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どうぞお気になさらず

 文屋ふんや詩歌しいか、それが私の本名。

 幼い頃はしいちゃん、と呼ばれていたけれど、両親からも、妹からも、もう随分と長い事名前では呼ばれていない。

 最後に名前で呼ばれたのは、アルバイトの面接の時だったか――うなされていたおじさんは、とん、とん……幼子にするように、背中を叩いてあげれば、苦しそうだった顔も穏やかになり、すぐに横になってすやすやと眠り始めた。

 また、あれ程鳴いていた山葵も今では私の膝の上、おじさんと同じように気持ち良さそうに寝息をたてている。

 ひとまずはこれでいいかと安心したけれど、でも、どうしておじさんが私の名前を? 苗字なら表札に書いてあるから知っていてもおかしくはない、だけど流石に名前までは分かるはずもなく、私は一人、ぼうっと考え事をするのだった。

「しいちゃん……か」

 懐かしい。そう呼ばれていたのは中学生までだったか、高校以降は文屋さん、と苗字で呼ばれる事が多かったもの。

 もしかしたらおじさんはこれから私の事を名前で呼んでくれるかも知れない。呼び捨てか、ちゃん付けか、おじさんの声で呼ばれたらきっと私は嬉しくて、嬉しくて、溶けてしまうかも知れない。

 にやにやとこれからの事を考えていれば、にゃおん――山葵の一鳴きで現実に引き戻される。

 自分の食器の前でうろうろしている姿は餌を強請っているみたい。どうしよう、この家の事は全くわからないし、このままなのも可哀想で見ていられない。

「もう……おじさん、起きて下さい? 可愛い山葵くんの餌の時間ですよ」

 結局山葵を放っておく訳にもいかず、おじさんの肩を軽く揺さぶって起こしてみる。

 眉間に皺が寄っていて、その表情はいかにも不機嫌そうだけど、大事な山葵の為、これくらいじゃへこたれていられない。

「おじさん、いい加減に起きないと……嬢ちゃんは山葵を連れて帰っちゃいますよ?」

耳元でそう声を掛ければ、それはいかん、と眠そうなおじさんの声。

 やっと起き上がったおじさんは、頭を抑えたまま、黙ってしまった。二日酔いですか、と立ち上がり、カップにお水を注いでおじさんに手渡す。

「山葵くんが餌を要求していたので起こしました。餌の場所だけ教えてくれれば後は私が全部やるので、寝てて構いませんよ」

 するとおじさんはお水を一気に飲み干して、キッチンの戸棚を指差した。

 ありがとうございます、とお礼を言って戸棚を開ければその中には猫の餌。袋の音に気付いた山葵は私の元へ駆けてきて、私の周りをぐるり、回り始める。

 余程餌が楽しみだったのか、私が食器に餌を入れた傍から食べ始めて、それはもうご飯に夢中といった具合。

 一方おじさんは、相も変わらずこたつに突っ伏したまま。

 やる事もなく退屈だったので、何の気なしに散らかったお酒の空き缶、空き瓶を纏め始めるけれど、缶ビールにウイスキー……何やら色々と飲んだようで、見ている私まで頭が痛くなってしまう。

 酔いが醒めてからまた会おう、と言っていたのにこんなになってしまうまで飲むだなんていよいよ心配だ。

 昨日の顔といい、自棄酒といい、原因もさっぱりわからないし、なぜか私の名前を知っているし、もう何をどう考えていいのやらと、私は頭を抱えるしかないのだ。

「しいちゃん……」

ぽつり、名前を呼ばれて顔を上げる。

 寝言なのはわかっていたけれど、おじさんの傍へ行き、昨夜と同じように頭を撫でる。少し痛んだ、ごわごわした髪を梳いて、流して――

「そろそろ、気付いてはもらえませんか……」

 無邪気に想いを伝えてしまえる程、子どもじゃない。

 上手に駆け引きできる程、大人でもない。

 子どもと大人の狭間で動く想いは行き場をなくし、そのまま大きくなって、爆発してしまいそうで、少しずつ、少しずつ、小さな声にして漏らしていく――

「好き、ですよ」

寝ているおじさんにはちゃんと言えるのに、本当はおじさんが起きていて、ちゃんと聞いていてくれればいいのに、なんて、そんな上手くいくはずないのに。

「ごめんな、しいちゃん」

「……気にしないで下さい」

昨夜と同じ寝言はまるで、私の想いには答えられないと言っているように聞こえて、辛い。

 本当は今すぐに逃げ出してしまいたいけれど、おじさんが寝ている以上それは出来ない。悶々とした気分を紛らわすように山葵を呼べば、何かを察した山葵はおじさんの肩に飛び乗り、鳴き始める。

「ああ、山葵、おじさん寝てるから静かにしよう? ほら、私が遊んであげるから」

猫じゃらしを取り出しても、おやつで気を引こうとしても、山葵は知らん振り。無理矢理引き剥がそうかと考えている所でおじさんは目を覚まし、むくりと起き上がってごめんな嬢ちゃん、と一言謝った。

「何も気にしていないですよ」

 私は何も気にしてないもの。だからおじさんは何も謝るような事をしていない。

 気にしないで下さい、もう一度言ってお水を差し出して、そうすればおじさんは少しずつ、ゆっくりとお水を飲んで、ふにゃりとした、曖昧な笑みを浮かべる。

「少し飲み過ぎた。介抱してくれてありがとな」

 嬢ちゃん――ぽんと頭に乗せられた手は温かく、おじさんに触れてもらえた事が嬉しくなる。けれど、おじさんはもう詩歌、とも、しいちゃんとも呼んでくれない。

 おじさんの様子を見るに、全く記憶にはないみたいで、そしておじさんが覚えていない以上、なぜ私の名前を知っているのかだなんて聞けるはずもなく、結局何もなかったかのように振る舞う他なかった。


 散歩に行こう――そう言ったのはおじさんで、日曜日の爽やかな朝、二人手を繋いで線路沿いを歩く。

 のんびりとお話をしながらのお散歩は、おじさん曰く、酔い醒まし。

 そのまま朝ご飯を買って家に帰ろうという事だったので、大通りにあるコンビニへ入り、おじさんは軽く食べられるものがいい、とミカンのゼリーとスポーツドリンクをカゴに入れる。

「嬢ちゃんは、何がいい?」

 正直私もあまりお腹は空いていないけれど……何かを買ってもらうなら中華まん、かな。

「じゃあ、あんまんがいいです」

レジ横にある中華まんをお願いすれば、了解、とおじさんはレジへ向かう。

 ゼリーとスポーツドリンクに中華まん、それとタバコ。それが私達の朝ご飯。

 コンビニの小さな袋をぶら下げて歩く大通りは朝の匂い。冷たくて寒いけれど、繋いだ手はぽかぽか、温かい。

「そうだ、飯は公園で食うか」

あんまん、冷めちまうもんな、と手を引かれて入った近所の公園。

 ここへ来るのは、山葵と出会った日、現実を受け入れ、そしておじさんの腕の中で泣いたあの日以来。思い出すと恥ずかしくもあるけれど、それでも過去の自分と向き合えた、良い日だった。

「朝の公園ってのもいいもんだな」

 ベンチに座ったおじさんがスポーツドリンクを飲みながら言う。

 見回せばラジオ体操を終えたおじいさん、おばあさん達が談笑し、それに付いてきた子ども達が遊具で遊んでいる。そういえば昔は私もこうやってよく公園に来てたっけ……。

「懐かしいです。よく小さい頃は遊びに来てました。妹が生まれた頃、両親は妹に付きっ切りになってしまって……そうしてよく一人でここに遊びに来てたんですよ」

 昔から内気で、他の子ども達とはちっとも仲良くなれなかったけれど、でも周りの大人達は優しくて、だからこの公園では楽しかった思い出しかない。

 ベンチに座って、絵本を読んで、それで、いつも誰かから声を掛けてもらうのを待っていた――そんな子どもの頃の話をすれば、おじさんは私の話を全く聞いていないのか、懐かしいな、なんて空を見る。

「俺も学生の頃はよくここに来てたよ。都会に出て来たばかりで、貧乏学生だったから行く所なんてなくてな」

 おじさんは珍しく自分の話をしていて、その表情は感慨深げ。おじさんの話をもっと聞きたくて、いつもとは逆、私からおじさんに質問を投げかける。

「ここの出身ではないんですね」

「ああ、出身は東北の田舎の方でな。近くには城があって、米が美味くて、勿論酒も美味い。良い所だよ」

 おじさんはにっこり笑ってゼリーの蓋を剥がす。

 その様子を見てそういえば中華まんを買ってもらっていた事を思い出した。いただきますと食べ始めたけれど、やっぱり少し冷めていたみたい。

 でも、美味しい。

「風情のある、良い所で育ったんですね。それなら、たまに帰ったりもするんですか」

そう聞けばおじさんの表情には翳りが見えて、何か、聞いてはいけないような事を聞いてしまったみたいで、思わず目を逸らしてしまう。

「いや、大学を出たら実家に戻るつもりだったんだが、強引に都会に残ったもんだから折り合いが悪くてな。もう何年も帰ってないよ」

「そうだったんですか……」

 やっぱり、聞いてはいけなかったみたい。どうにか明るい話に持っていきたいけれど、生憎私にはそんなコミュニケーションスキルなんて備わっていない。

 結局黙りこくってしまって、ああ、情けない。

「だがもうすぐ実家にも顔向けできるようになるんだ。全部嬢ちゃんのお陰だよ……。だからそんな顔するな。な?」

 そうして口元に運ばれたのはゼリーに入っていたミカン。

 なぜ私が感謝されたのかが分からずに首を傾げれば、心配しなくても食べかけじゃないさ、とおじさんは笑う。

 私が気になっているのはそんな事じゃないけれど……でも、おじさんに優しくしてもらえるのは嬉しくて、ありがとうございます、とそのままゼリーを食べさせてもらうのだった。

「すっぱい、ですね」

あんまんの後に食べるミカンは酸っぱい。そんな当たり前の事が可笑しくて、くすくすと笑う。

 おじさんはそりゃそうだろうと笑って幸せな朝の時間は過ぎていく――


「おじさん、今日の予定はなんですか」

手を繋いで帰って、おじさんの部屋。

 どこか落ち着かない様子の山葵を構いながらおじさんに聞けば、何も無いからゆっくりしていくといい、とココアを持ってきてくれる。

 やっぱり二日間お休みがあってよかった――最初は休みは一日だけのつもりだったけれど、ミケさんから事情を聞いた店長が二日間もお休みをくれた。

 ただでさえ人が少ない職場、私がデートに行くなんて噂は瞬く間に広がって、お店の皆は大盛り上がり。

 人の恋愛事情程面白いものはないと笑うジョンさんに、恋愛話大好物を自称する凛子さん、俺も彼女とデートに行きたいと漏らす芋丸さんに、普段は会わない昼間のパートさん……とにかく皆が面白がっているものだから明日の出勤が憂鬱だ。

 一体何を聞かれるのか、なんて返事をすればいいのか、そんな事を考えているとおじさんが隣でくつくつと笑う。

 私の表情がころころと変わるのが可笑しいらしい。

「バイト仲間からの質問攻めが憂鬱なだけですよ。だって初めてのデートなんですもの。私の胸の中だけに留めておきたい、って思っちゃうじゃないですか」

ね、とおじさんの顔を見れば、今まで見た事もないくらい狼狽していて、思わず私まで焦ってしまう。

「あの、おじさん?」

 しばらく額に手を当てて何かを考え込んでいたおじさんは、それからゆっくり息を吐いて、私の顔を真っ直ぐ見据えると、意を決したように口を開く。

「嬢ちゃん。おじさんの話を笑わないで聞いてくれるか」

真っ直ぐな瞳から目が逸らせない。

 迷いも、憂いも、恐れもない、綺麗な茶色の瞳。

 何も言わずに頷いた私は、これから何を言われるかなんてわかっていた。自意識過剰なんかじゃない。

 確信してた。返事だって既に容易してある。さあ、どこからでもどうぞ――

「おじさんな、嬢ちゃんの事――」

「一文さん! どうなってるんですか!」

最後の一言は、玄関からの、女性の声に邪魔をされたようで、そのまま途切れてしまった。

 部屋の中には威嚇する山葵とすっかり固まってしまったおじさん、目を丸くする女性と、言葉を失った私。

「あら、こんにちは。私一文さんのたん――」

「都ちゃん、まだ話してないからそれ以上は黙っていてくれないか。嬢ちゃんはちょっと待っててくれ。すぐ戻るから」

落ち着きを取り戻そうと咳払いをしてから話し出した女性を遮ったのはおじさん。

 そうしておじさんは寝室とは別の、私が入った事の無い部屋に入っていく。

 残されたのは山葵と私と、都と呼ばれた女性で、その都さんもおじさんの後について部屋に入っていく。

 なんて事……でも、そうだった。私はおじさんの事を何も知らなかった。

 名前も、何をしていて、どんな人と付き合いがあるのかも、年齢も、出身も、何もかも、何もかも……。

 絶望に打ちひしがれている私の耳に入るのは部屋からの喋り声。


「まだ話してなかったんですか。また随分と歪な……」

「都ちゃんが来なければ全部話せてたんだよ。ほら、全部持ってけ。ったく、こんなもん嬢ちゃんに見られたらどうすんだ」

「あら、随分な物言いですね。私がどれ程頑張ったか……」

「ああ、だから都ちゃんには感謝しているよ。ありがとな」

「私が好きでやってる事なのでお礼は結構。私は貴方の味方ですから、いつでも頼ってくださいね」


 一度マイナスへいってしまった感情は、簡単にはプラスへもっていけない。

 人の心というものはなんて難儀なものだろう。電源の落ちたテレビに写ったのは今にも泣き出してしまいそうな私の顔で、ぐるぐるとこんがらがった思考の中でぐらぐらと沸きあがる感情は醜い嫉妬心。

 山葵に一言ごめんねと謝って、気付いた時にはおじさんの家を飛び出していた――自分の醜い感情に嫌気が差す。私はこんなに嫌な人間だったか。

 いや、私は悪くない!

 おじさんが!

 あの女性が!

 でも、私が!

 馬鹿みたい、馬鹿みたい馬鹿みたい!

 おじさんの事を何も知らなかったのに! 知らないのに!

「なんで期待しちゃったんだろう……」

遠ざかる部屋に向けて、吐き捨てるように言った言葉は

「どうぞ、私の事なんて気にしないで下さい」

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