世界を広げにいってきます
都会の喧騒の中、震える手でドアノブを握り、大丈夫、大丈夫と言い聞かす。
時刻はお日様が眩しい午後三時、引きこもりだったはずの私は今日、何を隠そう、アルバイト初日なのだ。
事の始まりは一週間程前の事――
いつもの様に昼過ぎに目が醒め、窓の外を見る。母の自転車が止まっていない、という事は母は今パートに出ているという事。
家に誰もいないのをを確認してからリビングに降り、ケトルでお湯を沸かす。洗顔と歯磨き、シャワーを済ませた後にコップ一杯の白湯を飲む……そうしていつも通り、私の一日は始まった。
空のペットボトルに水道水を詰めて、父のお弁当の残りの白米でおにぎりを握って部屋に向かう、という所までがワンセットなのだけれど、その日はダイニングテーブルの上にある一冊の求人誌に目が留まった。
スーパーやコンビニ、どこにでも置いてあるようなアルバイトが中心の求人誌……今までなら特に気にする事もなく無視して部屋に戻っていたはずなのに、今日は何故だかそれが気になって仕方がなかった。
自室のベッドに寝転がり、ペラペラとページを捲る。派遣、アミューズ、カラオケにファミリーレストラン、様々なアルバイトがあるけれど、どれもいまひとつピンと来ない。
接客? それとも製造? 清掃? 自分に何が向いていて、何が向いていないのか、ちっともわからなくて頭を抱えた私の脳裏を過ったのは
「嬢ちゃんは、正解を求めすぎているようだからな」
とつい先日、おじさんに言われた一言。
正解を求めすぎているだなんて、そんな事思いもしなかった。
今まで全てなんとなく、なんとなくで流されるように生きてきた私が正解を求めている……?
そんなはずない。そもそも正解を求めていたらこんな生活はしていないのではないか。もっと完璧に、真面目に、堅実に働いて、輝きに満ち溢れたきらきらした生活を送っていたはずなんだ。だからこんなはずじゃ――
「こんなはずじゃなかったのに……」
口から漏れた声は、自分でもびっくりするくらいか細く、弱弱しく、そうか今更何を考えてももう無駄なんだ、と、そう思った。
それなら、もう何も怖くないんじゃないか――
そうやって諦めてしまってからの行動は早かった。部屋の隅に投げ捨てられたように落ちていた携帯電話を拾うや否や、充電を始め、求人誌と睨めっこを始める。
職種はなんだっていい、とりあえず働く事を考えた。でも、働く場所は選ばなければいけない。
近所で働けばおじさんと会ってしまうかも知れないから、少なくとも二駅は離れた所がいい。
勤務中に会えば、きっとおじさんは褒めてくれるだろう。だけど、努力したり、頑張ったり、必死になっている姿はおじさんには見られたくないという、妙な意地があった。
「ここだ……」
直感的に選んだのは二駅先の街にある少し小さめの飲食店。居酒屋のバイトは高校生の頃にやっていた。それにキッチンなら見つかる事も無いだろうし、無難な選択だ。
求人誌を片手に電話を掛ければ呼び出し音が一度、二度、三度鳴る。
震える手を押さえて携帯電話を握りなおせば、手汗がじんわり滲む。
「お電話ありがとうございます」
はきはきとした声が、店名と名前を告げ、私の心臓は小さく跳ねた。
「きゅ、求人情報誌を見て電話をしました――」
声が震えないように、一音一音はっきりと発音する。大丈夫、働いていた頃はちゃんと電話も取れていたじゃない、問題ない、平気……心の中で何度も念じながら自分の名前と年齢、面接の希望時間を伝えれば
「少し急になりますが、明日でもよろしいでしょうか」
と担当者さんの声。無職だし、時間なんていくらでもある、不都合なんて何もなかった。
「はい。では明日の十五時半でよろしくお願い致します」
携帯電話を片手に頭を下げ、電話を終えればなんとも言えない脱力感に襲われる。
緊張、した……。たかだか面接の電話なのに、なんと情けない事か。しかし、面接をすると決まれば履歴書と証明写真が必要になる。
そこで私は証明写真を撮って履歴書を買うついでに、散歩がてら駅まで歩いてみようと思い立った。
いつもの自販機を通り過ぎ、大通りまでの道を歩く。不思議と恐怖心は無い。
おじさんと会うようになってから、外に出る事に抵抗がなくなっていたみたいだ。
小さな頃によく遊んだ公園を通り過ぎて大通りに出れば、見慣れた景色が飛び込んでくる。
懐かしくも感じるけれど、都会の景色というものはころころと変わるもので、そんなに長い間引きこもっていた訳じゃないんだけどな、と浦島太郎のような気分にもなった。
証明写真を撮り、帰りにコンビニで履歴書とお菓子を買って、私の短い散歩は終わり。ミッションコンプリートだ。自販機より向こうへ行くのは久々だったけれど、特に問題もなかったし、これなら面接も大丈夫そうだと安堵の溜息が出た。
その日の夜もいつもと変わらず、おじさんと会って話をした。明日はアルバイトの面接があるのだと、そう伝えるのもなんだか恥ずかしく、
「今日、ちょっと歩いてコンビニに行ってきたんですよ」
と言って、昼間にコンビニで買ったお菓子を見せてみた。少しくらいの進歩は見せておかないと格好がつかない、なんて、やっぱり妙な意地があったんだと思う。
受け取ってください、とおじさんに押し付ければ、こりゃ勿体無くて食えねーなぁ、と大げさな程喜んでいた。
そしてそれは私の自信に繋がって、アルバイトをしたらコンビニ菓子なんかではなく、もっときちんとしたお返しをするのだという目標にも繋がった。
さて、そうして掲げた目標とほんの少しの自信によって調子を良くした私は、翌日の面接でもしっかりきっちりした受け答えと、申し訳程度の嘘で塗り固めた自身の良さを存分にアピールし、その場で合格。無事に職を確保したのである。
なのに、今こうやってドアの前に立ってもじもじとしているのは何故なのか。
答えは簡単、モチベーションが保てなかった、ただそれだけだった。
寝る前まではどきどきわくわくしていた気分も、今じゃどきどきだけが残っている。迷っていても仕方が無いので、せーので開けよう、と深呼吸した次の瞬間――
「あれ、もしかして新人さん?」
と声を掛けられ私の肩はびくりと揺れた。
振り返れば茶色の髪をくるりと巻いた、目も醒めるような美女。
「あ、はい! おはようございます。今日から入りました。新人です」
どぎまぎしながらそう答えれば、美女はにっこり微笑んで挨拶をする。
「はじめまして、凛子です。今日からよろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
ああ、眩しい。モデルさんと言われても信じてしまうレベルの美女を見たのは初めてで、私の緊張は高まるばかり。
真っ赤になっているだろう、自分の顔を見られたくなくてドアを開けて店に入れば面接を担当してくれた店長が待っていた。
「おはようございまーす。あ、店長! 新人ちゃんも一緒ですよー」
「おはようございます。本日からお世話になります」
最初が肝心なのはわかっている。凛子さんに続いて出来る限り元気に挨拶すれば、店長もおはようと立ち上がる。
「今日からよろしくね。教育は全部凛子ちゃんに任せてあるから、わからない事があったり困った事があったら思う存分こき使ってやって」
「え! 店長は手伝ってくれないんですか!」
「女の子同士の方が何かといいでしょ。俺忙しいし!」
それから店長は、凛子ちゃんは美人だけど抜けてる所あるし変な子だからあまり緊張しなくていいからね、と付け足す。喜んでいいのかわからないじゃないですかー、なんて凛子さんが笑うから、釣られて私も笑えば、
「少しうるさい奴が多い職場だけど、君なら平気だと思うから今日からよろしくね」
と制服を渡された。
白のシャツに黒のサロン、お洒落な制服に身を包んだ私は人生二度目のアルバイト初日。
まずはホールの業務から、がここの方針らしく、凛子さんと一緒にホールへ向かえば先にシフトに入っていた男性店員と目が合い、凛子さんが挨拶をする。
「おはよう芋丸!」
芋……? 可愛らしい目元と綺麗な黒髪、爽やかな見た目からは想像もつかない名前にきょとんとしていると芋丸と呼ばれた男性は慌てて否定する。
「凛子さんやめて下さいよ新人ちゃんに本名だと思われるじゃないですか!」
流石に本名だとは思わないけれど、驚いたのは確か。おはようございます、と頭を下げれば芋丸さんはよろしく、と返す。
「本名はススムなんだけどね、初日にヘマして芋丸って呼ばれてるんだ。だから名札もこの通り……新人ちゃんも気をつけてね」
居酒屋の店員さんが付けていそうな名札には、可愛らしい、女の子の文字で"芋丸"と書かれていて凛子さんの方を見れば、私が書いたの、とにっこり。
「何故、芋丸なんですか……?」
恐る恐る聞いてみれば、カウンター越しのキッチンから返事が来る。
「こいつ、初日に俺が仕込んだデザートぶちまけたんだよ。くだらねーけど、その日のデザートがスイートポテトだったから、だから芋丸」
凛子ちゃんの髪についたりで大変だったんだぜ、とひょっこり顔を出した男性は、新人ちゃんも芋丸って呼んでやれよなー、なんてケタケタ笑っていた。
「もう勘弁して下さいよジョンさんー!」
「ああ、俺の"ジョン"ってのも勿論渾名だ。凛子ちゃんも本名じゃない。大体店長が直感で名付けてるから、新人ちゃんにもなんか付くはずだな」
覚悟しておけよー、と言ったジョンさんの後ろには店長の姿。
「ジョン! 新人ちゃんを脅して困らせない! 手を動かせ手を! 大丈夫、女の子にはそれっぽい可愛い名前考えるから!」
ぐっと親指を立てられると私の後ろからは
「店長俺もう芋丸卒業したいっす!」
「私は凛子じゃなくて凛がいいです!」
と抗議の声。
「じゃあ姓をつけてやろう。お前は今日から薩摩の芋丸だ! 凛子ちゃんは……面倒だから凛でいいよもう」
あんまりだと嘆く芋丸さんに、それはそれで嫌なので凛子でいいですと引き下がる凛子さん。
少しうるさい奴が多い職場、とは店長も含めて賑やかな職場なのだと、理解するのにそう時間は掛からなかった。
そういえば、彼氏はいないのか――そう聞いてきたのは凛子さん。いませんと答えれば、そっかそっかと返される。
「いやー、女の子同士だとね、ついついこういう事聞いちゃうんだよねー」
いつもは一人でやるというディナータイムの準備も二人も居ればすぐに終わるというもので、余った時間で注文の取り方、案内の仕方、食事の提供など、ホールの業務を一通り教えてもらっていた所に飛んできた質問だった。
「新人ちゃん、経験者でしょう? 言い回しや所作の違いはあっても、飲食店ってホールはやる事大体一緒だし、教える事なくなっちゃったよー」
一通り準備も掃除も終わったしー、と退屈そうにカウンターに伏せる凛子さん。
「そーだ、新人ちゃん。昼間はいつも何やってるのー? 学生?」
「昼間は部屋でずっと寝てますー」
最近まで引きこもってましたからね、なんて笑って答えれば凛子さんもあははと笑う。
「わかるー! 私大学行ってるんだけど、最近行く事もやる事もないからほぼ引きこもりだよー」
ああ、良かった。冗談だと思ってくれたみたいだ。
そして大学生、という事は私と年齢はそう変わらないみたいで、年齢大体一緒ですねーと言うと嬉しそうに起き上がった。
「ほんとー!? 歳近い女の子あんまりいないから嬉しいなー。ちなみに芋丸くんは二十歳でジョンさんは私達よりいくつ上だったっけ……? 八つくらい?」
「そんな上じゃねーよ俺まだ二十七だぞ。それより凛子ちゃんは就活しろよ」
「私ここ好きだから社員になりたいです雇ってください」
「そういうのは俺じゃなくて店長とマネージャーに言うんだな」
べったりとカウンターに伏せてしまった凛子さんと、私に水を差し出しながらジョンさんが言う。
「そろそろお客様がどーんと来る時間だ。水でも飲んどけ」
時計を見ればそろそろピークタイム。水を一気に飲み干せばジョンさんが声を上げる。
「皆の者、戦闘配置に付けー! これから来るお客様を最大限のもてなしで迎撃せよ!」
ジョンさん、芋丸さんのキッチンと、凛子さんと私がいるホール、裏には店長も居て、小さなお店はそれだけの人数が居れば充分回せる。
そうしてピークタイムに突入して……気付けば閉店の時間だった――
久しぶりの勤労に膝が痛む。食器を片付けて店内の掃除をしていれば、凛子さんに声を掛けられる。
「お疲れ、初出勤はどうだった?」
「正直、よく覚えてないです」
きっぱり言い切ると裏から出てきた店長がハハハと笑う。
「やっぱりそうだよね。うち、ゆったり食事が出来る落ち着いた店って評判なのに、初日の子は皆そう言うから不思議だなー。……でも、しっかり出来ていたんじゃない? これからホール業務よろしくね」
「え、ホール、ですか?」
キッチン志望だったのだけれど、と戸惑っていると店長は淡々と続ける。
「新人ちゃん、ホールの方が向いてると思うんだ。元気だしほんわかしてるし、キッチンに幽閉しとくには勿体ないなー、ってね」
「私もホール向きだと思うなー」
凛子さんが言えば、芋丸さんもジョンさんもうんうん、と頷く。
元々おじさんとばったり会ってもいいように、とキッチンを希望していただけだし、別にキッチンに拘りがある訳ではない。
それにあのおじさんがこの店に来るとも思えない――
「それなら、ホール業務頑張ります!」
そう答えれば四人はこれからよろしく、と祝ってくれた。
「よし! じゃあ新人ちゃんの名前を発表しよう」
そういえば、そんな話もあった。一体どんな名前になってしまうのか、と緊張が走る。
「可愛らしいのを考えたよ。新人ちゃんは今日から、小鹿ちゃんだ!」
こ、じか――小鹿……?
確かに小鹿は可愛らしい、可愛らしいけど何故小鹿。
「店長! なんで小鹿なんですか!?」
「今、生まれたての小鹿みたいになっているから、かな」
凛子さんに聞かれて店長が答えた理由はちっとも可愛らしくないもので、私は脱力してその場にへたり込んでしまった。
「俺の芋丸よりはマシっすよ」
「まあ、芋丸よりはマシだが、小鹿ちゃんか……」
「大丈夫! 私の時なんて凛子にする前はタマだったし! てことで絵本から取ってバンビちゃんとかどうかな?」
「それならまだ小鹿ちゃんの方がいいです! 苗字っぽいし!」
嫌だと思ったのは最初だけで、こうやって渾名を付けてもらってワイワイとお話をするのは楽しく、おじさんと話している時以外で久しぶりに、楽しいと思った。
「じゃあこれからよろしくね、小鹿ちゃん」
皆さんこれからよろしくお願いします――改めてお辞儀をした時には最初の緊張なんて消えていて、帰り道を歩く私の心は何とも言えない充実感に満ち溢れていた。
午前二時、いつものようにおじさんが来て、今日は嬉しそうだな、何かあったか、と聞いてくる。
はい、と返事をしてココアを受け取り、飛び切りの笑顔でこう言った。
「ちょっと、世界を広げに行ってきました」