私にまかせて
目が覚めた時には夕方で、おじさんは私の隣に座って本を読んでいた。
まだぼんやりとする意識をなんとか呼び寄せて起き上がれば、おじさんはするりと私の髪を梳く。
「おはよう。詩歌ちゃん」
「ん……おはよ、ございます」
「水、飲むか?」
軽く頷くとおじさんは持っていた本を閉じてキッチンへ行き、水の注がれたマグカップを持って戻ってきた。受け取ったお水をぐっと飲み干せば、からからだった喉も潤い、お礼の言葉がスムーズに出てくる。
「ありがとうございます」
「おう。ところで詩歌ちゃん、今夜と明日の予定は空いてるか?」
再び私の隣に腰を下ろしたおじさんに問われて明日の予定を確認する。
アルバイトの予定も無し、家族との予定も無し、カレンダーの日付部分は真っさらだ。
「勿論、予定は空いてます」
そう答えれば、ぎゅっと手を握られて、真っ直ぐな眼差しが向けられる。
これは……きっと、おじさんがこれから言う事はひとつ――
「そうか、じゃあ、今夜は泊まって、いかない、か?」
ほら、やっぱり。……でも、落ち着かないような緊張したような、途切れ途切れの言葉には不安か迷いか、何か違和感がある。私を誘うのが恥ずかしいだけ?
違う、それだけじゃなさそう。だっておじさんの目はこんなにも真っ直ぐだ。
ならこれは一体……いや、もう悩むのはもうやめたんだ。気になるなら直接聞いて確かめればいい――
握られていた手を離し、ぎゅっと抱きつけば、おじさんはおずおずと私の背中に手を回す。
「どうしたんですか? 今日と明日は一文さんの側にいますから、安心して下さい」
流れるように口から出る言葉の中で、おじさんの名前を呼んでみる。一瞬、おじさんの背中がぴくりと動いて、それからおじさんはありがとう、と一言。
「詩歌ちゃんは鋭いな」
「気になったから聞いてみただけです。話してみて下さい。私で良ければ聞きますよ」
「本当は洒落たバーで酒でも飲みながら話すつもりだったが、これもまあ、悪くないか。実は、明日は文学賞の発表があるんだ。去年出した俺の、鴇巣名義の小説が候補作に選ばれてな。詩歌ちゃんには一緒に俺の作品がどうなるのか見届けて欲しかったんだ。迷いの中で書き上げた作品だから、一人だとどうしても不安でな……」
ほら、明日の事を考えると手がこんなに震えるんだ、大の大人が情けないだろう、とおじさんは力無く、自嘲気味に笑う。
「詩歌ちゃんの料理を食べて、元気も出たし、色々と吹っ切れたから平気だと思ったんだが、やっぱり駄目だったみたいだ」
私からそっと離れて、震える手で困ったように頭を掻くおじさんの心の奥深くにはきっと、多分、恐れや不安なんてないと思う。
だって、口元がぎこちない笑みを浮かべていても、手が、体が、どんなに震えていても、おじさんの目だけは真っ直ぐで、前だけを見ている。
そこに不安や憂いの色がないとすれば、それは――
「武者震い、ですね。情けなくなんかないですよ。今のおじさん、良い目をしています」
そう、きっと大勝負を前にして興奮しているんだ。自分の生み出した作品が、悩んで悩んで書いた作品が、今栄光を掴もうとしているんだもの。震えちゃうのは当たり前。
震えるおじさんの手に自分の手を重ねれば、おじさんはふっと笑う。
「……武者震いか。物は言いようだな」
それからおじさんはひとつ伸びをして、もう覚悟は決めなきゃなとゆっくり立ち上がった。
「今日何をして過ごしても、どうせ明日には結果が出るんだもんな……。よし! 詩歌ちゃん、外に行こうか。酒を買いに行こう」
もう体は震えていない、全くもっていつも通りのおじさんがそこにいて、言われるがままに立ち上がり、眠っている山葵に気付かれないようにそっと、私達は家を出た――
気温はそれほど低くない、けれど少し風の強い夜。おじさんに手を引かれて入ったのは駅前のスーパーだった。
「買う物は酒とつまみと明日の朝飯、それから……詩歌ちゃんのシャンプーだな。女の子には色々と拘りもあるんだろうし、選んで来いよ。俺はその間髭剃りの替え刃でも見てるからさ」
「あれ、お風呂お借りしてもいいんですか?」
前回と同じく、お風呂は一度家に帰ってから済ませようと思っていたのだと伝えれば、おじさんは遠慮しなくていいんだぞと笑う。
「この間のデートの時は酔っていてまともに物を考えられなくてな、落ち着いてから会いたかったんだ。あの時はごめんな、今はもう迷いは無いよ。だからシャンプーでも化粧品でも、なんでも買ってやるから持っておいで」
な、と背中を押されて売り場へ向かい、おじさんは手を振って薬局の方へ行ってしまった。
なんでも買ってやる、と言われても、やっぱり遠慮してしまうのが人間という生き物で――
「参った、な……」
ずらりと並んだカラフルなボトル達の前で顎に手を当てどれにしようかと考え込む。
お泊まり用の小さめのボトルの商品の中には、いつも使っているシャンプーは無い。かと言っていつも使っている物を買ってもらうのも図々しい気がする。
何にしようか、どうしようかと行ったり来たりで悩んでいれば、おじさんはすぐに戻ってきた。
「どうした?」
「あ、おじさん。実はどれにしようかと悩んでしまって……」
事情を説明して大小二つのボトルを指差せば、おじさんはいつも使っている物でいいじゃないかと、大きい方のボトルをカゴに入れる。
「あっ……」
「慣れてない物使って肌が荒れでもしたら大変じゃないか。後は化粧品か?」
「ええと、はい」
結局、いつも使っているシャンプーとトリートメント、化粧水に乳液と歯ブラシ、洗顔剤で……それからヘアアイロンまで買ってもらってしまった。
まるで同棲でも始めるかのような品の数々にどきどきしてしまう。
「あの、こんなに、ありがとうございます」
「俺の都合で泊まってもらうんだ。これくらいどうって事ないさ。さ、後は酒とつまみを買って帰ろうか。さっき薬局で二日酔い予防のドリンクも買ってきた。念の為、ってヤツだな」
前回の二日酔いがよほど堪えたのだろう。
おじさんは持っていた袋を持ち上げてにっかり笑った。
それから私達は地下の食品売り場で焼酎にビール、リキュールにお茶、とにかく色々な飲み物とおつまみ数品、乾麺とお菓子と山葵のおやつを買って帰路につく。
二人並んでの帰り道は、大きな袋が邪魔をして手を繋げない。
少し寂しい気もするけれど、私は今日これからの事が楽しみで、袋の重さも、風の強さも、そんな事は何も気にならなかった。
玄関のドアを開ければそこには山葵が、苛ついたように尻尾をぱたぱたさせながらどっかりと座っている。
「すまんな山葵、ちょっと買い物に行っていたんだ」
にゃあ――低い不満気な鳴き声から伝わるのは寂しさと苛立ちで、ごめんごめんと頭を撫で、先程買った猫用のおやつを見せれば山葵の目の色はころりと変わる。
「山葵の為におじさんが買ってきてくれたんだよ。感謝しないとね」
にゃおん――今度は高い声で鳴き、おじさんの足へ擦り寄る山葵。
ここまで物分りが良いと、まるで中に人が入っているのではと考えてしまう。
それはおじさんも同じだったようで、現金な猫だなぁと呆れたように笑ってた。
酒を飲む前に風呂に入っておくか――おじさんはそう言ってお風呂のお湯を張り始めて、私の心は俄かにざわつき始めていた。
確かにお酒を飲んでいる時のお風呂は辛いし、かといって飲んだ後、寝る前では面倒臭がって入るかどうかも分からない。そうなれば今入っておくのが一番良いのだけれど、なんというか、人様の家のお風呂というのはやっぱり落ち着かない。男性の、それも恋人の家だという事を、私はすっかり忘れていたのだ。
別に何を危惧している訳でもないけれど、緊張してしまってはおじさんとの会話すらままならない。そうこうしているうちにお風呂も沸き上がり、先に入っておいでとおじさんが一言。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
おじさんの事が嫌な訳じゃなかった。ただ私が、臆病なだけ――
がらりと開けた扉の奥は、片付いているとは言えないけれど、決して汚くはないお風呂場で、意外とよく掃除をしているんだ、なんて感心する。化粧を落として髪と体、顔をささっと洗い、ちゃぽん、お湯に浸かって考えるのは今日のおじさんとの会話とこれからの事――
おじさんは昔から私を知っていた。気に掛けてくれていた。
こんなに嬉しい事はあるだろうか。私の、あまり褒められたものではない、良いものでもないマイナスだった人生はおじさんのお陰で輝きを取り戻した。
すっぱり途切れた記憶も、おじさんのお陰でまた繋がった。
優しくて頼もしいおじさんは間違いなく、私のヒーローで、私はそんなおじさんの事が大好きで……そして今、そのおじさんを支える立場に私はいるのだ。
「私に任せて下さい」
助けてくれたおじさんに、仲間に、家族に、しっかり恩を返します。
小さく呟いた自分自身へ約束は、心に、浴室に反響する――
お風呂、ありがとうございます――大分大きめのおじさんの部屋着、Vネックのシャツに身を包んで脱衣所から出る。
おじさんもどうぞと声を掛ければテレビを観ていたおじさんは着替えを片手に部屋から出て行って、一人と一匹残された部屋で、そわそわと自分の格好を気にする。
袖は余ってゆらゆらと揺れ、丈は元から履いていたショートパンツが隠れてしまう程長い。男性の体というのはこんなにも大きいのかと、改めて性差を感じるけれど……なんというか、これでは下に何も履いていないように見えてしまうのでは無いか。
どう見られるのだろうかと落ち着かなくて、シャツを全て中に入れてみたり、ショートパンツをギリギリまで下げて履いてみたり、試行錯誤を繰り返し、裾の一部をわざとショートパンツに引っ掛けて、これなら、問題なさそうだと二度頷く。
服の匂いを嗅げばいつものおじさんの匂いで、寄ってきた山葵は不思議そうにすんすんと匂いを嗅ぎ、私もまた自分の洗濯物とは違う匂いに困惑していた。
しばらくしておじさんがお風呂から戻ってくる。お風呂上がりで暑いのか、生地の薄いシャツを着ているおじさんは、私が思っているよりもがっしりとした体形で、恥ずかしさから思わず目を逸らす。
そしておじさんもまた、落ち着かない様子で、いよいよ何を話せばいいのかわからなくなってしまう。聞こえるのはテレビから流れる芸能人のトークと笑い声だけ、そして私達二人の間に流れるのは沈黙――
「女物のシャンプーがあるから自分の家じゃないみたいだった」
そんな中で先に口を開いたのはおじさんだった。長い髪をタオルで拭きながら、照れたように笑う。
やっぱりあの大きなボトルには違和感があったらしい。私も何か返さなければと頭を働かせ、買った物を並べてる時はマーキングしてる気分でしたと答えれば、おじさんは思いついたように引き出しから何かを取り出し、そのまま黙って私の隣に座る。
「おじさん?」
また黙ってしまうのが怖くて聞き返せば、おじさんは私の手を取り、何か冷たくて固い物をぎゅっと握らせる。
「自分の家と、バイト先と、詩歌ちゃんはもう居場所にはもう困ってないかも知れないが……」
開いた手の中には、ぎらり、鈍く光る鍵――
「この部屋の鍵だ。いつでも来い。俺はもう目を逸らさないから、いつだって詩歌ちゃんの力になるから」
な、とおじさんが差し出したのは、お風呂上りのふやけた小指。
きゅっと小指を絡めれば、そのまま二人笑って指きりを交わす。
「私、頑張るから」
「ああ、ずっと。見ているよ――」




