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思い出と良い夢を

 俺は、小さい頃の嬢ちゃんを知っている――

 狭いキッチンで向かい合い、マグカップを片手に話し出したのはおじさんがまだ学生で、田舎から都会へ出てきたばかりの頃のお話。

「俺も、よくあの公園に行っていたんだ。貧乏学生だから行く所なんてなくてな……て、この話は前もしたか。そうだな、別の話にしよう。俺は憧れだった都会の、憧れだった作家が通っていた大学に行きたくて、必死に勉強して、無事に合格して、そうして都会に出てきたんだ。でもな、俺の周りは皆高い志を持った奴らばかりだった。官僚になりたい奴、研究者になりたい奴……とにかく、でっかい夢を持っている奴が沢山いてな。その時の俺は作家になるだなんてただの憧れだったから、自分の夢も、考えも、何もかもが薄っぺらく感じて悩んでいたんだ。確かな目標を持った人間は伸びるのが早い。周りとの差は広がるばかりで、俺の悩みも大きくなるばかり。そうして気付けば、暇になると気分転換にあの公園へ行くようになっていたんだ。そして、そんな時にある女の子と出会う事になる。それが嬢ちゃんだ」

 私……?

 どうして私がおじさんと?

 確かに公園にはよく行っていた、色々な大人の人と出会った。お話をした。

 でもどの思い出もいまいちピンとこない。記憶の糸を手繰り寄せ、過去を辿ってみるけれど、糸は複雑に絡まり、更には所々でぷつぷつと切れてしまっているようで、どうしてもおじさんまで辿り着けない。

「私、ですか」

「そう。ご本のお兄さん、と言えば分かるかな」

「ちょっと思い出せないです。あの、もう少し話を続けてもらっていいですか?」

ごめんなさいと一言謝れば、おじさんは少し悲しそうに頷いて話を続ける。

「女の子はいつも公園にいた。他の子ども達が遊具で遊んだり、楽しそうに走り回っていたりする中、その子だけはベンチに座って、行儀良く本を読んでいたよ。それは絵本だったり、未就学児が読むには少し早いかも知れない、小学生向けの児童文学だったり。読んでいる本は毎日違った。着ている服も履いている靴も、女の子はいつも小奇麗な格好をしていて、きっと親御さんに大事に育てられているのだろう、最初はそう思ったさ。でもある時、違和感に気付いたんだ。女の子の周りには親と思われる人間がいなかった。いつも一人だったんだよ。そしてその子は時たま声を掛けてくれる大人がいると、まるで話しかけられるのを待ってましたと言わんばかりの、それはそれは嬉しそうな笑顔で話し出すんだ。そうだな、花で喩えるならひまわりみたいな。きらきらした眩しい笑顔だった――」

 おじさんはそこまで話すと、少し話が長くなりそうだからと、私に座るように促してくる。

 言われるがままに移動して、すっかり片付いたテーブルを挟み、向かい合うように座れば、おじさんはまた続きを話し出す。

「あの子はあまり親に構われていない、俺はそれに気付いたけれど、決して自分から話し掛ける事はなかった。当たり前の事を言うかも知れないが、当時の俺は今よりずっと幼くて、ガキだったんだ。子どもの相手をしてる暇はない、子どもの相手は苦手だ、間違っても俺に話しかけるなよ、って思ってたさ。でもある日突然、女の子に話しかけられた。お兄さんはいつもなんのご本を読んでいるの、って。いつも話しかけられるのを待っているだけだった子が、おどおどしながら話しかけてきたんだ。まさか話しかけられるとは思ってなかったから驚いたよ。そこから女の子との交流が始まった。彼女の名は文屋詩歌。これは紛れも無く、嬢ちゃんの話だ」

ちら、と目配せされて頷けば、薄ぼんやりとした記憶が蘇る――


「わたしね、しいか。文、屋、詩、歌っていうの」

木の枝で地面に書くのは覚えたての、自分の名前。

 蚯蚓ののたくったような字は、両親に褒めてもらいたくて頑張って覚えた、私が初めて書けるようになった漢字。

 私を無視していたお兄さんもそれを見ると一瞬目を丸くして、それから少しぎこちない様子で褒めてくれる。

「漢字で名前を書けるなんて、すごいね。文屋詩歌、雅な名前だ」

「みやび?」

「気品に満ちた……うーん。ちょっと難しいかな。とにかく綺麗な名前だね」

「そうかな。へんななまえだとおもう」

「いつか気付くよ。とっても綺麗な名前だと」

お兄さんはにっこり笑って、それから自分の持っている本を私に見せる。

 漢字が読めないから、それがなんの本だったかは覚えていない。

 でも私は、さも解っているような顔で本を手に取り、最後にお兄さんに本を返してこう言った、と思う。

「おおきくなったらよむね!」

それがお兄さんと初めて会った日の出来事だった――


 差し出された温かいココアを飲んで、おじさんの顔を見れば、全部忘れていなくて良かったよ、と安心したように続きを話し出す。

「しばらくして詩歌ちゃんは、妹の体が弱いから両親は妹に付きっきりなんだと教えてくれたよ。お姉ちゃんだから一人でも平気、そう言った詩歌ちゃんはとても寂しそうでな。それからだ。詩歌ちゃんに会うと本の読み聞かせをするようになったのは。部屋にある簡単そうな子供向けの本、詩歌ちゃんが読んで欲しいと持ってきた本、ネタが尽きれば詩歌ちゃんが好みそうな本を買ってきては公園のベンチで読むようになった。気付けば詩歌ちゃんだけじゃなく、他の子ども達まで集まるようになっていたよ。ご本のお兄さん、なんて呼ばれて、こそばゆかったな。でも、何より印象に残っているのは読み聞かせをしている時の詩歌ちゃんと他の子ども達の顔だった。とても輝いていて、もし、自分の書いた物語でこんな顔をしてもらえたら……。そう思ったから、俺は本気で作家を目指す事にした。大学に通って、アルバイトをして、作品を書いて、忙しいけれど、必ず詩歌ちゃんには会いに行っていた。どうしてだか、嬢ちゃんは覚えてるか? 初めてあった日に、指切りをしていたんだよ――」

 指切り……うっすらと、ゆっくりゆっくり浮かび上がるのは、夏の公園、蝉が鳴く中で交わされた約束。

 がんばるから、みていて――それは、いつも一人でいる事をお兄さんに指摘された時の約束だった。

「いつも一人だった詩歌ちゃんは、他の子に遊びに誘われてもなかなか返事が出来ない子だった。元々引っ込み思案な性格で子供同士の付き合いが苦手な人間なんだと思っていたけれど、それもどうも違うようで、心配になって聞いたら前に意地悪された事があるのだと教えてくれた。本当は仲良くなりたいと漏らした詩歌ちゃんに、ゆっくりでいいから仲良くなっていけばいいと伝えて、そこでの詩歌ちゃんの返事が、頑張るから見ていて、だったんだ。小さな腕が小指を差し出して、約束を迫ってくるもんだから、子どもは本当に面倒な生き物だと思いながら指切りをしたよ。今じゃなんともないけれど、おじさん昔は子どもが苦手でな」

あの時は本当に参ったよ、とおじさんは困ったように笑って頭を掻く。

「段々思い出してきました。その続き、聞かせて下さい」

靄が晴れてきた。記憶の糸が解れ、繋がっていく。

 なのにおじさんは浮かない顔で、この後に何があったのか、一層気になってしまう。

「おじさん?」

「ああ、続きだな――」


 途切れ途切れの言葉で話し出したのはその後の出来事。おじさんが作家を目指すようになってから、しばらくしての出来事だった。

「一年とちょっと経ってから、詩歌ちゃんにも何人かの友達が出来た事に気付いたよ。いつものように公園に行ったら、楽しそうに遊ぶ詩歌ちゃんがいたんだ。友達は俺が毎日続けていた読み聞かせに来ていた子達で、その時の詩歌ちゃんは子どもらしい、やっぱりひまわりのような笑顔だったよ。読み聞かせの後、詩歌ちゃんは嬉しそうに友達が出来た事を報告してくれた。良かったな、と頭を撫でて、そうしたらもっともっときらきらした顔で笑うんだ。後ろからは友達が詩歌ちゃんを呼んでいて、俺は心底安心したけれど、少し寂しさを感じたんだ。父親代わりにでもなっていたつもりだったんだろうな。でも詩歌ちゃんはその友達のところへは行かず、俺と話す事を選んだ。俺は、そろそろ詩歌ちゃんから離れないといけないんだと悟ったよ。親でもなければ兄でもないし、友達でもないんだ。それにこのままだと折角出来た詩歌ちゃんの友達が離れていってしまう。だから俺は、それから徐々に公園に行く回数を減らしていったんだ……。しばらくしてからランドセルを背負った詩歌ちゃんに会った。いつの間にか小学生になっていたらしく、俺に駆け寄って来るなり、似合ってますか、なんてころころと笑うんだ。その時だったかな、梅の花が好きだと教えてもらったのは……。詩歌ちゃんはひまわりみたいに笑うね、そう言ったら詩歌ちゃんはこう返したんだ」

「ひまわりより、梅の花みたいな人になりたいです」

無意識に言葉を発すれば、心の中に思い出が色鮮やかに広がり、絡まった心は解れ、真っ直ぐな一本の糸となる。そして花は、枝いっぱいに咲き誇る――

「覚えていた、か?」

「いえ、今思い出しました」


 そう、全て思い出したのだ。梅の花は、私の両親が好きな花。

 だから私の好きな花。花を見に行った時に両親が口を揃えて言っていた言葉は"雅"。お兄さんが私の名前を雅な名だと言ってくれた。だから名前に見合った、雅な、梅の花のような人間になりたかったんだ。

「梅の花か。詩歌ちゃんらしくて、似合っているね」

お兄さんはそうかそうかと優しく微笑み、私の頭を一度撫でた。

 それから一瞬だけ寂しそうな顔をして、本を読み出す。もう、お兄さんの読み聞かせを聞きに来る人はいなかった。

 私の為に選んでくれたお話を、私だけの特等席で、私だけに聞こえるように読み上げたお兄さんは、友達と仲良くね、と一言残して去って行った。それが私の、お兄さんとの最後の思い出。


 あの後、お兄さんと会えなくなっちゃって、すごく寂しかったんですよ。冗談っぽく笑って言えば、おじさんは何か、とても傷付いた顔をして、すまない、と頭を下げて謝るばかり。

「お、おじさん? どうしたんですか……?」

どうすればいいのか分からず、おろおろとおじさんの隣へ飛んでいき、頭を撫でてどうにか宥めようとするけれど、おじさんはそれでも頭を上げようとしない。

「詩歌ちゃん、ごめん、ごめんな……俺、知ってたんだ。詩歌ちゃんがいじめられていたのを。詩歌ちゃんに会わなくなってから何年か後、詩歌ちゃんによく似た女の子が、詩歌ちゃんの友達によく似た子にいじめられているのをたまたま見たんだよ。だが俺はその子達を別人だと思い込もうとした。他人の空似だと。詩歌ちゃんがこんな目に遭うはずがないと、あんな良い子達が詩歌ちゃんをこんな目に遭わせるはずがないと! 結局俺は何もしないで、声も掛けずに逃げた。見て見ぬ振りをしたんだ。それからも度々詩歌ちゃんを公園で見かけた。ぎこちない笑顔で友達と接していた詩歌ちゃんから徐々に笑顔が消えていき、周りから人が消えていき、やがて一人になって、最終的には詩歌ちゃんは公園に来なくなっていた。今でも後悔しているよ。俺が詩歌ちゃんの友達になっていれば、声を掛けていたら、詩歌ちゃんの話を聞いてあげる事が出来れば、そうすれば嬢ちゃんが辛い想いをしなくて済んだんじゃないかって……嬢ちゃんが悔やんでいた過去が変わっていたんじゃないかって……すまない……。嬢ちゃんの家の前、表札を見て初めて嬢ちゃんの名字を知った日、嬢ちゃんが泣きながら俺に縋った、嬢ちゃんがあの詩歌ちゃんなんだと確信したあの日から、俺はずっと謝りたかった。ごめんな、許してくれ……」

 消え入りそうな声で謝るおじさんの目には、涙。

 ああ、後悔してたんだ。私と同じく、ずっとずっと、私なんかの為に……。

 ぎゅっと抱き締めたおじさんの体は温かく、撫でたおじさんの髪は相変わらずごわごわとしていた。

「私は、おじさんの嬢ちゃんは、詩歌ちゃんは、もう何も悔やんではいません。だから謝らないで下さい。私、お兄さんとの思い出は楽しいものばかりでしたよ。友達との思い出は少ないし、いじめられる事もあったけれど、でももう何も気にしてないんです。今の私には大好きなおじさんがいて、バイト先の頼もしい仲間がいます。家族とも仲が良いです。それで十分です。もし私が真っ当な人生を歩んでいたらおじさんとだって出逢えなかったかも知れません」

 だからおにいさん、わたしのことはきにしないで――伝えた言葉は私なりの、真っ直ぐな言葉。

 おじさんは何も悔やまなくていいんです、と最後にもう一度いって頭を撫でて、今日は私から、唇は恥ずかしかったので、ちゅっと額にキスを落とせばおじさんは驚いたように顔を上げる。

「謝らないで下さい。そうでなければ、私の事を詩歌ちゃん、ってこれからそう呼んで下さい。そしたら許してあげます」

悪戯っぽく笑って、おじさんの髪を梳いて流してそっと撫でて、どうでしょうかとおじさんに問えば、おじさんはわかったと微笑んだ。

「詩歌ちゃん、俺に作家になるきっかけをくれてありがとう。詩歌ちゃんにデートに誘われて、二度目の指切りを交わしたその日から、俺は詩歌ちゃんの事が好きだった――」


 好きだった、と一言残し、すやすやと寝息を立てるおじさんの隣、私も一眠りしようと横になれば、山葵が出てきてにゃんと鳴く。

「山葵は恐ろしく空気が読める子だね」

いいこいいこと頭を撫でて、一緒に寝ようと隣へ誘う。

 大人しく私の隣に寝転がった山葵は心地良さそうに目を閉じて、なんだか急に眠くなる。

「おやすみなさい。良い夢を――」

微睡みの中で呟いた言葉は、一人と一匹に届いているだろうか。

 どうか私にも良い夢を、心の中でそう願い、おじさんの部屋での昼下がり、私は深い眠りに落ちていった。

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