孤独にさようなら
ごろり、私の膝に頭を乗せた一文さんの髪を梳いて、二人の、穏やかな時間が過ぎていく――
「一文さん、昨日は私のシャンプー使いましたね」
「やっぱりバレてたか」
「さらさらで、良い匂いがするなー、って……」
「いやあ、詩歌ちゃんと同じ匂いになりたくて、な」
「ギャップがありますね」
「笑う事はないだろう」
――結局、世界を変える事は出来なかった。
受賞作は有名作家の超人気シリーズ最新作。
それでも一文さんは、表面上は清々しい顔をしていたし、今書いている小説を書き上げなきゃなと笑ってた。
「今書いている作品はな、いける気がするんだ」
ぽつり、手を伸ばした一文さんが呟く。
「一文さんがそう言うなら、きっといい所までいけますよ」
伸ばされた手を握り、指を絡めれば一文さんが首を振る。
「違うよ。俺がどうこうじゃない。詩歌ちゃんのお陰なんだ」
「なんの事でしょうか」
「書いている途中で詩歌ちゃんに会ったんだよ。言っただろう? 詩歌ちゃんに会うようになってから、仕事も上手くいくようになった、ってな。次回作は、迷いながら、悩みながら書き上げた前作よりも自信がある。そして胸張って故郷に帰って、両親に顔見せ出来る気がするんだ。だから詩歌ちゃんに感謝してるんだよ」
ありがとな――そう言った一文さんの声は震えていた。きっと内心では悔しくてたまらないのだろうと、そう思った。
しかし慰めるなんて野暮な事も出来ず、手を握って笑いかけるだけという訳にもいかず、それならばと私は努めて冷静に、穏やかに話し出す。
「一文さん、私も、一文さんに感謝していますよ。だってね、小さな頃に初めて友達が出来た時も、引きこもりの私が外に出た時も、私の世界が変わるきっかけは、いつだって一文さんなんです。一文さんに出会って、色々な事が変わりました。外に出る事が出来ました。バイトですけど、働くようになりました。ずっと逃げていた過去と向き合う事が出来ました。人付き合いが苦手だった私に、本当の友達が出来ました。想いの伝え方がわかりました。一文さんは優しいから、それは私が頑張った結果だって言ってくれると思います。でも、違うんです。一文さんがきっかけをくれて、私の周りの人達が勇気をくれました。これは紛れもなく、一文さんの、皆のお陰なんですよ」
ね、と空いた手で一文さんの頬から顎にかけてのラインをひと撫ですると、伸びた髭が引っ掛かり、私の手にはちくちくとした感触。
一方、一文さんは心地良さそうに目を閉じて笑うのだ。
「詩歌ちゃんの手は綺麗だな。すべすべだ」
「一文さん、言ってる事がおじさんっぽい」
「そんな事言われてもなぁ、実際おじさんなんだから仕方ないだろう? まあ、詩歌ちゃんが嫌なら止めるか……」
残念そうに手を離す一文さんは少し拗ねているみたい。嫌じゃないのでもっと言って、どんどん褒めて下さいと冗談めかしてお願いすれば、一文さんは一瞬何かを考えるように顎に手を当て、起き上がると私の頭を一度撫でる。
「本当に、変わったんだな。詩歌ちゃん。成長した、って言った方がいいか」
「そうですね。私も、変わったって思います」
「あの日、支えさせてください、って告白された後でも、俺が支えてやらなきゃいけないんだと思い込んでたから、詩歌ちゃんの強い瞳や覚悟に気付けなかった。でももうただの嬢ちゃんじゃない。儚いだけの女の子じゃない……。立派な大人なんだって、昨日気付いたよ」
そう言って私を見つめる表情は穏やかそのもの。
そして当の私は認めてもらえた事が嬉しくて、褒めてもらえた事が嬉しくて、笑顔が堪えきれない――
「褒めてくれてありがとうございます!」
一文さんにぎゅっと抱き付くと、そのままバランスを崩して後ろへ倒れ込んでしまった。
彼が床に頭をぶつけた衝撃で、隅に積まれた本が崩れ、それに驚いた山葵が飛び上がる。
「あぁ! ごめんなさい! 嬉しくてつい……!」
それはもう血の気が引く思いだった。
私ったらなんて事を……。
頭を摩る一文さんから慌てて離れて頭を下げる。次の言葉が怖くてきゅっと目を瞑った私の耳に入ってきたのは、予想に反した、大きな大きな笑い声。
「ハハハ、褒めた側からこれだもんな。まだ当分子供扱いはやめらんねーや」
わしゃわしゃと頭を撫で回され、恥ずかしいやら情けないやらで返事も出来ない。一文さんは一頻り笑った後に、私の髪を整えるように梳きながら安心したよと一言。
「あんまり大人びていてもこっちが気を遣っちまうからな。こういう所があった方が愛で甲斐がある。ほら、おいで」
抱っこしてあげよう、と広げられた腕に飛び込み頬擦りすれば一文さんの匂いに包まれる。私の匂いと混ざり合ってそのままひとつになってしまいそうだった。
「私ね、多分ずっとこうしたかったんだと思うんです」
「ああ」
「昔から、ずっと誰かにこうしてもらいたかったのかな、って」
「ああ」
ぽろぽろと溢れる言葉は自分でも聞いた事のないような、甘ったるい声。
顔を埋めたまま、ぽつり、ぽつりと呟いて頭を撫でてと強請ってみる。
そう、多分ずっと昔から、小さい頃から、誰かにこうやって甘えたかったんだ。妹が産まれる前の記憶は曖昧で、妹が出来てからは両親には甘えられなかった。
つまり、私には誰かに甘えた記憶というものがあまり無い。
では、それでは、もしかして私は――
「私はただ、両親の代わりに甘えさせてくれる人を探してただけなのかな……?」
こぼれた言葉は私の不安、最後に残った自分への疑問だった。
それを聞いた一文さんは暫し考え込むように黙り込み、その後には笑顔で答えてくれる。
「俺はその疑問に答えてやる事は出来ないな。ただな、俺はそれでも構わんよ。詩歌ちゃんがどんな気持ちだろうが、俺を支えたいと言ってくれた事。俺を甘やかしてくれた事。その事実があるから十分さ」
「そう、でしょうか」
「ああ、そうだよ。それに――」
愛は少し歪んでいた方が美しい――そう呟いた一文さんは、私の頬をひと撫でする。
「歪んでるのが、美しい……?」
よくわからずに首を傾げれば、一文さんは優しげな笑みのまま、そうだとひとつ頷いた。
「その方が人間らしい。それに打算でもいい。なんでもいいんだ。俺は詩歌ちゃんの事が好きだ。自分だけのモノにしたい。縛り付けておきたいって、そう思うぐらいにはな」
頬にあった手は場所を変え、私の頭を撫でながら一文さんは最後にひとつ、こう問うのだ。
「もし俺のそんな想いを前にしても、俺の事が好きなら、それだけで十分だと思うが、詩歌ちゃんはどうだろうか……?」
そこに先程のような笑顔はなく、どことなく緊張した面持ちは、不安げで、寂しそう。
何を今更……と思ってしまうのに、一文さんの事がとてもとても愛しくて、そんな姿を可愛いと思ってしまうのだ。そこから分かる事なんてひとつだけ。
私は一文さんの事が本当に大好きなんだという事しかない――
「好きな人にそんな事を言われたら嬉しくなっちゃいます」
そう笑って一文さんに抱きつけば、一文さんは安心したように息を吐き、それから私を抱いたまま立ち上がった。
「ちょ、ちょっと一文さん!」
ふわり、突然の浮遊感に心臓が跳ねる。
降ろして下さい、と足をバタつかせても一文さんはびくともしない。
「ああ、詩歌ちゃん……! 大好きだ!」
くるり、くるりと二度回り、ゆっくり私を降ろした一文さんは今までに見た事もないような笑顔をしていて、何か、やっと本当の恋人同士になれたような、一文さんとならきっと幸せになれるなんて、そんな運命めいたようなものを感じてみたり、とにかく私の心はぽかぽかと、暖かく、幸せな気分になったのだった――
また来ます、一人と一匹に笑顔で手を振りドアを開け、自宅とは反対方向、駅前の書店に寄ってから帰宅したのは午後五時の事。購入したのは一文さんの新作と、もう一冊。私の記憶の奥深くに眠っていた、初めて一文さんに声を掛けた時に、彼が読んでいた本だった。
母と妹との食後、ソファーに寝そべり読書に耽っていた私は、唐突に声を掛けられる。
「鴇巣一文か。しいは好きなのか?」
「え、ああ、うん。知ってる?」
声の主は珍しく帰宅の早かった父。
父の方から声を掛けられる事も、“しい”とあだ名で呼ばれる事も珍しく、驚いて振り返れば、父はネクタイを緩めながら、一度だけ仕事で会った事がある、と話し出す。
「昔、彼がデビューしたばかりの頃に出版社のパーティーで会ったんだ。それからすぐに売れなくなって随分と長い間燻っていたが、最近また出てきたな。なんにしてもこれからに期待出来る作家だよ」
そう言って笑う父はいつになく饒舌で、いつになく嬉しそうだった。
多分、本当に多分だけれど、私に歩み寄ろうとしてくれているんだと思い、私まで嬉しくなってしまう。
それでもまさか、その鴇巣一文と付き合っているだなんて言えなくて、気になったから買ってみたのだとひとつ嘘をつけば、そうかそうかと父はまた笑う。
「彼の作家としての真髄は物語の終盤にある。序盤、中盤を夕方と夜に喩えると、終盤は深夜、そして最後の一文は差し詰め夜明けと言ったところだろう。長かった夜が明け、読者はすっきりとした読後感を味わえる。もし気になるのなら他の作品も読んでみるといい」
売れはしなかったがつまらない作品では無いんだと、一文さんが褒められているのが嬉しくて、ついつい笑顔になってしまう。
「うん、読んでみるよ」
そんな笑顔の理由を知ってか知らずか、にこにこと笑みを浮かべる父に返事をし、そこへ母と妹が加わって、その後は家族四人で話をして、テレビを観て、仲良くお風呂上がりのアイスも食べて……そうして私は、一昨日より一週間前より、一ヶ月前より、引きこもっていた時より、引きこもる前より、そのずっとずっと前よりも、家族との関係が良くなっている事に気が付いた。
いや、元々関係は悪くなかったはず、ただ私が、一人でいる事を選んでいただけ。壁を作っていただけなんだと思う。
父と母と私と妹……皆がいるリビングは心安らぐ空間で、楽しい時間が流れていて、そこは紛れもなく、私が今まで望んでいた家族がいる、私の帰る場所だった。