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世界を変えにいきましょう

 テーブルに並んだお酒とおつまみ、それからおじさんが作ってくれたお夕飯が盛られていた空の食器。一人暮らしの長いおじさんは、料理もそこそこ出来るらしく、男性らしい、がっつりとした料理を作ってくれた。

「学生の頃は賄い目当てで食堂でバイトしててな。意外と料理は出来るんだ」

「そうだったんですね。生活感の無いキッチンだったので料理はあまりしないものだと思っていました」

「最近は忙しかったし、面倒だったからな。今は落ち着いたからもう平気だぞ。詩歌ちゃんが片付けてくれたお陰だな」

 ビールを片手におじさんはにっかり笑い、それから山葵に猫用のおやつを分け与える。山葵は私からおじさんの匂いがする事にもすっかり慣れたらしく、今では落ち着きを取り戻して私とおじさんの間を行ったり来たりして餌を強請っていた。

 詩歌ちゃんは焼酎も飲むんだな――テレビで若手の女優さんがカクテルを飲んでいるのを見て、そういえばとおじさんが私のグラスを指差し言う。

「焼酎も飲みますよ。麦と米が好きです。芋は匂いがキツいので無ければ飲めます」

からころとグラスを揺らしながら答えれば、おじさんはそうなのかと目を丸くした。

「若い子は酎ハイとか、カクテルが好きなものだとばっかり思ってたよ」

「炭酸はお腹が苦しくなっちゃうから苦手なんです」

そう言って焼酎を飲み干せば、お酌してあげるからこっちにおいでと手招きされ、おじさんのすぐ隣、並んで座ると距離の近さにどきどきする。

 手を繋いでも抱きしめられても平気だったのに、お酒が入るとどうしても冷静じゃいられない。

「おじさん、もう震えていませんね」

気を紛らわせる為にそう聞くとおじさんは、もう平気だよ、と私の頭を撫でる。

「詩歌ちゃんと一緒だからな。それに、もう吹っ切れたよ。候補作に選ばれた段階で、俺の作品はある程度は認められているんだ。だから俺は、俺の作品で、文壇に革命を起こすよ。そうしたら、どうしてくれようか。実家の両親に報告でもするかな。俺の選んだ道は間違っちゃなかっただろう、ってな」

そう言ったおじさんの瞳はどこまでも真っ直ぐで、私なんかじゃ届きそうにもない所を見つめていて、もしかしたら置いて行かれてしまうのではないかと少しだけ胸が痛む。

「おじさんは大きな目標を持っているんですね……」

「ああ、すごいだろう?」

おじさんのしたり顔が可笑しくて、くすくすと笑っているとゆっくり頭を撫でられる。目を合わせればおじさんの視線は優しく、温かく、私の全てを受け入れてくれるような気がして、今なら何でも伝えられると、そう思った。

「私も……」

「ん?」

「私も一緒に、隣にいさせてくれますか?」

「そうだな。詩歌ちゃんも一緒に、世界を変えてみようか。どれ、もっと近くにおいで……」

おじさんはそう言って私を抱き寄せてからウイスキーの栓を開け、黄褐色のそれを、グラスに注いだ――


 からんころん――氷が飴色の中で揺れている。

 おじさんが好きだと言っていたウイスキーは薬品臭がして、一口飲めば喉の奥がかっと熱くなる。思わず顔を顰めた私を見たおじさんはからからと笑い、やっぱりそうだよな、と私からグラスを取り上げた。

「アイラ系は癖があるから仕方ない。詩歌ちゃんは無理に飲まなくていいよ」

渡されたお水を喉に流し込んでもまだ熱い。

 ぴったり隣に座ったおじさんを見るとそんなお酒を涼しい顔で飲んでいるものだから驚いてしまう。それは大人の余裕、みたいな空気で、改めて年の差を感じさせられた。

「ほら、詩歌ちゃんはこっちだな」

ぼうっとおじさんを見つめていた私に差し出されたのはさっきまで飲んでいた焼酎。両手で受け取りちびちびと飲み始めれば、そっちの方が似合う、とおじさんはにっこり笑う。

「似合っているなら、こっちでいいです」

「ああ、可愛いぞ――」

「あ……ありがとうございます」

 甘えたくなってしまうのは酔いの所為か、雰囲気の所為か、それともおじさんの一言で私が吹っ切れてしまったからか。ぴったりくっついてもまだ余っている隙間が寂しくて、もぞもぞと動いて一番おじさんを感じられる体勢を探す。落ち着かないか、なんて聞くおじさんに首を振り、

「もっとくっついていたいので、丁度いい体勢を探してます」

と答えれば、おじさんは困ったように笑うだけ。

「可笑しい、ですか?」

「いや、可愛らしいなってな。ただ……あんまり煽られると、困っちまうな」

おじさんはそう言って水を飲み干して、私にも水を差し出し、柔らかい笑顔を向ける。

「少し、酒を抜こうか。外に散歩に行くのでもいいな」

おじさんは私の目を見て言っているつもりなのだろうけど、その瞳は落ち着きなくきょろきょろ動き、余裕の無さが感じられる。

 ああ、意識されているんだ――そう気付いてしまったからもう止められない。立ち上がって外へ出掛ける準備をし始めたおじさんの腕を掴み、真っ直ぐ顔を見つめてみる。もっともっと近付きたくて、触れたくて、なんだかとても胸が苦しい……。

「お、おい、そんな悲しそうな顔してどうした? おじさん、何かしちゃったか……?」

「悲しい訳じゃないんです、切なくてたまらないだけなんです……!」

きっと今にも泣き出してしまいそうな顔をしているのだろう。私の前にしゃがみ込んだおじさんに顔を見られないように、ぎゅっと抱き付いて小さく好きですと呟いた。

「詩歌ちゃん……?」

「あの……子供扱いじゃなくて、ちゃんと恋人として、甘えさせて下さい」

 絞り出した言葉の返事は、返ってこない。きちんと伝わってはいるだろうか、受け止めてはくれるだろうか……。

「あの、おじさ――」

顔を上げた所、ぴたり、唇に指を当てられる。

「これ以上進んだら、もう戻れないぞ? おじさん、そろそろ限界なんだ。詩歌ちゃんもそれはわかってるんだろう?」

見上げたおじさんは酷く切なそうな表情で、黙って一度頷けばそのままぎゅっと引き寄せられる。

「戻るなら、今だぞ……?」

「戻りません、戻れなくても構いません……!」

それは、今まで出した事もないくらい、はっきりとした、強い声だったと思う。

「そうか」

それに返事をしたおじさんも、覚悟を決めたような声だった。

 立ち上がってテーブルの上、お酒と食べ物だけを片付けて、私の体を抱き上げた――


 おじさんの寝室のベッド、向かい合うように座らされたおじさんの膝の上で、私は何をする訳でも、何をされる訳でもなくただただおじさんと見つめあっていた。焦燥に駆られたような、ぎらぎらした目で見つめられ、視線が縫い付けられてしまったように目が離せない。

「おじさ――」

「もう、おじさんとは呼ばせてやれないな。昼間はちゃんと、名前で呼べただろう?」

なんだかお預けをくらっている気分になり、我慢出来ずに口を開けば、すぐさまおじさんに遮られる。優しく私の頭を撫でていた手が頬へと辿り着き、その親指は私の唇を右から左へゆっくり撫で、私は自分の体がざわざわするのを感じた。

「え、と……一文、さん……」

「ああ、いい子だ……」

恥ずかしがりながらも名前を呼べば、心臓がどきどきと激しく動き、このまま爆発してしまいそう。いい子だなんて、褒めないで。

 くらくらして、頭がまともに動いてくれないじゃない――

 おじさん、一文さんの顔が近付いて、きゅっと結んだ唇に軽いキスが落とされた。続けて唇を食むように吸われ、軽く開いたそこから舌が侵入してくる。

「ん……」

自ら控えめに出した舌は簡単に絡め取られてしまい、肌がぞくぞくと粟立って、私は今までにない感覚にただ、戸惑うだけなのだ。

「ん、うっ……」

 酸素が足りない――息継ぎの仕方がわからない、苦しい。厚い胸板をやんわりと押し返すと唇は離れていく――

「か、一文さん、苦しい、です」

「ああ、すまん……。詩歌ちゃんが可愛いからつい、やり過ぎた。止めてほしくなったらいつでも言ってくれよ。すぐに止めるから、な――」

 首筋を舌でなぞられ、緩々と横腹を撫でられる。そうすると私の体はぞくぞくと震え、跳ね、一文さんは満足そうに笑うのだ。

「詩歌は可愛いな」

ずるいじゃない。こんな時に呼び捨てだなんて、可愛いだなんて、ずるい、ずるい。

「好きだ。好きだぞ、詩歌」

「すき、すきです、一文さん――」

 どろどろに溶けていく意識の中には最早止めてほしいなどという気持ちはさらさらなく、ただただ全てを任せ、身を委ねるという事だけが形を保って残っていた。

 ちかちかする視界の中に見つけた一文さんの顔は、焦燥感とは無縁の、穏やかな表情だった――


 おじさん、一文さんの腕枕で目覚めた朝は、なんだか少し気恥ずかしい。むくり、起き上がって一文さんの顔を覗いて見れば、私の視線に気付いたのか、薄っすら目を開けふにゃりと微笑む。

「おはよう、詩歌ちゃん」

「おはようございます。一文さん」

 いつもと違う事がいっぱりあり過ぎて困ってしまう。一文さんの服を着て寝ている事、一文さんが隣にいる事、それから――

「もう名前で呼ぶのは慣れたか?」

――そう、今までおじさんと呼んでいた人の事を名前で呼んでいる事。

「まだ慣れてはいないです。でも、そのうち慣れるでしょう」

 目を合わせるのが恥ずかしくて、朝ご飯を作ります、と立ち上がろうとした私は急に引っ張られてバランスを崩す。

 すっぽり包まれた一文さんの腕の中、上から降ってきた声は、待ってくれ、と震えていた。

「いやあ、すまんな。発表当日になったら緊張してきてな。詩歌ちゃんと、しばらくこうしていたいんだ。だめか?」

「だめじゃないですよ」

手を伸ばして触るのは一文さんの髪。掬って、梳いて、頭を撫でて――

「ごめんな。詩歌ちゃん。本当は目一杯甘やかしてやるつもりだったんだが……」

「いいんですよ。甘えられるのは嫌な気分じゃありません。私、腐ってもお姉ちゃんですから、ね」

好きですよ。一文さん――そう呟いた言葉に頷いた一文さんはそのまま私を押し倒す。

「好きだ」

「ええ、大好きですよ……でも、まずはご飯が先です。山葵くん、きっと拗ねてますよ」

つん、と鼻先を突いて抜け出せば、一文さんは慌てたように立ち上がる。

「しまった……!」

「ね、じゃあご飯を食べて、それから山葵くんと遊びましょ」

 がちゃりと開けた寝室の扉の前、不機嫌そうに一文さんを睨み付けた山葵は、餌入れの前に行き、これまた不機嫌そうな声で鳴く。

 すまんすまんと謝る一文さんが山葵の食器に盛ったのはドライフードではなく缶詰で、山葵は目の色をころりと変えて、餌に食いつくのだった。

「……ったく。どこまでも現金な生き物だな」

「でも、好きでしょう?」

「ああ、好きだよ。素直で真っ直ぐだ……。さて、今日は運命の日だ。詩歌ちゃん、ちゃんと見ていてくれよ」

「はい。詩歌はちゃんと見てますよ――」


 それからの数時間、私達はご飯を食べて、散歩に行って、テレビを観て、なんて事ない普通の休日を過ごしていた。

「どんな結果だろうが、次に進まなきゃならないんだ」

そう呟いた一文さんの唇は嬉しそうに弧を描き、そうしてひとつ深呼吸してから、やけに芝居がかった口調でこう言った。


「さあ、時は来た」

 

 そう。憧れが、努力が、想いが今、形となって顕れるのだ――

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