愛情はお元気ですか
今こそ想いを伝えます――意気込んだのはいいものの、玄関ドアに手をかけたまま、動けない私がいた。
時刻は既に午前二時、おじさんはもう自販機の前にいるのに、最後の一歩が踏み出せない。覚悟は決めたはずなのに、準備は出来ているはずなのに、どうしても一歩、踏み出せない。
かたかたと震える手を押さえて、何度か大きく深呼吸していれば、不意に後ろから声を掛けられる。
「お姉ちゃん、これから逢引?」
こんな時間まで勉強していたらしい、パジャマに眼鏡、片手にマグカップを持った妹は心配そうに私の顔を覗き込むと、空いた手を、私の手に重ねる。ドアノブを握りこんだ手が妹の手に包み込まれて、温度が心地いい。
「お姉ちゃん、今日は部屋着じゃないんだね」
「うん」
「何かあるの?」
「告白」
「そっか」
「うん」
「手、震えてるよ」
「平気」
「お姉ちゃんのうそつき」
「嘘じゃなくて強がりだよ」
流れるように交わされる会話の中、妹は私の心中の、何を読み取ったのか、ぐっとレバーのドアノブを下に降ろす。
そのままドアを前に押せば私の意志とは関係なくドアは開いてしまう。
「あっ……」
ちょっと待って、まだ――私がドアを閉めようとする力より、妹が私を押し出す力の方が強かった。
「大丈夫、だって私のお姉ちゃんだもん。頑張ってね」
いってらっしゃい、後ろから聞こえた声に振り返れば、親指を立てた妹が健闘を祈る、なんてにっこり笑った。
静まり返った深夜の住宅街、妹のお陰でなんとか外には出れたけど、相変わらず緊張したままの自分が情けない。
おじさんは玄関から出てきた私を見つけると軽く手を上げて手招きして、私の心臓はどきりと跳ねる。
ああ、おじさんだ。謝らないと、謝らないと……。気持ちばかりが先走り、駆け寄って開口一番に言った言葉は
「ごめんなさい! この間は、ごめんなさい。途中で帰ってしまってごめんなさい」
途中で黙って帰った挙句、電話もメールも無視してたのだ。
嫌われてしまっても仕方がない、怒られてしまっても仕方がない。本当にごめんなさい、と、下げた頭を撫でられて、顔を上げればおじさんは困ったような笑みを見せた。
「謝らなくていいんだぞ。俺が嬢ちゃんを放ったらかしにしたのが悪いんだ。ごめんな……」
そう言って、おじさんは小銭を取り出してココアを買い、ほれ、と私に手渡す。
お礼を言ってプルタブを起こせば、おじさんは少し緊張したように、もう一度、すまなかったと一言、この間の事を詫びるのだった。
違う、違う違う。おじさんが謝る事なんかないんだ。
だからそんな顔しないで下さい……。
これじゃあもう隠しきれなくなっちゃうじゃないですか。
「おじさんは、悪くないんです。私、あの時逃げ出しちゃったんです。あの女性、都さんが来て、気付いちゃったんです。私はおじさんの事を何も知らないんだ、って。名前も、職も、どんな生活をしているか、何が好きで、何が嫌いか――おじさんの事、何もかも知りませんでした。今まで聞こうと思えばいつだって聞けたのに、なんだか聞いちゃいけないような気がして、聞けなかったんです。名前も何も知らない間柄だからこそ成り立っている関係なんじゃないか、って。でも、違いました。私、拒まれるのが怖かっただけなんです。教えてもらえなかったら、内緒にされたら、辛いと思ったから……。私、本当は、おじさんの事をもっと知りたかったんです。私だって、おじさんの支えになりたかったんです。ああ、もう……なんかだめですね。本当はこんなつもりじゃなかったのに……泣いたりなんか、しないはず、だったの、に……ごめ、ごめんなさい」
ぐちゃぐちゃと絡まった思考の糸を解くように、ゆっくり、ゆっくり、嫌な言い方になってしまわないように伝えようと思ったけれど、上手に伝えられない。
もどかしくて涙が溢れてきてしまう。
皆からいっぱいアドバイスをもらったのに、頑張れ、って応援してもらったのに、どうしよう。
どうしよう。視界がぼやけて、これじゃあおじさんがどんな顔をしているのかも見れないじゃない……。
想いを吐き出した後でも、おじさんからの返事は来ない。
失敗、しちゃったのかも知れない。嫌われてしまったかも知れない。
ごめんなさいと、もう一度謝ろうとすれば、おじさんに抱き寄せられる。
何やってんだ俺は――耳元で聞こえた声は、震えてて、いつものおじさんらしくない。視界の端で、ちかちか、自販機の灯りが付いたり消えたりを繰り返して、不安定な点滅はまるで私とおじさんの心のよう。
「嬢ちゃんごめんな。俺も、怖かったんだ――嬢ちゃんに俺の事を知られるのが……。今夜は全部、話すよ」
すっと体が離れたかと思えば、おじさんは私の手を引き、公園の方へと歩き出す。
歩きながら、ぽつり、ぽつりとおじさんが話し始めたのは、おじさんの、自分自身の事。
おじさんの名前は鴇巣一文。もう何年も前にヒット作を生み出したミステリー作家。
私はおじさんの書いた作品を読んだ事がないけれど、当時はそこそこ売れたらしく、ドラマ化だってしたらしい。
でも結局売れたのはその一作だけ。
こんな一発屋作家、今じゃ覚えている人なんていないだろうとおじさんは自嘲気味に笑う。
それでもサラリーマンと兼業で作家を続けていたおじさんに、ある時転機が訪れた。結城紅丸-ゆうき べにまる-という名義で、仕事欲しさに書いた官能小説が認められ、スポーツ新聞での連載を持つ事になったのだ。
仕事にも恵まれ、おじさんは晴れて専業作家の仲間入りを果たし、それから今まで官能小説を書き続けてきたらしい。
「最初は嬉しかったさ。好きな事で飯を食ってけるなんて、そんなに幸せな事はない。でもな、ある時思ったんだ。俺が本当に書きたかったものはなんだ? ってな……。悩んだよ。俺の書く文章を好きだって言ってくれる人がいる。だが俺が本当に書きたかったのは、爽快な……そうだな、快刀乱麻を断つ、って言おうか。兎に角そんなミステリーだったんだ。そうして自分の思い描いていた未来との違いに戸惑って、スランプに陥って……そんな時に相談に乗ってくれたのが担当の都ちゃんだった――」
公園のベンチに座ってタバコに火を付けたおじさんは、少し間を空けてから続きを話し出す。
どうせ無理矢理担当にさせられたんだろう、おじさんは最初こそそう思ったらしい。
「しかしそうじゃなかった。彼女は仕事も出来るし、人脈が広かった。俺の悩みを聞くや否や、すぐに編集部の方に声を掛けてくれたよ。全然上手くいかなかったが、それでも色々な所に俺を売り込んでくれて、やっと俺の名前の、鴇巣 一文名義での新作を出せるようになったんだ。……でも、俺は長く離れ過ぎていたみたいだった」
あれだけ書きたかった話なのに、もう全て決まっているのに、ちっとも筆が進まない。
そうして毎晩、気分転換にあの自販機の前に行くようになったのだと教えてくれた。
「しばらくして、嬢ちゃんの存在に気が付いたよ。外を見つめる嬢ちゃんは物憂げな表情で、それは宛ら深窓の令嬢のようだった。俺は柄にもなく、見惚れてたよ。次の日も、その次の日も、嬢ちゃんは窓の外を見ていた。嬢ちゃんにも何か悩みがあるのだろう、すぐにわかったさ。だから手招きして、嬢ちゃんが気付いてくれるのを待っていた。嬢ちゃんが気付いて、会いに来てくれた時は嬉しかったよ。最初は悩みでも聞いて慰めてやるつもりだったが、俺が思っていたより嬢ちゃんの傷が深そうだったから、何も聞けなかった。それから毎晩嬢ちゃんと話をして、仲良くなって、頑張る嬢ちゃんを見ていると俺も頑張らなきゃいけない気になって、仕事もうまくいくようになったよ。でもなんでだろうな。仲良くなればなる程に、前に進めば進む程に、俺は自分の事を話すのが怖くなっていった……」
タバコの灰が、はらはら、落ちていく。
おじさん、怖がりなんだ――おじさんはそう言って、困ったように笑った。
「おじさん、いかがわしい小説書いてるから、嬢ちゃんに知られたら嫌われると思ったんだ。いくら別名義でも、そんなのネットで調べりゃすぐにわかる。だから、名前も職も、教えられなかった。あの日、デートの次の日、全部話そうと思ったんだが、途中で都ちゃんが来ちまった。都ちゃん、俺の新聞での連載が終わるのと同時に寿退社する予定でな、俺の部屋の私物を全部取りに来たんだよ。都ちゃんが嬢ちゃんに挨拶した時に彼女を黙らせたのは、嬢ちゃんには全部俺の口から話したかったからだ。結局、それが嬢ちゃんを傷付けていたんだな……。ごめんな、嬢ちゃん」
そっか、都さんは彼女じゃ無かったんだ。
おじさんも、話すのが怖かったんだ。そっか、そっか……。
「そっか……そうだったんですね。よかっ、た、全部話してもらえてうれし……です」
止まったはずの涙はまた、ぽろぽろと溢れ出して、おじさんはもう一度、私の体を抱き締める。気持ちを伝えるなら、今しかない――
ざわ、ざわ、強い風が公園のブランコを揺らして、私はおじさんに気付かれないように深呼吸をする。
すぐに風は止み、おじさんの体は離れ、誰もいない深夜の公園、私とおじさんは向き合って立っていた。
「おじさん――」
人差し指で涙を拭って口を開く。大丈夫、今なら伝えられる。背伸びしない、わかりやすい言葉で、ちゃんと届くように、上手に伝えられる自分をイメージして――
「私、おじさんの事が好きです。私にもう一度、きらきらした外の世界を教えてくれた、友達になってくれた、優しくしてくれた、おじさんが好きです。今度は私にも、おじさんを支えさせて下さい」
笑顔で、真っ直ぐ目を見て、ちゃんと言えた。
大丈夫、不安なんてない。もしこれでだめなら、おじさんは優し過ぎる人なんだと諦めよう。
どんな答えでも今なら真っ直ぐに受け止められる気がしたから、返事が遅くてもちっとも気にならなかった。
「……こんなおじさんでいいのか?」
しばらく固まっていたおじさんは、私の告白の返事よりも先に、不安そうに聞いてくる。
勿論、そんな事気にした事ないもの。いいに決まってる。
「勿論です。だって好きなんですもの。おじさんは、だめですか?」
返事を急かすように聞けばおじさんは安心したように表情を緩め、さっきよりも優しく、私を抱き寄せ、今まで聞いた事もないような甘い声で囁くのだ。
「だめな事なんてあるか。俺も、好きなんだから……」
好きだぞ、嬢ちゃん――頭が回らない、とろとろと溶けてしまいそう。
心地良さに身を任せておじさんに体を預ければ、顎を持ち上げられてそのまま顔が近づいてきて……
「あ……」
軽く触れるだけの優しい口付けに私の熱は急上昇。おじさんの指は名残惜しそうに私の髪を梳いて、夜風が火照った体を冷ます。
「すまない、我慢出来なかった」
謝っているのに、その言葉を発する口は悪戯っぽく弧を描く。
反省の色なんて微塵もないその表情はまるで少年のようで、そんなギャップなんてずるいじゃないか、と思わせるのだった――
それじゃあ、おやすみなさい。いつもよりも何倍も、何十倍もどきどきして、充実していた夜にさようなら。ベッドに寝転んで、眠りに落ちる寸前の今でも、なんだか心が落ち着かない。私、初めてキスをした。思い出すだけで嬉しく仕方が無くて、どきどきしちゃうけれど、私はすっかり聞きそびれていた事があったのだ。
どうしておじさんは私の名前を知っていたの?




