おじさんにおねがい
世界を広げに行ってきました――
直後、おじさんは面食らったような顔をしていたけれど、すぐに笑顔になった。
「そうか、どうだ? 世界は広がったか?」
二駅分、広がりましたよ、と答えるとおじさんはそりゃまた随分と広がったな、なんて言ってタバコに火をつけた。
「二駅か、東西南北とあるが、どこに広げたんだ」
「西、かな? 西に二駅、広げました」
「西かー。でかい所攻めるなー」
「そのうち私の庭になる予定です」
おじさんの言い方が面白くてクスクスと笑えば、おじさんは急に真面目な顔になってその場の空気ががらりと変わる。
「嬢ちゃんは、どんどん変わっていくな」
どこか遠い所を見つめる瞳は何かを憂いているようで、きゅっと胸が締め付けられた。
そして、どんどん変わっていくな、の一言に、焦りにも似た何かを感じ取った私は笑顔を取り繕って
「おじさんのお陰です。だから凄く感謝しているんですよ」
と答えるのだった。
「いや、俺は何にもしてないさ」
「そう言うと思っていました。でも、そんな事ないですよ。おじさんは間違いなく、きっかけを作ってくれました。友達になってくれました。急かす訳でもなく、お説教するでもなく、ただ一人の友達として、私とお話をしてくれました。本当に、感謝してるんですから」
――だから、そんな顔しないで下さい。
最後に言いかけた言葉をココアと一緒にぐっと飲み込んでおじさんの顔を見れば照れた笑顔。
「そんなに感謝されると照れちまうな」
なんて頭を掻く姿は全くいつも通りで安心する反面、先程の事が気になって仕方がない。
おじさんは自分の事を語りたがらない。それは私が自分から聞かないから、というのもあるけれど、それでも聞いてはいけないような気がして、おじさんから目を逸らし、空を見た。
静かで、いい夜だった。少し進んで大通りに行けば明かりも多いし、駅まで行ってしまえば飲み屋やカラオケもある。
そんな当たり前の事を忘れてしまうくらい、私達がいる場所は静かで、何も喋らなければ遠くを走る車の音と近所のアパートにある蛍光灯がチカチカと点滅する音くらいしか聞こえない。
「おじさん、私バイト始めたんですよ」
「ああ、そんなとこだろうとは思ってたよ」
間が持たないな、なんて思ってバイトを始めた事を言えば、おじさんは偉いな、と褒めてくれた。
「バイト先の同い年の子、大学生なんですけどね、すっごく綺麗な子なんです。優しくて、明るくて……他の人もいい人だった。私、外に出て、おじさん以外の人と話すの久々だったけど、頑張れそうです」
「そうか、嬢ちゃんは前に進んだんだな」
「はい。ちょっとだけ、進めました」
そのままおじさんの手を掴み、少し引っ張ってみる。
「少し、お散歩しませんか――」
一歩、二歩、と先を歩き、少し進んでは振り返る。
心配しなくても後ろにいるさ、と言われるけれど、おじさんがついてきてくれているか不安で振り返っている訳じゃない。
本当は並んで歩きたいのだ。並んで歩こうと思えばそんな事は簡単に出来るのに、どういう訳か心と体はちぐはぐで、すぐ隣に行こうとすればどきどきと動く心臓がそれの邪魔をする。
大通りを少し歩くつもりでいたけれど、このまま離れて歩いていても面白くない。
なので、私達がいつも話をしている自販機の近く、すぐ傍にある公園に入る事にした。
ベンチに座り、おじさんもここに座って、と促すと、おじさんは少し離れた場所によいしょと腰を下ろす。
私とおじさんの間、ほんの少し空いた距離が寂しくて、溜息が出た。
「お散歩にしては短い距離だな」
「引きこもりが久々に働いたんですもの」
仕方が無いじゃないですか、と言えばおじさんはくつくつと笑う。
「そりゃお疲れさん。バイトは、接客か?」
「はい、飲食店ですけど、場所は秘密です。あ、夜の蝶とかじゃないですよ」
わざとらしく人差し指を立てて言ってみると、何が可笑しいのか、今度はお腹を抱えて笑い出した。
「ハハハ、ああ、すまん。想像できねーな、って思って、ハハ」
そこまで笑われると、いくらなんでも笑う事はないじゃない、と腹立たしくなってくるもので、立ち上がって抗議する。
「し、失礼ですね! 私だってお化粧して髪をセットしてドレス着ればそれくらいは!」
「似合うのか?」
「似合わない、ですね」
似合うかと聞かれたら似合う訳が無かった。想像すら付かないんだもの。
すうっと落ち着いたのでベンチに座りなおせばすまなかったな、とおじさんの一言。
「いいですよ。だって私も似合わないと思いましたし、ガラじゃないですからね」
「別に可愛くないから、綺麗じゃないから似合わないって言ってる訳じゃない。ただ、化粧っ気のない嬢ちゃんしか見てなかったからな、想像出来なかっただけだ」
ああ、そういえば……引きこもっている時は化粧なんてしなかったし、夜は化粧も落としているから、おじさんは私がきちんとしている時の姿を知らないんだ。
「あ、そっか。確かにそうですね。じゃあ、今度一緒に出掛けませんか?」
無意識に出た言葉だった。一瞬、驚いた顔をしていたおじさんに、デートのお誘いかい、なんて茶化されると体の熱が一気に上がったようになる。
顔が熱くて、表情も、思考も、言葉も全て止まってしまったみたいだった。
「で、デート……!」
詰まってしまった言葉を無理矢理吐き出せば、おじさんはなんだ違うのかと二本目のタバコに火をつける。
デートという程色気のあるものではないけれど、デートと言われればデートになるのかも知れない。
なら、私は……ああ、いけない。意識してしまって話にならない――
「や、やだおじさん、そんな事言われたら誘いづらいじゃないですか」
やだなあ、と笑って目を逸らしてみせるのは照れ隠し。最近、おじさんといるとどうも調子がおかしい。
「おっと、それは悪かったな。嬢ちゃんは面白いからついからかっちまう。……で、いつがいいんだ?」
「もう、からかわないで下さ……」
いつがいい、間違いなく、そう聞かれた。空耳でも幻聴でもないとわかっているのに、その意味を理解するのに時間が掛かる。
「それって、私とお出掛けしてくれるって事ですか」
「ああ、そうだ、嬢ちゃんの好きな所に付き合ってやるよ」
日時の都合を聞かれた事はわかった。わかったけれど念の為、そう思って問えばなんとも色好い返事――それはもう、天にも昇る気持ちだった。
「わあ! 本当ですか!? じゃあ私、ケーキ屋さんがいいです! 駅の近くの!」
嬉しさのあまり声が大きくなり、こらこらとおじさんに窘められる。
ごめんなさい、と下げた頭に感じたのは暖かい手の感触。
「嬢ちゃんが嬉しそうで何よりだよ。ところで、駅の近くのケーキ屋、ってそんな近場でいいのか? 水族館とか動物園とかあるだろう?」
「水族館も動物園も大好きですけど、まずは近場から攻めたいんです。あそこのショートケーキ、凄く美味しいんですよ。あ、それと商店街にある食堂にも行きたいな」
行きたい場所は山ほどあった。私が知らない間に変わっていた街を、もっと見たい。
そして、その隣におじさんが居てくれれば、そんなに嬉しい事はない。
「商店街の食堂は確かに美味いが、そんなんでいいのか。嬢ちゃん、もっと他にきらきらした所はいっぱいあるぞ」
「あ、おじさんが他に行きたい場所があったら言って下さいね。私喜んでついて行きますから」
自分の意見ばかり通すのも申し訳なくて、おじさんの興味がある事を知りたくて、どこか行きたい場所は無いですか、と聞けば、おじさんは頭を振って答えた。
「いや、まずは嬢ちゃんの行きたい場所優先だな」
どうしてと首を傾げればおじさんは、おじさん優柔不断だから選べなくてな、と笑う。
「それに、嬢ちゃんと出掛けて、嬢ちゃんが笑ってくれりゃそれで充分よ」
「私はどこでも楽しいですよ」
毎日飽きずにお話しているんだもの。おじさんと一緒なら、きっとどこだって楽しめるはずなんだ。
そうやって、好きな物、行きたい場所について話をするのはとても楽しく、また、自分の事をおじさんに知ってもらえる事に深い喜びを感じた――
どういう訳だか今日の夜は長く感じて、ちらりと携帯電話の時計をみる。
まだそんなに時間は経っていないようで、今日の夜は長いですね、なんて話しかける。
「確かに、少し長く感じるな。普通、楽しい時間は早く過ぎるものなんだがな」
楽しい時間、まるで私との時間が楽しいと言ってくれているように思えて幸せな気分になる。
「今、楽しいですか」
と聞けば、当たり前だと返されて、幸せが広がる。
今日は、どきどきしたり、胸がきゅうっとしたり、体が熱くなったりと忙しい。
外の世界は刺激が強すぎたのかな、なんてくだらない事を考えて、空を見上げる。
「星、今日はいつもより良く見える気がします」
「嬢ちゃんは星、好きなのか」
「いえ、最近あまり見ていなかったので、たまには、って思って」
星を見たのは久しぶりだった。いつもは天気の事ばかり気にしながら空を見ていたから……ああ、そうか――
「そっか。ちゃんと見てなかったからだ」
「なんの事だ」
「都会は空が明るいから星が見えない、って思ってました。思っているだけで、実際は夜空を見ていなかったんです。私。だから、意外と星が見える事に気付いてなかったんだなって」
今は空を見る余裕さえありますし、意外と世界は悪くないって気付けました。そう言って笑えば、随分と詩的な表現だな、と笑われる。
「嬢ちゃんの考え方。合ってると思うぞ。いや、俺がその考え方をいいと思っただけか……まあ、何より嬢ちゃんらしい」
――やっぱり、世界は悪くない。
自分の事を肯定して、認めてくれる人もいる、褒めてくれる人だっている。
その時私は、世界から目を背けていた期間がある事を、初めて悔やんだ。
「もう少し早く気付いていれば私の生き方も変わってたんでしょうね」
もう少し早く気付いていれば、引きこもる事もなくて、その原因だってなんとか出来たのかも知れない。
すっかりぼやけてしまった働いていた頃の記憶は、やっぱり滲んでよく見えなかった。
握った手に力が篭って、掌に爪が食い込んだ。悔し涙を堪えるように歯を食いしばれば体は小さく震える。いけない、いけない。今日、気付けただけでよかったのに、それだけで充分なのに後悔してしまう。
「なーに、嬢ちゃんの年齢ならまだやり直しなんていくらでも出来るさ。若いっていいぞー、多少無茶しても少し休めばまた走れる。支えてくれる人だっている。……おじさんくらいの年齢だとどうしても臆病になっちまうからな」
確かにそうだけど……私が気になったのは、おじさんが最後に小さく呟いた時の、さっきと同じ憂い顔。
今までそれをおくびにも出さなかったけれど、おじさんも私と同じく何かに悩んでいるようだった。
「なら、私が……」
「ん?」
「いえ、なんでもないです」
支えになるので頼ってください、と言うつもりだったけれど、いまいち勇気が出なくて黙りこくってしまう。頼られるには経験不足だし、有益なアドバイスなんて出来る訳がない。
つまり、私に出来る事は何もないのだ。
「嬢ちゃん……。おじさんな、嬢ちゃんに感謝してるんだ」
ぽつり、呟いたおじさんはふうっと息を吐く。吐く息は白く、タバコの煙は天に昇り、そんなおじさんの姿はまるで映画のワンシーンのようで、思わず見惚れてしまっていた。
「なんてな。でも、感謝してるのは本当だ。嬢ちゃんと友達になってよかった。嬢ちゃんを見てると元気が出るんだ。もう少し頑張ってみよう、ってな」
にっかりと笑った顔にはっとする。まさか見惚れていました、なんて言えるはずもなく、私はうふふと笑うばかりだった。
「さて、そろそろ良い時間だな。帰るか。嬢ちゃん、明日もバイトなんだろ」
「はい!」
家までの二十メートル、隣に並んでゆっくり歩く。
心は至って穏やかで、顔は自然と綻んだ。
「おじさん、これからも仲良くして下さいね。おねがい」
すっと小指を差し出して指切りをすれば、指切りなんて久々だと笑われる。
「ハハ、ガキの頃以来だな」
「私も、小さい頃以来です」
おやすみなさい、と交わした言葉は白くなって消えていく。暦の上では春なのにこうも寒くては敵わない。
キッチンで白湯を飲みながら、今日の出来事を振り返る――バイト先は賑やかでいい所だった。おじさんとデートの約束を取り付けた。今まで気付かなかった事に気付けた。おじさんに感謝された。
そして後は――
「初めて後悔した……」
おじさんがずっと前から手招きしてくれていたように、きっと家族は、私に寄り添おうとしてくれていたはず。
外に出るようになってからも、家族とは話していない……。
なら、素直になるなら、自分から向き合うなら、今しかないんじゃないかと、そう思った。
「願わくば、素直に向き合えますように――」






