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大変お待たせ致しました

 にゃあ――扉の先にいたのは山葵。駆けてきた山葵は私の足にするり、擦り寄る。

 お出迎えありがとう、人懐っこいね、と撫でてあげるとおじさんはそうでもないぞと首を振る。

「こいつ、俺と嬢ちゃんくらいにしか懐かなくてな。客が来た時は威嚇するか隠れるかのどっちかなんだ」

「こんなに甘えん坊なのに、ですか?」

 腰を下ろせば私の膝の上に飛び乗って丸くなる。耳の後ろを撫でてあげればごろごろと喉を鳴らすので、リラックスしているのだろう。ますますおじさんの言っている事が信じられない。

「猫ってのはそういう生き物らしい。仕事仲間が言ってたよ」

キッチンからマグカップを二つ持ってきたおじさんが、その片方を私に手渡しながら言った。

 受け取ったカップにはなみなみとココアが注がれていて溢しそうになってしまうものだから、慌てて啜って、そうすればおじさんは意地悪そうに笑うのだ。

「嬢ちゃんが消費してくれないと困るからな」

「ありがとうございます。でも、いくらなんでも多すぎますよ」

溢しちゃうかと思いました、と笑えば、おじさんはすまないな、と頭を掻く。

 すると私達の楽しそうな空気を察したか、ココアの甘い匂いに誘われたか、山葵はむくりと起き上がってすんすんと匂いを嗅ぎ始めた。

「残念、山葵くんは飲めないんだなー」

そう言ってマグカップをテーブルの上に置き、近くにあった猫じゃらしで山葵を誘ってみる。

 背中の方で隠してみたり、近くまで持っていったり……山葵も遊ぶ気は満々のようで、すぐに飛び掛ってきてくれて、無邪気に遊ぶ姿が可愛らしい。

「お、釣れた釣れたー。山葵くんは上手ですねー」

 最初に遊んだ時よりも随分の身のこなしが良くなっている気がするので、多分いつもおじさんに遊んでもらっているんだと思う。

 もう一度、猫じゃらしを見せびらかして、隠して、揺らして……山葵色した瞳がきらり、鈍く光った瞬間に山葵は飛び込んできて――

「残念、君の動きはもう見切ってるんだなぁ」

するり、捕まらないように猫じゃらしを持ち上げる。山葵の困ったような、苛々しているような顔が可愛くて、ついつい顔がにやけてしまう。

「良かったな山葵。大好きな嬢ちゃんに遊んでもらって」

にこにこと私と山葵の様子をみていたおじさんが嬉しそうに口を開く。

 どうやら山葵は私の事が好きらしい、けれど、一体どういう事なのか。何の事ですかとおじさんに聞けば、おじさんはこれまた嬉しそうに話しだす。

「それがな。こないだ嬢ちゃんが帰った後、ずーっと玄関で鳴いてたんだ。それから毎日、俺が嬢ちゃんと会って家に帰ってくると必ず俺の匂いを嗅ぎに来るんだ。多分、嬢ちゃんの匂いがするんだろうな。猫は鼻が利くらしいし」

そうなの、と山葵を見ると彼はひとつ、にゃおんと鳴く。

「そっかそっか。じゃあ……私が山葵を貰っちゃおうかな」

おじさんも山葵も、あまりにも可愛いものだから少し意地悪をしたくなって、おいで、と山葵に声を掛ける。

 てててと寄ってくる山葵の邪魔をしたのはおじさん。

「いくら嬢ちゃんでも、それはいかんなあ。山葵は俺の事も好きだもんな」

 優しく山葵を抱き上げたおじさんは、山葵に頬を摺り寄せて、そうすれば山葵もまた、嬉しそうに目を閉じる。

「山葵くんは罪なにゃんこですねー」

 妬けちゃいます、と言ったのはどちらにか。

 どちらにも、かも知れない――

 少し冷めたココアを飲んで、何気なく部屋を見渡すと前に来た時より、幾分か片付いているような気がして首を傾げる。山葵のおもちゃや食器など、ペット用品が増えたというのに、どこかすっきりとしていて、なんというか、生活感があまりない。

「ああ、山葵と暮らすようになってから少し片付けたんだ。悪戯されたり、逆に山葵に何かあったら溜まったもんじゃないからな。それに……嬢ちゃんが泊まりに来るから、少し気合を入れて片付けたよ」

私の視線に気付いたおじさんがはにかみながら教えてくれる。

 前までは女の子をあげられるような部屋じゃなかったからな、なんて。そんな事を言われたら嬉しくなってしまう。

「そうだったんですね。わざわざありがとうございます」

「礼なんていらんよ。今まで散々散らかしてたんだ」

おじさんは、いい機会ってもんさ、と付け足すと、コーヒーを飲み始める。

 マグカップでコーヒーを飲む姿は、ケーキ屋さんのお洒落なカップでコーヒーを飲んでいる時よりも、自販機前で缶コーヒーを飲んでいる時よりも、似合っている。

 ここまでしっくりくるのは、私が見慣れている、見慣れないの話ではなく、きっといつもこうやってコーヒーを飲んでいるからなんだと思った。

「おじさん。マグカップの方が似合ってますよ。とても、格好良いです」

にっこり笑って伝えて、そうすればおじさんはそうだろう、そうだろう、と得意げな顔でコーヒーを啜る。

 おじさん自身もそう思っていたみたいで、家で飲むやっすいコーヒー程美味いもんはないな、と笑ってた。

「勿論、嬢ちゃんと話しながら飲む缶コーヒーも美味いぞ」

よいしょと立ち上がったおじさんは私の隣へ移動してきて、さらり、私の髪を梳く。眼差しは至って穏やか、焦りも、迷いも無い。

 心地よさに身を任せておじさんの肩に顔を預ければ、隣で小さく息を吐く音が聞こえた。

「眠いのか。おじさんの添い寝は高いぞ?」

おじさんはくつくつと笑って私の肩を抱き寄せるので、私は肩に回された手にそっと触れて

「お支払いできないので遠慮します」

なんて軽く笑ってみせる。

 ほら、今は冗談だって上手に返せる。今日だけで一歩も二歩も、何歩も先に進めた気がして、私はそれが嬉しくて、でも少し疲れてしまったみたいで、重たい瞼が落ちてくるままにそのまま目を閉じた――

 しばらくして目が覚めて、ちらりと時計を見る。時間はそんなに経っていないみたいだけど、相変わらず私はおじさんに凭れ掛かったままで、そういえばおじさんは何をしているのだろうと顔を少しずらして見ると、難しそうな顔をしてスマートフォンを見ていた。

「ごめんなさい。ちょっとうとうとしちゃって……」

重かったですよね、と離れて、おじさんの様子を伺う。

 勝手に枕にしてしまうなんて、申し訳ない……。

 頭は下げたまま、ちらりとおじさんの顔を見れば険しい顔はどこへやら。すっかり笑顔になっていて、それからひとつ伸びをして私の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「よく寝てたな。怒ってないから安心しろ」

よしよしと頭を撫でられて、顔を上げればそろそろ寝るかの一言。言われるがままに頷いて、おじさんはそれを確認するや否や私の腰に手を回す。

「え、あ……おじさん?」

「手、首に回せ」

これまた言われるがままに抱きつけば、よっこいしょの掛け声と共に私の体は宙に浮く。

 お姫様抱っこ――女の子の憧れは、急にやってきた。突拍子もなく、そしてあまりにも色気がないものだったので、すっかり眠気も覚めてしまい、私は困惑するばかり。

「あの、おじさん。恥ずかしいので降ろして下さいっ……」

 私の体はおじさんに支えられているので下手に暴れる事も出来ずに懇願するけれど、おじさんはそんな事お構いなし。

 私を抱えたまま寝室へ入り、ベッドの上にそっと私を降ろしてから、また私の頭を撫でる。

「すまんな。嬢ちゃんが可愛かったから、つい」

そう言っておじさんは私のすぐ傍に座る。これは、この流れは、もしかしたら――

「じゃあ、嬢ちゃん――」

「あ……」

 伸ばされた手に思わず目を閉じる。

 さっきまで安心していたはずの私の心臓はどきりどきりと飛び跳ねて、このままではおかしくなってしまいそう。

 僅か数秒の間に、私の頭はぐるりぐるりと色々な事を思案する。

 いつか雑誌で読んだ通りにすれば?

 覚悟を決めて自分から?

 一体どうすればと考えるけれど、肝心のアクションは一向に起こらない。

 もう煮るなり焼くなり好きにして下さいとうっすら目を開ければ、困ったような、泣きそうな顔をしたおじさんがこちらを見ていた。

 手は宙で静止したまま、乗り出した体も、何もかもが止まったまま。その表情、様子を二文字で表すなら、“憂悶”。

「おじさん……」

 きゅっとおじさんの手を握り、こちらに引き寄せれば、私を抱き上げても、私が凭れ掛かってもびくともしなかったおじさんの体は、いとも簡単に倒れてきてしまう。私を押し潰さないよう、

 腕で体重を支えるおじさんの頭をそっと包み込むとおじさんはふっと息を漏らす。

「大丈夫ですか? とても、苦しそうでした……」

 おじさんの真似をして、よしよしと頭を撫でて、髪を梳いてみる。

 私の髪とは違う、男性の、でも男性にしては少し長めの髪。サラサラには程遠くて、上手に梳いてあげる事は出来ないけれど、それでも撫で続けた。

 黙ったままだったおじさんはしばらくしてから

「ごめんな、嬢ちゃん」

と、一言呟いて起き上がる。おじさんの温もりが離れていって、それが名残惜しくて、おじさんの手に指を絡めてみる。

 そうするとおじさんはまだひとつ、ごめんなと謝った。

「おやすみ、ってすぐに出て行くつもりだったんだが、すまん。おじさんちょっと体調が優れないみたいだ。ありがとな、嬢ちゃん」

 最後に掴んだ指もするりと抜けて、おやすみの一言と共におじさんは部屋から出て行く。体調が優れない、というのは嘘。

 そんな事わかっているけれど、悩みがあるんですか、なんてとてもじゃないけど聞けなくて、私なんかじゃなんの力にもなれそうに無くて、悔しくて、寂しくて、枕に顔を埋めてただただ泣いて、そうして気付けば夢の中。

 おじさんとのデートの余韻に浸る暇も無く、寝てしまっていたのだ――


 翌朝、目が覚めるとお腹の上で山葵が鳴いていた。まだ起きるには早い時間だけれど、にゃあにゃあという鳴き声は何かを訴えているようで、どうにも落ち着かない。

「山葵、どうしたの?」

 むくりと起き上がると山葵はとん、と床に降り、こっちに来てと言うようにこちらを振り向きながらリビングの方へ駆けていく。山葵の後を歩いてリビングへ向かうとおじさんの気配。

「おじさん、おはようございます」

 もう起きているのかしらと声を掛けた私の目に入ってきたものは、こたつに突っ伏したまま寝ているおじさんと、その周りに転がった酒瓶、そして心配そうにうろうろとしている山葵で、ぴたり、思考が停止する――

「お、おじさん……?」

声を掛けていいのか悪いのか、分からないけれど、このままではおじさんが風邪を引いてしまう。

 とにかくなんとかしなければと寝室から毛布を持ってきて、おじさんにそっと声被せてあげれば、少し、苦しそうなおじさんの声。

「飲み過ぎですか、おじさん」

「ん……しい……。ごめんな、詩歌ちゃん……」

「え」

おじさんが譫言のように繰り返す名は、詩歌しいか

 聞き間違えでもなんでもない。

 それは間違いなく、紛れもなく、私の名。

 まだ教えていない名前を何故おじさんが知っていたのか、さっぱりわからない。

 けれど、このままの状態では聞けそうにもなく、放って二度寝という訳にもいかず、結局おじさんの隣、すぐ傍で、彼が目を覚ますまで待っていようと思うのだった――

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