感情におかえり
私の居場所は四畳半の小さな部屋、その片隅にあるベッドの上。そこで何をするわけでもなく、日がな一日、ずっと寝ている。
世間では私のような人間の事をNEETっていうらしい。
職も無く、趣味も無く、家族とも話さず、与えられるがまま最低限の食事のみを摂って生きていた。
両親に申し訳ないと思ったことさえあれど、それでも退屈だと思ったことは一度も無く、難しいことは何も考えず、ただただ生きる事だけを考える――
それは宛ら植物のようで、そして私はそれが心地良いとすら思える程に、人間として腐敗してしまっていた。
午前二時。出ようと思えばいつでも出られるはずの外の世界へ思いを馳せるように窓の外、すぐ傍の曲がり角にある自販機をぼうっと見つめる。
人々は既に眠りについているだろう、その時間に決まって彼は現れた。男性にしては少し長めの髪に無精髭、浅黒い肌に咥えタバコ。見るからに怪しいおじさんだけれど、しん、と静まり返った住宅街、動いているのは私とおじさんの二人だけ、そう考えると不思議なもので、同じ時間に生きている人間がいることが嬉しいような、安心したような、そんな気持ちになるのだった。
おじさんは寒い日も、暑く寝苦しい日も、雪の日も、雨の日も、決まって同じ飲み物を飲んでいた。私の視力では何を飲んでいるのかはわからないけれど、いつもパッケージは同じ、黒い缶。
両手で掴む様子を見ると、きっと温かいものを飲んでいるのだと思った。おじさんがどんな仕事をしているのか、何故この時間に自販機に来るのか、そんな事を考えながら見ているものだから、私の想像の中のおじさんは毎日別の職に就いている。
昨日は張り込み中の刑事さんで、一昨日は深夜の勤務を終えたレンタルビデオ店の店員さん、そして今日は気分転換に散歩に出掛けた役者さん――たまたまおじさんを見かけたその日から、彼を眺めるのが私の日課になっていて、しかしそこに他意は無く、ただただ日常のひとコマとして今日もなんとなく、おじさんを眺めていたのであった。
午前二時七分。タバコを吸い終えた彼が帰っていく時間だ。
いつものように角を曲がるおじさんを見送って、眠りに就く――つもりだったけれど今日は違った。
ふいに目が合い、手招きをされたのだ。
心臓が跳ねる。見つかってしまった。反射的に隠れたけれどどうしよう、家もバレている、怒られてしまうかも知れない。
どきどきと忙しなく動く心臓を押さえ込むようにしてもう一度、窓の外を見る。また目が合って、今度は一層大きく、心臓が跳ねた。
「こ、ち、に、お、い、で……?」
ぱくぱくと動くおじさんの口に合わせて喉の奥から声が出て、もう長らく自分の声を聞いていなかったことに気付く。
「少しだけなら、大丈夫」
確かめるように呟き、彼の目を真っ直ぐ見据え、頷いた。
ベッドから降り四畳半の小さな部屋、その出口に手を掛ける。そういえば、もうずっと外に出ていない。外に出る恐怖心はあったけれど、でも、いつも見ている彼と少しだけ、お話してみたかった。
一歩一歩、寝室で寝ている家族に気付かれないようにゆっくりと階段を降り、玄関扉の前に立つ。外にはおじさんしかいない、大丈夫。ひとつ深呼吸をしてから、その扉を開いた。
ひんやりとした冷気に身が竦む。
何か羽織ってくれば良かったと後悔しながら自販機へと向かえば、いつも部屋から眺めるだけだった彼がニコニコと手を振っていた。
「はじめまして、お嬢ちゃん」
温かみのある低い声に迎えられるが、緊張してしまい上手に返事が出来ない。
「あ……えっと……」
少し皺があるけれど、整った顔だった。目を合わせる事が出来ずに俯けば、どうしたのかと顔を覗き込まれる。
「そうか、はじめまして……ってのも変だったな。ずっと、見てたんだもんな」
気付かれていた事に驚いて顔を上げると、おじさんも驚いたように目をぱちくりさせていた。
「気付いてたんですか……?」
「嬢ちゃんが俺を見ていることに気付いた時から、何度かこうやって手招きしてたんだが……そうか、嬢ちゃん気付いてなかったのか」
「ごめんなさい。その、ずっとおじさんのこと見てたんですけど、私、ぼうっとしちゃう癖があって……あ、やだ。これじゃ私まるでストーカーみたい……」
勘違いだったみたいだ、すまん。と一言付け足されて、慌てて否定したものだから余計なことまで言ってしまい、私の頭は更にこんがらがってしまう。
そんな私を見ておじさんはからからと笑っていた。
「何も怒ったり取って食ったりなんかしないさ。ゆっくり喋ればいい。聞いててやるよ」
くしゃりとしたおじさんの笑顔に心がぽかぽかするけれど、相変わらず言葉は浮かんでこない。
見かねたおじさんが
「……嬢ちゃん、喋るの苦手か?」
と聞き、こくりと頷けばそうかそうかとまた笑う。
「じゃあ、俺から聞こう。俺ってそんなにおじさんかい?」
ぴたりと私の思考が止まったかと思えば会話がぐるぐると巻き戻る。
一度だけ、確かにおじさんと呼んでしまっていた。
「ああ、ごめんなさい。全然、そんなことないです! おじさんって言う程おじさんじゃないし、でもお兄さんって呼ぶには変かなって思って……」
「あーあー、ごめんな。ちょっとからかったつもりだったんだが……」
「あ……ごめんなさい」
冗談を真に受けて、変に焦ってしまったことが恥ずかしい。久しぶりに人と話したけれど、やっぱり私には難しかったのかと気分が沈む。
「いんや、気にすることないさ。ただ、嬢ちゃんは純粋なんだなー、って。……そうだ、何か飲むか?」
おじさんはじゃらりと小銭を出す。いいんですか、と控えめに聞けば、俺が呼んだんだからいいんだよ、と返された。
ホットココアを差し出され、一口飲む。甘みが口に広がり、ふわりと香りが鼻孔を抜ける。
おじさんは缶コーヒーを塀の上に置くと、ライターでタバコに火をつける所で、ああ、いつも飲んでいたのはこれだったのかと謎が解けてすっきりしたような、そんな気分になった。
「ああ、すまん。タバコ、平気か?」
「はい、大丈夫です。あの、ココア、買ってくれてありがとうございます」
「ん、幸せそうだな」
よくわからないまま頷けば、おじさんは嬉しそうに目を細めた。
「あんまり嬉しそうに飲んでるからな。嬢ちゃんも笑ってくれたし、おっちゃんは満足だよ」
「わら……?」
笑っていたかなと首を傾げるも、頭の中に浮かぶのはクエスチョンマークばかり。
「笑ってたよ。いい笑顔だった。嬢ちゃん、いっつも辛気臭そうな顔して窓の外見てたろ? 俺が気にする事じゃないかも知れないが、心配だったんだ」
心配――この世界で家族以外に私のことを気に掛けてくれている人がいたのかと、はっとする。それが形だけだったとしても、本当だったとしても、そんなことはどうでもよくて、私のことを見ていてくれた人がいたという、その事実が嬉しかった。
「そうだったんですか。知らない間に心配掛けてしまって、ごめんなさい……」
それと同時に、私は人から心配されるような価値もない、居ても居なくても変わらない人間なのに、と申し訳なくもなる。
「まあ半分おせっかいみたいなもんだからな、気にするな。ところで嬢ちゃん、こんな時間に連れ出した俺が聞くのも変な話だが……明日は平気か?」
「あ……」
息が止まった。あまり、触れてほしくない所だった。上手に誤魔化せない、そう思ったけど本当の事も上手に話せそうにない。
何か答えなければ、と口を開くもそこから出てきたのはなんとも間抜けな声で――
「えと、その……お仕事、してない、の、で……」
大丈夫なんですよ、と笑って言ってるつもりだったのに、口の端は情けなくヒクヒクと動くばかりで笑顔には程遠い顔をしているのだろう。呆れかえってしまう程、情けない。
「そうだったのか。嬢ちゃん、苦労してるんだな……」
呆れさせてしまうか、お説教されるか、てっきりそう思っていたのにおじさんの口から出たのは同情の言葉。
顔を見上げればその瞳は慈愛に満ちていて、思わず逃げてしまいたくなる。
働いていないのも、引きこもっているのも私が悪いのに、苦労する道から逃げているだけなのに苦労しているだなんて!
「そんな事、ないですよ……」
今にも溢れ出しそうな涙の理由はわからない。見知らぬ人に優しくされたから、同情されたから、自分が情けないから……思い当たる節はいくつもあるのに――
次、何かを言われたら泣いてしまいそうで顔を背ければ、部屋着のフードを被せられる。
「ほれ、寒いだろう? 被っとけ」
泣きそうな顔を見せないようにぐっと目深にフードを被り俯き気味におじさんの方を向けば、おじさんは似合ってるじゃないかとくつくつ笑う。
「あの、ありがとうございます……」
深々とお辞儀をすると、おじさんはさて、なんのことやらと空を見る。
「久しぶりに人とお話して、久しぶりに優しくされました。それと久しぶり、に、笑いました。だから、ありがとうございます……!」
途中で、堪えてたものが溢れてきた。涙がぽたぽたと落ちる、声が震える、でも、そんなことは関係無くて、ただただおじさんにお礼を言いたかった。ありがとうございます、と。
「礼を言われるようなことはしてないさ。さ、嬢ちゃん、寒いんだろう? 早く戻りな」
それからおじさんは、こんな夜中に外にいたのが親御さんにバレたら俺が怒られちまう、と一笑した。釣られて私も笑うと、ぽん、と肩に手を置かれる。
「無理はするな、ゆっくりでいいさ。じゃ、また明日な」
布越しに手の温もりが伝わってきて心まで温かくなったような、そんな気がした。
また明日の一言が嬉しくて、はい、と笑顔で頷けば、今度は頭を撫でられる。
「明日はもっと話そうな」
ひらひらと手を振るおじさんを見送り、言われた言葉を反芻すれば自然と胸が高鳴る。
ああ、心がうきうきしてるんだ、そう思った。
そうして久しぶりの感覚に戸惑いながらも、いつもよりずっとずっと幸せな気分に眠り就いた――