつもは目を見てお話してくれるのに今は違う。声も、心なしか元気がない。玄関で別れて、部屋に戻っておじさんの後姿を見送れば、少しだけ、泣きたい気分になった。
「こんなはずじゃなかったんだけど、な……」
ベッドに転がったまま、ただ壁を見つめていれば、握り締めていた携帯電話が震えだす。開いてみればメールが二件。別れてからすぐ送られてきた、おじさんからの、ゆっくり休めよ、というメール。もう一件は――
「ミケさん……?」
あしたごはんをたべにいきませんか、とひらがなの件名に、本文には十一時半に梟へ、の七文字。
明日はお店の定休日、確かに休みだけれど、いくらなんでも急すぎる。どうしようかと悩んでいればさらに一件、メールを受信する。"ごめんなさい12じで"と書かれているのは件名で、本文は空っぽ。
でも、苦手なメールをしてくれた。私を誘ってくれた。そんなミケさんのお誘いが嬉しくて、行きます、と返してしまうのだった。
十二時前の駅は、平日ながらに待ち合わせの人が多い。周りをキョロキョロと見渡せば、道行く人を眺めながら髪をくるくると弄ぶミケさんがいた。
「ミケさん!」
ショートパンツに編み上げブーツ、ミリタリーコートでばっちり決めた彼女は、どう見ても今時の女の子で、そんな彼女が慣れないメールを送ってくれた事を考えると嬉しくなってしまう。
「あ、小鹿さん! こんにちはー」
「こんにちは、もしかして昨日言ってた作戦会議ですか?」
ふと昨日の事が気になってそう聞いてみると、はい、勿論ですと答えるミケさん。
じゃあ行きましょうか、と並んで歩けば、今日も彼女の髪はぴょこぴょこ揺れる。
「私、お店予約したんですよー。小鹿さんは中華料理好きですかー?」
「中華料理は好きですよ。でも四川料理はちょっと苦手かも知れません」
ほら、辛い物が多いイメージじゃないですか、と言えば、ミケさんは今日は点心が美味しいお店なので平気ですよー、と笑う。
着いたお店は半個室のお洒落な中華料理のお店。ミケさん曰く、同居人とよく来るお店で値段もそこまで高くないから選んだ、との事だった。
幸せそうに点心を頬張るミケさんは、照れたようにこう言った。
「私、同居人以外の人と出掛けるのは久し振りなんです。だから楽しみで眠れませんでした」
ミケさんのお話には、度々同居人という言葉が出てくる。ルームシェアしているのかも知れないけれど、どこか距離を感じるその呼び方が気になって、普段は聞かないようにしていた事を聞いてみる事にした。
「ミケさんはルームシェアをしてるんですか」
「まー、そんな感じですかねー。どっちかと言うと養われてますけどー」
彼氏ですか、と聞こうと思えば、ミケさんの方からちなみに彼氏じゃないですよー、と否定され、色素の薄い彼女の目は、なんにもないのに黄色く光る。
「彼氏じゃないですよ。同居人です。それ以上でもそれ以下でもありません」
それから、ご飯を食べながら色々な話をした。
どうやらミケさんは、日本人ではないらしい。事情があって中国から日本に来て、今は同じく中国出身の方にお世話になっているんです、と教えてくれる。
昨日のメールも、その同居人に教えてもらいながら打ったらしい。
流石に彼女の話を聞いてばかりでは申し訳ないので自分の、私とおじさんの話をすれば、ミケさんは興味深そうに話を聞いてくれた。
「そうだったんですねー。私、昔から勘が鋭いんですよー。だから小鹿さんに好きな人がいる、って事はすぐにわかりました。その人が年上だって事も、すぐに」
まるで占い師みたいだと伝えたらミケさんは、先を見通せるような目は持ってないから意味はないんですけどねー、なんて苦笑する。
「昨日はありがとうございました。私、現実から目を逸らしていただけだった、って気付けました」
告白でもして、振られて、今の関係が壊れるのが嫌だったんだと思うんだ。
今のままでいたいなんて、そんな都合良くいく訳がないのに――
「でも駄目ですね。意識したら急にお話出来なくなっちゃいました」
どうしたらいいんでしょう、そう聞けばミケさんはそうですねー、と唸る。
「色仕掛けとか、強行策でも取って自分のモノにしちゃえば楽なんですけどねー」
「強行策ってそんな――」
「でもそこらの小僧共なら兎も角、堅物おじさんには通用しないんですよねー」
そう言いながら髪を弄ぶミケさんはどこか上の空。
それは一生懸命に何かを考えているようだった。お茶を飲みながら彼女を眺めると、その表情はころころ変わる。眉間に皺を寄せていたと思えば、良い事を思い付いたようにぱっと目を見開く、しかしすぐにまた眉間に皺を寄せて……最終的には
「んー! わかんないです! 小鹿さん、デザート食べましょ! もうお手上げー!」
と手を上げてしまうのだから彼女にもさっぱりわからないのだろう。作戦会議はどこへやら、マイペースなミケさんに合わせれば私も少し気が楽になる。
「小鹿さん、上手に話せないなら、そのまま、流れに任せていいと思いますよ」
メニュー表と睨めっこをしていたミケさんが、ぽつり、思いついたように呟く。
「世の中にはひっどいにぶちんさんもいるので、それだけじゃなーんにも気付いてもらえないかもですけど、アピールにはなります。だから、いっそ開き直って恥ずかしくて目を合わせられないんです、って態度でもいいと思います。だってそれって自然だし、なんか可愛いじゃないですか」
ミケさんはそう言って杏仁豆腐を注文し、それに、と続ける。
「最初の頃は小鹿さんが何も話さなくても毎晩会いに来てくれていたんですよね。そしたらそれでも大丈夫ですよー。相手がただの堅物なら諦めろ、ってところでしたけどー……まあ要するに――」
おじさまの手練手管に任せておけばいいんですよ、と耳元で囁かれれば全く別の意味まで想像してしまい顔が熱くなる。
「やだなあ冗談ですよ。でもほら、いざとなったら自分から攻めちゃいましょ?」
ぺろりと舌なめずりをした彼女の瞳は妖しく光り、思わずどきりとしてしまう。妙に色っぽく感じるものだから、縫い付けられてしまったように目が逸らせない。
「なーんて、これも冗談ですよ」
そう言って笑うミケさんの、何事もなかったかのようにお茶を飲む姿は色気とは無縁の、ただの女の子。
幸せそうに杏仁豆腐を食べる姿に至ってはまるで子どもみたい――それでも、彼女の言っていた事は今の私でも出来そうで、余計な背伸びもしなくて済む、一番簡単な方法だった。
「ありがとうございます。ちょっと勇気出ました」
話を聞いてもらえるだけでも有り難いのに、アドバイスまでもらえるなんてこんなに嬉しい事はない。お礼を言って軽く頭を下げるとミケさんは
「お礼なんていりませんよー。あ、でも恋が実ったらその報告だけは聞きたいかも知れませんねー」
なんて、悪戯っぽく笑う。それに合わせて髪が揺れれば彼女の香水、ふわりと桃の香りが漂ってきて、私はなんとも言えない幸福感に包まれた。
食事を終えて作戦会議ももう終わり、のんびりとお茶を飲んでいたら、ミケさんは大きな欠伸をする。
「ふわあ……なーんかお腹いっぱいで眠くなっちゃいますねー……」
そういえば、昨日はあまり眠れなかったと言っていた。
そんな彼女をこれ以上付き合わせるのも申し訳なくて、じゃあそろそろ出ましょうかと声を掛けると、彼女は眠そうに目を擦って私の後ろを付いてくる。
外に出ればぽかぽかとした春の陽気――彼女はぐっと伸びをしてから空を仰ぎ、私も真似をして空を仰げば雲ひとつ無い真っ青な空で、ふわりと眠気を催した。
「私も帰ったらお昼寝しようかな……。それじゃあ、ミケさん、また一緒に出掛けましょうね」
そう言って手を振れば、ミケさんも嬉しそうにひらひらと手を動かす。とろりとした目は今にも眠ってしまいそうで、彼女の帰り道が少し心配になって、送って行こうかと声を掛けたけれど、
「同居人が迎えに来てくれているので平気ですよー」
と断られてしまった。
じゃあまた、と微笑む彼女は都会の人混みに溶けていき、見送った私もまた、踵を返して人混みに溶けていくのであった――
作戦会議の日の夜は、前日の緊張が嘘のように、自然に、おじさんと話す事が出来た。まだ目を見る事は出来なかったけれど、それでも充分と言える内容で、次の日も、その次の日も、同じように、でも少しずつ距離を詰めながら話をして、そして今日は、待ちに待ったデートの日。
まだ少し素直にはなれそうにもないけれど、多分、おじさんなら許してくれると思うんだ。ちょっとくらい恥ずかしくても大丈夫、緊張しちゃっても平気、上手に喋れなくてもどうって事ない。ただ、今日は自分の恋心と向き合うのみ。
「おじさん、こんにちは」
そうして私は動き出す――